水底の歌―柿本人麿論 (下) (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101244037

感想・レビュー・書評

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  • 下巻は真淵の人麿論を徹底的に検証する。著者の批判者は多いようだが、反対論は読んだ事ないが、著者の論には納得いく点が多いし、きっとどの時代もドロドロしていたんだろうなと思う。怨霊の力がその怨霊を拝める事で神として祀っていくという流れも納得出来る。過去も現在も未来も人間の根本的なところは変わらないんだろう。しかし人麿論だけでなく万葉集はなぜ作られたかなど、周辺を総合的に理解していく事でしか真実には辿り着けないのだろう。そういう意味でも圧倒的な知識量を背景にグイグイ展開される人麿論は圧倒的だった。古代学にも興味が湧いた。あとがきも良かった。結局批判している人も対談に応じてないようで、何だかなと思った。色々勉強になった。

  • 契沖と真淵の万葉集理解、その伝統学説の常識を根底的に覆す日本古代史の大論考。江戸時代の国学者がロマン主義的な古事記や万葉集の定説形成、これに対して藤原不比等など政治権力蠢く律令制下欲望社会の暗黒面も含む現実に古代学を引き戻す、口承と文献を地道に渉猟し組み立てていく。怨霊史観の側面もありゾクっとする。
    人麻呂の年齢・身分・古今集の序文論について徹底的に批判し、先の茂吉批判も含め、作者独自の柿本人麻呂論を作り上げていく。発想の革新性、従来印象との違い、諄いところもあるが論理的体系的なキレの良さに引き込まれる。
    学会の反応も解る気がする、最終的に今の史観はどうなっているのかも知りたい。
    「神々の流竄」「隠された十字架」と3部作読まなければと思う。


  • 再読。真淵、茂吉の人麻論を主に、誤謬を突きながら定説と言われてきた歌聖の、主に晩年人生を見事にひっくり返してくれます。たくさんの資料による提示、素直な解釈によってかえってすっきり血の通った人生の見えてくる面白さ。綺麗事じゃすまない古代史が血生臭く、それがまたもっと知りたい!と好奇心をつついてくれました。力でねじ伏せる論じゃないから大好き。

  • 先日亡くなれた梅原猛氏の入魂の大作『水底の歌』を読み終えました。
    まさに衝撃の作品と言ってよいでしょう。
    『万葉集』や『古今集』などに関して専門的知識のない私としては、
    彼の言っていることが正しいかどうかわかりません。

    ただ、賀茂真淵や本居宣長が言ってきたこと、
    また斎藤茂吉や多くの現今の学者が言っていることが
    必ずしも正しいとは限らないということを確認できただけも
    有意義な書物であったことと思っています。

    さて、この本のテーマとなっているのは柿本人麻呂という万葉歌人その人です。
    いつ何処で生まれ、何歳で何処で泣くなったか詳しくはわからいけれど、
    古今集よりこのかた「歌聖」と仰がれている大歌人です。

    「正史」、すなわち日本書紀、古事記などに登場していない歌人が
    天皇の行幸に伴い、皇子などの挽歌な数多くの歌を詠むことができたのであろうか?
    これが古来より謎の部分として幾多の学者、歌人に論じられてきました。

    今日多くの学者などは江戸時代の国学者、賀茂真淵、本居宣長らが唱えた説を
    概ね支持しているようです。斎藤茂吉もそれにそって独自説を展開しています。
    すなわち、人麿は六位以下の舎人で、朝集使でもあったらしい。
    最後は舎人から地方の下級官僚となり、石見国で亡くなった。
    また、古今集の序に謳われている文言の一部
    (五位以上を示す大夫を付して「柿本大夫」と記された)は
    後世書き換えられたものである。

    梅原は石見国の微官が持統天皇のお供をしたり、皇子の歌を読んだりできるか?
    たとえ舎人の身であったとしても、律令制度の中、多くの皇族に接触することは考えられない、
    とまず疑問を提示します。
    また古今集は天皇のさししめした勅撰歌集である、みだりに書き換えることはありえない、等々。
    彼の論法は気持ち良いほど明快で、過去の常識をずばずばと断ち切ってゆきます。
    そのスジの運びは昔読んだジョセフィン・テイの『時の娘』を読んでいたときの興奮を
    呼び起こしてくれました。

    彼が言っていることが真実かどうかは勿論私には全くわかりません。
    でも、「あらゆる権威や前提を疑い、すべてを自分の論理で判断し、
    確実な基礎の上に一歩一歩論証を重ねて行く」
    こうした姿勢に私は心打たれました。
    世の人々、否、特に学問に携わる人はこうあってほしいなと思っています。

  • 這卷裡面論及柿本猨其實就是人麻呂被改名,武則天的時代極其以改名作為刑罰。另外還提到不可不忽視武則天對這些女帝的影響,還有當時中國道教多麼地影響這些人。吉野在當時還不是賞櫻勝地(平安朝才是),而是類似中國道教的仙境,他們在那裏吟詩作對,號稱遠離塵埃卻完完全全在官場之中,這種巡行也是一種政治,持統帝也不斷利用這件事建立她的神/仙權威。藤原不比等等人的五言詩實在非常出色,對仗工整無比,令我非常驚訝。完全沒有後世寫漢詩的和味,而對仗這麼精美真的很驚人,可見當時上層人士多麼深刻地浸淫於中國文化之中。另外,人麻呂當時正好處於天照大神神話草創的階段,不比等(高木神)等人正意圖把這個新創的東西弄成好像很久的傳承。天孫降臨的故事是為了鞏固持統帝血統的神話,一開始在人麻呂的歌中降臨的命令者還是八百萬神合議(現實許多勢力折衝妥協的結果),大祓祝詞裡面就加上了皇神,古事紀(元明天皇)就單純變成天照大神和高木神的命令,日本書記(元正天皇)時就變成只有高木神(外祖)單獨的命令,這顯然可以看出權力的流變。

    接著提到官位考,作者主張史書上登場的從四位下柿本猨正是人麻呂(真淵及許多學者懷疑人麻呂如果是おほきみつのくらい,何以不會出現在正史),因此他可能是春宮大夫或中宮大夫,是屬於和皇族相當親密的官職,這也可以證明他的詩多半與皇族息息相關,正是因為這個身分。而傳說中的神祕歌人猿丸大夫,應該就是人麻呂,被流放到近江的遺跡應該也和他有關。

    作者提到萬葉集是鎮魂的歌集,至少原始的一二卷是暗暗地讓批判藤原家的人安息,後來大伴家持私編的部分也在他過世後,為了早良親王的鎮魂,讓其近臣大伴家持的私集提升為敕選。再者,人麻呂被提到正三位,這種異例的晉升不是子孫高升,就是追贈怨靈鎮魂,而傳說中他的忌日正是3月18日,正是許多怨靈相同的忌日(春分彼岸前後共七天的正中間)。家持是從三位,人麻呂一定得比他高。

    作者提到平城天皇與人麻呂的「身をあはせたり」,其實並不是指同時代,「キリスト教でいうincarnationつまり「受肉」のようなものではないか。生きている人間が互いに身を合わせるというのは、むしろおかしい。一人の人間が霊となって、他の人間に身を合わせる.....われわにゴッホが乗り移ってくるのである。ゴッホの魂が...われら自身に語りかけてくる。もっといってみれば、我々自身に、ゴッホの魂が宿ってくる。真の芸術とは、そうした不思議な力を持っている。そして、われわれが一つの芸術を理解するというのは、わが身の中に動いている芸術家の心を感じることなのである。....「身をあはせる」という体験無しに、いかなる芸術の創造、あるいは理解も可能であるとは思えない。...生きている平城帝と、死んだ人麻呂の魂は、相互に感応し合ったわけである。平城帝は、真の意味に於いて人麻呂の芸術を理解する。生ける平城帝と死せる人麻呂の間には、魂の共同体が樹立されたというのである。時間の隔たり、空間の枠を超えて、魂の共同体をつくる。それは、宗教や芸術や文学のような世界において、はじめてゆるされる自由なのである。政治とか経済の世界において、せいぜい共同体は生きている人の間においてのみ、つくることができる。しかし、文化の世界は別である。われわれが古典を読むことは。古人とわれわれの間に、精神の共同体を成立せしめることができることを意味するのである。...帝と人麻呂の間深い魂の感応といったものであり、帝の心が人麻呂に通い、人麻呂の心は帝に通い、ここに一つの美的共存の世界を現出した」他提出這正是藝術的本質,只是被理性至上的儒學者完全誤會抹殺。

    作者說到現在是個精神及其低俗的時代,雖然我們總是幻想著我們在進步、在進步。絕望則是他做出這一切偉大研究的原動力....我被這句話的沉重給震撼到了,闔上書之後依然沉吟不斷。古代那生與死界線模糊的時代,我們對於靈魂的相交契闊尚抱持著相信,而我們也依然保有越界的能力,或許不需要任何所謂的超能力。今天連這種文學藝術的想像力都變成超能力了,只剩下人物理上可否分解成什麼粒子移動,和穿越時空的太空船與鬧劇。鬧劇中古人永遠為著當代的便利與科技感到震驚,在偉大的進步文明之前發抖,彷彿是一個鄉下土包子。不過,我們卻忘記,不需要那些,我們也可以超越時空,天人合一,與所有時代的人對話,只要我們用心去感受藝術與文學,甚至是宗教。至少古人的眼界並不是困在手機的小方框中讓演算法決定你可以看見什麼,他們看見的並不只是現下的每一分每一秒,至少他們還感覺得到歷史的長河與脈動,而不像今天的宅宅們三不五時在網路上問文科為啥還不廢掉。宏遠的精神世界,血脈噴張,高度警戒地度過分分秒秒,生和死是那麼地貼近,人和神還同住在同一世界。至少那時我們還記得,活著這件事是多麼地多彩而豐饒。

  • 下級役人として石見で死去したとされる万葉の歌人:柿本人麿(人麻呂)を藤原不比等を頂点とした当時の政府から官位をはく奪され、名前も人からサルに貶められて、遠い石見に流されたうえで刑死(水死)させられたとする論文の後編。

    丁寧な考証なので、気が短い人には堪えられないかも…(笑)

    上巻の斎藤茂吉さんの『鴨山考』批判に続き、こちらでは契沖さんや賀茂真淵さんといった徳川時代の国学の権威の定説に反論し、新たな人麿像を提示していました。

    国史に直接人麿さんの名前がないことや、古今和歌集の序文から来る人麿さんの官位や年齢、万葉集編纂期についての問題など、丁寧に論証しているので「なるほど~♪」って思うものが多かったよ。

    ただ、丁寧な分、話が長い文章を挟んでループするので、わかったような気になってしまうところがコワい!
    根本的に理論の整合性に問題はないと思われますが、趣味で読んでいる立場での感想なので、学問としてやる方は何度か読みなおすと良いでしょう。

    しかし、子孫が偉くなると先祖に不利な部分は正史からすらも削っちゃうんだから、まさに歴史は勝者のものなんだねぇ~。

  • 2ヶ月近くかかったであろうか。通勤途中のみで読んでいたから、本書を読んでいる間にほかに5冊の本を読んでレビューを書いている。パートナーの実家は島根県大田市にある。邑智郡までは車で1時間足らず。それを目的とはせずに、偶然見つけて入った柿本人麿および齋藤茂吉の記念館(と言っても小さな小屋くらいのもの)。こんなところが人麿の終焉の地であったのかという感慨。そして、大田市の古本屋で見つけた本書。偶然であろうかあるいは何らかのつながりがあるのか。本書は、その邑智郡が人麿の終焉地であるとした齋藤茂吉の説を徹底的に批判している。さらには、賀茂真淵などの人麿論についてもこれでもかこれでもかと批判が続く。そこに、著者自身の人麿論が語られている。「隠された十字架」で感じたのと同じ、あたかも推理小説でも読むかのようなふしぎな期待感を持ちながら読みすすめた。菅原道真などとあわせての怨霊の話にもひきつけられる。神社や寺が成立してきた過程。そして、万葉集が編まれた本当の意味。「古今集」の抜粋を含め古文・漢文の部分はほとんど読み飛ばしてしまったが、それでも十分にエンターテイメント的な読後感がある。

  • (2014.02.23読了)(2001.11.22購入)
    副題「柿本人麿論」
    【日本の古典の周辺】
    人麿論は、賀茂真淵によって確立され、それ以後は、賀茂真淵の説をもとに論じられてきているとのことです。ところが賀茂真淵の説を採用すると、『古今集』の序文に書かれていることを否定することになります。人麿が生きていた時代に近い人たちが書いたものが、間違っているはずがないと考えると、『古今集』の序文は、『古今集』が編纂された時代に書かれたものではなく、後の人が書き加えたものだということになってしまいます。
    梅原さんは、『古今集』の序文が、正しいと考えたらどうか、という観点からどう考えれば、正しいと言えるようになるのかを探っています。
    『古今集』の序文には、人麿が、正三位の位で歌の聖だ、と書かれています。正三位だとすると、続日本紀などの正史に書かれるはずなのに、書かれていないし、亡くなった場合は、薨や卒が使われることになっているのに、万葉集では、死が使われているので、正三位というのは、間違いということになります。
    死という文字がつかわれるのは、六位以下ということになっているので、六位以下だとどのような役職が可能かというふうに論が進められて作られているのが、真淵以後の人麻呂論です。
    梅原さんは、第一部で、人麿は、藤原不比等によって、石見の国の鴨嶋に流され、そこで処刑されたという説をとっています。
    罪に問われて処刑された場合、位は剥奪されるので、死という文字がつかわれているのではないかと推測しています。
    正史に人麿の記述がないのは、処刑されたために、記述の際に名前を変えられたのではないか、言うのです。そのような例もなくはないというのです。
    正史には、柿本猨(さる)、柿本佐留という人物が出てくるのですが、時代的に人麿と合致するので、これが、人麿ではないのか、ということです。(人麿ではなく、人麿の父親ではないかという説もあります)
    ヒトがサルに変えられたというわけです。この人の位は、従四位下です。
    また、他の言い伝えによると、人麿は、大夫と呼ばれています。従四位下の位の人のなりうる役職として、大夫はふさわしいものです。このことからも、柿本猨は、人麿の可能性があるということです。
    これで、正史には現われないという、問題は解決したとしても、位は、従四位下ですので、正三位ではありません。梅原さんは、正三位は、藤原不比等の亡くなった後に、人麿の名誉回復のために、追贈された位ではないだろうか、と推測しています。
    そのような記述のある文献が現れれば、梅原説は、確定するでしょう。論としては、面白いし、ありうることかもしれません。
    人麿が、サルに変えられた説のついでに、梅原さんは、百人一首に出てくる猿丸大夫は、実は、人麿ではないかということも述べています。人麿を人丸とも呼ぶし、人麿大夫と呼ばれたりもするので。
    梅原さんのように考えると、『古今集』の序文を記述まちがいと考えずに済むということになります。『古今集』の序文を否定するよりも、こちらのほうがすっきりするし、宮廷歌人としての人麿のイメージとも合致するのではないでしょうか。
    六位以下では、宮廷歌人というイメージには、合致しません。

    【目次】
    第二部 柿本人麿の生 ―賀茂真淵説をめぐって―
    第二章 年齢考
    第三章 官位考・正史考
    第四章 『古今集』序文考
    あとがき
    文庫版のためのあとがき
    年表
    図版目録

    ●天皇の称号(65頁)
    天皇という称号が、いつ、何のためにできたのか。持統三年につくられた人麿のかの歌には、明らかに「天皇」とある。
    その後も、人麿の、多分持統六年の頃の作であると思われる近江の都を過ぎたときの歌にも、天皇という言葉が使われている。万葉集を見る限り、持統帝の時代にはじめて天皇という言葉が使われ、それも持統帝の暗喩として使われていることに注意しよう。
    ●和歌(99頁)
    日本の和歌が歴史上、正当な文学として認められるには、勅撰集である『古今集』の出現を待たなければならなかった。それ以前、それは現代における歌謡曲の如き扱いを受けていたのであろう。
    ●人から猨へ(154頁)
    私は、文武四年(七〇〇)から大宝元年(七〇一)ころ、人麿は政治的事件にまきこまれ、流罪になったにちがいないと思うが、もしそうであるならば、かつて彼を寵愛した持統帝は、彼を猨と改名し、次のようにいわなかったであろうか。
    ●偉大な学者(342頁)
    偉大な学者とは、多くのことを知っている人をいうのではなく、また、いたずらに新説をとなえる人でもない。彼は、世界を発見する人である。そこに存在しながら、誰によっても気づかれない世界を発見する。
    ●「原万葉集」の思想(348頁)
    「原万葉集」は、鎮魂の歌集、悲劇の死をとげた皇子や朝臣たち、わけても律令権力の犠牲となった柿本人麿の鎮魂の歌集である。
    その鎮魂には、一つの政治的ねらいが秘められている。人麿を死に追いやった藤原権力の告発という、秘かな不気味なねらいを、この歌集は秘めている。そして、それが橘諸兄によって、しかも、彼が藤原氏との対決を覚悟しはじめた天平勝宝五年という時期につくられたという伝承は、十分に信憑性があると思われる。

    ☆関連図書(既読)
    「ハシモト式古典入門」橋本治著、ゴマブックス、1997.11.25
    「万葉集入門」久松潜一著、講談社現代新書、1965.02.16
    「万葉集」坂口由美子著・角川書店編、角川ソフィア文庫、2001.11.25
    「水底の歌(上)」梅原猛著、新潮文庫、1983.02.25
    (2014年3月3日・記)
    内容紹介(amazon)
    日本の詩人として、誰しも名を逸することができないはずの柿本人麿の生涯は、正史から抹殺され、その行方は杳として知れず、その絶唱も時代を経るとともに誤読されてきた。賀茂真淵の人麿解釈以来、近代的合理主義によって歪曲され、見失われていた古代国家の凄惨な真実、宮廷第一の歌人人麿の悲劇の生涯と、鎮魂の歌集万葉集に新たな光をあてる、梅原日本学衝撃の新説。

  • 飛鳥・奈良時代お好きでしたらおすすめですが、梅原先生なので学術的です(つまり文章がカタイ)

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著者プロフィール

哲学者。『隠された十字架』『水底の歌』で、それぞれ毎日出版文化賞、大佛次郎賞を受賞。縄文時代から近代までを視野に収め、文学・歴史・宗教等を包括して日本文化の深層を解明する〈梅原日本学〉を確立の後、能を研究。

「2016年 『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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