日米交換船

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103018513

作品紹介・あらすじ

1942年6月、戦時下のNYと横浜から、「日米交換船」が出航。若きハーヴァード大生だった鶴見俊輔が初めて明かす、開戦前後と航海の日々。日米史の空白を埋める証言と論考。

感想・レビュー・書評

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  • 第2次世界大戦の開戦で、枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航された「交換船」があった。「戦時交換船」や「抑留者交換船」などとも呼ばれる。それにしても、開戦後は当然のことながら、両陣営の間では国交が断絶され、駐在する外交官の資格が停止された。そんななかで「交換船」がどのようにして運航されたのか、その船にはどんな人が乗っていたのか。
    戦時の国際的な取り決めには、「開戦に関する条約」であるハーグ条約、俘虜の待遇に関するジュネーブ条約があった。そして「中立国」の役目が大きく、「中立国」を介して、交換船についても条件のやりとりがあった。そして日米では五つの海を隔てながら船を介して、中立国の港で、それぞれの船に乗った人たちが交換され、自国へ戻っていった。
    アメリカとの間の「日米交換船」についての本を読んでいる。
    鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創共著の『日米交換船』(新潮社、2006年3月20日刊)。500ページ近い大部だが、前半250ページほどは、共著者3人の座談会の書き起こしの体裁になっている。それも本の帯に「『帰国から六十数年、〈交換船〉のすべてを、いま語っておきたい』――鶴見俊輔」とあるように、鶴見が交換船に乗って留学中だったアメリカから帰国した当事者で、彼の体験を聞き、おもに黒川が外務省外交史料館に残された交換船に関する史料を集めて、そのデータと突き合わせながら話を進める形になっていて、この座談が面白い。船に乗るまで、乗り合わせた人たちの人物月旦、その人たちの経歴や繋がり方など、史料には顕れない裏話が鶴見節で愉しい。博覧強記とは聞いていたが、その微細に及ぶデータは得難く、登場人物の多彩さには頭の整理を強いられる。
    登場人物の中でも、興味深い人を数人ーー。
    大河内光孝。通称ミッチャン。大河内子爵の妾腹の子。幼いころ、学習院初等科に通っていた。新入りの下級生に皇太子(昭和天皇)がいて、かわいらしかったので大河内が買ってもらった飴玉をやった。それがおつきの者に,ばれて大河内の親が教員に呼び出されて注意された。当時の学習院院長は乃木希典大将で、厳格を持って知られていた。大河内の両親は「おそれおおい」と大河内を学習院から退学させ、私立の小学校に転校させた。それがぐれる始まりで、やがて単身アメリカへ行くことになる。日露戦争で日本の名が知られるようになったころ大相撲がはじめて北米を訪れ興行したが、そこを離れて「柔道芝居」を組んで都会を回る相撲取りの仲間に、大河内は入り、サーカスの幕間劇として悪漢を投げて美女を救うという役を演じて人気を博していたという。やがて開戦で鶴見が収容されていたフォート・ミード収容所にやってくる。ここでも大河内は収容所の演芸大会などでトランプ奇術などを披露していた。ここで鶴見は大河内と親しくなる。帰国後に再会したのは、鶴見が胸を病んで軽井沢でいた時。船を下りて2年半がたっていた。大河内は妻子と一緒だったが、妻の言うには「わけもわからず警察へ連れてゆかれ、酷い目にあった」といい、大河内には傷跡が残っていたという。その後、鶴見が「思想の科学」の共同研究で戦中の「横浜事件」を調べていて、特高が大河内に目に余る暴行虐待をしていたことが分かる。事件との繋がりを調べられたものだが、大河内は雑誌「改造」を読む人ではなく、でっち上げの事件の一端が顕れたものだが、そのきっかけが「日本は負ける。こんなバカらしいことはしない」と防火演習に参加しなかったことだったという。鶴見は「天皇にあめ玉をやった人が、天皇の名で拷問をうけるという現代の寓話である」と書いている。
    もう一人。竹久千恵子。1930年、18歳にしてエノケンのカジノ・フォーリーに参加。映画女優として木村荘十二監督の「兄いもと」などに出演、「モダンガール」女優として人気を博したという。恋多き女性でもあって、関西の実業家をパトロンにもち渋谷・松濤に大邸宅と運転手付きの外車をあてがわれながら、既婚者の日系米国人ジャーナリスト、クラーク・河上との恋に落ち、パトロンを捨ててアメリカに渡る。クラークの父も、英語を駆使してアメリカの一流メディアを舞台に活躍した異色のジャーナリスト川上清で、竹久は日本語の通じる唯一の父親と懇意だったようだが、開戦と同時に父親はFBIに引っ張られ尋問を受ける。竹久はFBIにアメリカの対日宣伝放送への協力を打診されるが、これを断り、情報将校としてインド・ビルマ戦線に赴くクラークを置いて、交換船に乗る。帰国後、スパイ扱いで憲兵隊にいやがらせを受けた竹久に救いの手をさしのべたのが菊田一男。劇作家として一家をなしていた菊田だったが、大部屋時代の竹久と食えない作家の境遇での竹久の好意がもとだったといい、古川ロッパ一座に紹介し、菊田の手で「交換船」という出し物の台本ができると、これに出演したりしている。戦後はNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラー回答者としても再び人気者となっていたが、GHQのウィロビー少将のもとに日本へやってきたクラークに迎えにこられ、人もうらやむ占領軍情報将校の妻となり、やがて再び渡米、3人の息子を育て上げたという。
    「交換船」のなかで鶴見は、船の体操の時間に、この高名だった「モダンガール」竹久の後ろに立ち、身体を動かしつつ、同じように動き、かつて何本もその映画を見た大女優の後姿を観察した、という。この話を鶴見は、何度も繰り返し話している。
    船には鶴見の恩師、都留重人・ハーバード大学講師も乗っていた。そして、ニューヨークを出航した第一次の交換船・グリップスホルムは、リオ・デ・ジャネイロに寄港したあと、交換地のロレンソマルケスへ向かう。ロレンソマルケスは、東アフリカの現在のマプト。ピースボートの南回りクルーズで、南アのクルーガー国立公園のサファリへ行くために寄港した港。中立国であったポルトガル領であり、現在のモザンビークの首都。
    ここでアメリカからの引き揚げ組は、日本から米国関係者を乗せてきた浅間丸に乗り換える。その反対も同様で,港で両者は隔てられながらも互いにその姿を見ながらの乗り換えだった。そのすれ違いの一瞬が、悲劇のタネともなった。
    都留さんは、ここでハーバードの教え子で、反対の航路をたどってきた駐日カナダ公使館員であったエドガートン・ハーバート・ノーマンと、言葉を交わした。ノーマンは「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」で岩波新書にもはいっている安藤昌益を紹介したひとだが、戦後のアメリカのマッカーシズムのなか、赴任したエジプトで駐在カナダ大使として自殺する悲劇の主だ。都留さんは「急な帰国となったので、アパートを引き払う準備をするのに十分な時間がなく、書物の類はケンブリッジで人に託して預けてある。必要があればもっていって使ってほしい」。伝えたのはそれだけだった。帰国したノーマンは、その委託を実行し、都留さんの住んでいたアパートに立ち寄る。彼の行動はFBIに見張られていた。のちに都留さんが57年3月にハーバード大学客員教授として戻り、米国上院の公聴会に呼ばれる。そこでFBIが都留さんの知人から手に入れていた古い手紙が読まれ,そこから、留学の初期にマルクス主義理論雑誌の創刊を準備していた当時の交際していた知人の名が明らかになり、赤狩りの風の下でノーマンにつながった。ノーマンは日本占領に際してマッカーサーの信頼を受け、占領政策の形成に影響ももってもいた。おそまきのしっぺ返しでもあり、英国留学時代の共産党との接触が問題とされ、だんだん彼は追い込まれていったのだという。
    とにかく交換船には、多くの多士済々が乗っていた。同時に、鶴見俊輔にとって、大きなエポックを生んだ船旅でもあったことが明らかにされている。連合国側のグリップスホルムに乗っていた時期には、日本人たちの間にも自治会的な組織もできて風通しもよい雰囲気だったものが、浅間丸に乗り移ってにわかに空気が変わってくる。ここで乗り換えて欧州へゆく日本人と船の上の日本人のあいだに、さかんにバンザイが叫ばれる。鶴見は「日本人社会が変わることの予告だったね」と語る。浅間にのったとたん別の社会体制、と。
    浅間に移ると宮城遥拝にはじまり君が代合唱、野村大使の大勅講読、訓示などが始まる。昭南島と呼ばれていたシンガポールを出るときにもバンザイ、バンザイ。乗り込んできた軍人たちが引揚者をいくつかのグループに分け、毎日のように一方的な説教を繰り返した。その時に「良心的徴兵拒否のことを日本で話ていいですか」という女性がいたのだという。その場に、軍人の怒りをあおる男がいて、その男を牧師が殴る一幕もあったらしい。さらに船が館山沖まで到着すると憲兵隊や警察が乗り込んできて取り調べをし、この調書が帰国後の引揚者をの要監視のめどになったらしい。そして黒川が「極秘 外事警察概況」に残されていることとして、帰来者全員に「内務省警保局 憲兵指令部」名で「注意書」が配られているという。その中には、外国にいたときの事情は話さないようなどから「我が国銃後は強固なる団結の下に聖戦完遂に邁進し、皆がある程度の不便を忍んで戦っているのですから、各位は生活様式の変化等から若干の不便あることと思われますが、つまらぬ不平不満を洩らし、銃後の団結を見出すようなことのない様十分に注意すること」などと書かれていたという。
    鶴見は、この船の旅で、ことに浅間丸に乗り移ってからの船の社会の変化から、戦後の研究として提出した「転向」のテーマを得た、という。
    鶴見の姻戚の関係から、上流社会のつきあいなどにも話は多岐にわたって、興の尽きることがない。

  • 『文献渉猟2007』より。

  • 職場のイベント関連で読む。

    前半は日米交換船に乗った鶴見俊輔を中心にして加藤典洋さんと黒川創さんの三人が対談のようにして日米交換船を振り返る。後半は日米交換船のまとめと交換船に乗った人の記録等が出ている。参考文献が充実している。今まで戦後の引揚しか考えていなかったので、交換船についてはかなり興味深かった。

  • 日米開戦時の交換船についての話。
    この事実をあまり知らなかったので、興味深く読みました。
    開戦当時にアメリカにいた日本人たちの多くは敗戦がわかっていたにもかかわらず、日本に帰国した人達の気持ちははかりしれないなと思った。
    またその後も人それぞれ。
    また、船を交換して日本に向かい始めたら雰囲気がかわったというのも興味深かった。

  • 【配架場所】 図書館所蔵なし

  • 池田清彦氏推薦

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著者プロフィール

922−2015年。哲学者。1942年、ハーヴァード大学哲学科卒。46年、丸山眞男らと「思想の科学」を創刊。65年、小田実らとベ平連を結成。2004年、大江健三郎らと「九条の会」呼びかけ人となる。著書に『アメリカ哲学』『限界芸術論』『アメノウズメ伝』などのほか、エッセイ、共著など多数。『鶴見俊輔集』全17巻もある。

「2022年 『期待と回想』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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