- Amazon.co.jp ・本 (239ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103396529
作品紹介・あらすじ
壮大な計算史に吹き込まれた生命の本質に迫る、若き独立研究者の画期的論考! 「人間が機械を模倣する」計算が加速し続ける現代にあっても、人は、記号を操って結果を生み出すだけの機械ではない。思考し、意味を考え、現実を新たに編み直し続ける「計算する生命」なのだ。小林秀雄賞受賞作『数学する身体』から5年。若き独立研究者が迫る、機械と生命の対立を越え、計算との新たな関係が形作る未来とは。
感想・レビュー・書評
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計算とは、ただ規則に従って淡々と数を扱うものではない。
その正しさを疑い、その結果の意味を思考し、複雑な現実をなんとか理解しようという歴史の積み重ねがそれを支えている。
現実を理解するための概念ではなく、現実を/我々の世界の捉え方を拡張する営みとして捉え直す一冊。
ただ論理を積み重ねるだけじゃ人間の知性には到達しない。そこには環境に身を任せ対話しレスポンスする身体性が必要という話。めちゃくちゃ面白かった。 -
計算と生命が密接に結びついている
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やっと読めた
執筆中に開催されたオンラインの講座での内容を思い出しながら読みました。
そのとき取ったノートも見ながら読んだので余計にわかりやすかったけど、後半、もう少しページを割いてでも丁寧に進めてほしかった?
やや唐突に感じてしまいました。 -
数学と哲学の結びつきを辿って、古代ギリシア幾何学を出発点にデカルト、カント、リーマン、ガウス、フレーゲ、チューリング、ブルックスらの研究成果を丹念に考察しているが、難しかった.人工知能の話は現代のものであり興味深かった.「あとがき」にもあったが、フレーゲの功績を紹介しているのが特筆されるが、この名前は知らなかった.高校までの数学は18世紀以前の段階であり、リーマンもガウスも出てこない由.56年前、大学の教養課程の数学で高木貞治の『解析概論』に苦労したことを思い出した.高校数学は得意だったのだが、大学の数学は18世紀以降の数学なのだ.
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数を数えること、演繹的に物を考えることも、人間の生得的な能力ではなく、時間をかけて獲得されたスキルだ。
既知の意味とはつながりを持たない数や記号を、頭の中で操るためには、並々ならぬ集中を要するが、表記の仕方を変えることで、精神の負荷を下げ、新たな思考の展開が生まれる。
たとえ意味がわからなくても、規則的に操作した後で、「意味は後から染み込んでいく」という思考体験。
しかし最後には意味を持つならいいが、負数の掛け算のように、規則が優先され、意味がおあずけされるだけでなく、最終的に手放さざるをえない場合もありうる。
それでも幾何学的には意味があり、数学的な世界は広がり、現代では日常世界にも少なからぬ影響を及ぼす。
辛抱しいしい粘り強く、規則に従って数を操り続けることで、やがて意味の世界は開かれ、わかったと思える瞬間が訪れる。
その場合の意味の内実は、当初の想定を超えた多様なもので、認識の拡張は果てしなく続く。
本書で繰り返されるのは、計算がいかに人間の認知の可能性を広げてきたか。
タイトルの「計算する生命」は、身体や環境から切り離し、生命を計算に近づけ単なる計算機に成り下がるのではなく、身体や状況とともに"雑ざり合う"こと。
あとがきにもある通り、本書の主題は<言語と生命と計算>。
もし、この世に<言葉>か<数(計算)>のどちらを残すか選べと迫られたら、迷うことなく<言葉>を選んでしまいそうだが、それではいまの世の中立ち行かなくなるんだろうな。
「計算の力を借りて生来の認識を拡張していかない限り、ウイルスや氷床、気候や地球規模の生態系など、人間のスケールを圧倒的に凌駕した対象について、私たちは考え続けることができない」
「計算と生命の雑種としての、私たちの本領が試されているのだ」
かつての小林秀雄の言葉が思い出される。
「科学的精神などというのは、ほんの近頃の風潮なのです。経験科学ということを言うでしょう。あぁいう言葉が非常にまどわしい言葉なのです。経験というのは、人間昔から誰でもしていることですが、この人間の経験なるものを、科学的経験というのに置き換えたということは、この三百年来のことなのです。そのために今日の科学は非常に大きな発達をしましたが、この科学的経験というものと、僕らの経験というものとは全然違うものなんです。今日科学の言っているあの経験というものは、合理的経験です。大体、私たちの経験の範囲というのは非常に大きいだろう。われわれの生活上の殆んどすべての経験は合理的ではないですね。その中に感情も、イマジネーションも、いろんなものが入っています。それを、合理的経験だけに絞ったのです。だから科学は、人間の広大な経験を、きわめて小さい狭い道の中に押し込めたのです。これをよく考えなければいけないのです。科学というものは、計量できる経験だけに絞ったのです。いろいろな方向に伸ばすことができる広大な経験の領域を、勘定することのできる、計量することのできる経験だけに絞った。そういう狭い道を行ったがために、この学問は非常に発達したのです。だから、今日の科学というものは、数学がなければなり立ちません。一番先に天文学ができたでしょう。それから力学、物理学、生物学、化学という風に、だんだん発達して来たけれども、理想とするところは、いつでもはっきりした計算です。だから、近代科学というものの法則を定義すれば、それは一つの計量できる変化と、もう一つの計量できる変化との間の、コンスタントの関係ということです。科学はいつでも、この法則の下にあるのです」
AIにおいては、知能は血や肉や炭素原子とは関係なく、結局のところ情報と計算に行き着くと考えてきた。
物質がなければ計算できない?
知能が非物理的であるように感じられるのは、物理的詳細には左右されずに、独自に振る舞うからであるのだから、重視すべきは、物質から独立した側面だけだ。
計算とは時空内での粒子の配置のパターンであって、本当に重要なのは粒子でなくそのパターンで、物質は重要ではないのだ。
このように計算が物質から独立しているからこそ、AIは実現可能であって、知能に血や肉や炭素原子は必要ないと考えられている。
むしろ言葉すら情報処理と考えれば計算的作業ではないか。
脳は、目から入ってきた膨大な個数の色つきピクセルに関する情報を入カとして、口と声帯を司る筋肉へ送る情報を出力とする関数を評価する。
画像分類と音声合成と呼ばれる作業だ。
計算を、ある記憶状態を別の記憶状態に変換することと捉えれば、計算は情報を取り込んで変換することであり、数学で言う「関数」を実現したものにほかならない。
関数とは結局、上から情報を入れてハンドルを回すと、情報が処理されて下から出てくるだけの、情報の肉挽き器に他ならない。 -
きっかけは忘れてしまったが、興味を惹かれて読書
計算・数に関する教養・理解をふかめられる良著 -
数学史を元に計算がどう行われてきたかを解説。中盤くらいまではわかり易い話だったが、ヴィントゲンシュタインぐらいから難解な話に。計算も頭だけでなく身体が必要というのは概念的にはわからなくもないが、今ひとつ腑に落ちない。
しかし、全体的には知的好奇心を満たす良書。 -
数学史。
ブルックスの言葉に感動。
『知能は環境や文脈から切り離して考えるべきものではなく、「状況に埋め込まれた」ものとして理解されるべきだ』 -
面白かった。現代の人工知能および数理モデル予測などが生まれた背景を過去の哲学者や数学者の功績と趨勢を追いながら掴んでいく、と言った内容。最後の章では、昨今のコロナ禍に絡めて、思考なき計算に頼りすぎることへの警鐘を鳴らしている。
結局のところ計算と生命は不可分であり、計算機も自律的な思考も総動員して両者のバランスを意識しながら諸問題に取り組んでいくべきなんだと感じた。
色々と考えさせられる内容でした。