落合陽一さんの随筆のような形式の本となっています。落合さんについてはどちらかというとネットの討論番組というか何かの議題についてディスカッションしているところを見ることが多いのですが、いつもすごいと思うのは議論における具体性です。何かの課題についていい、悪いを伝えたり、こうなったらいいと思う(逆にこうだからだめだと思う)ということを伝えるときには、常に理由が求められるわけですが、その付加的に伝えられる情報密度が高い。基本的に一言が長いのですが、その際自分にとっては理解できない単語がひとつ、ふたつ含まれていることが多いです。
この本でも当然自分の知らない単語や組織の名前がいくつかでてきていました。
おおよそ2019年から2021年の間における内容となっているのですが、コロナ前後で書かれている内容が違うなということは感じました。具体的に言うと、コロナ前のほうがおもしろいことを書いています。コロナ後はどうしても課題が内向きになるというか、自由とは逆の監視社会、自粛の方向の議論になるため、それを避けるためにどうしたらよいかというアイディアはもちろん書かれてはいるのですが答えに限界があるので読んでいてなかなか難しい課題だなと感じて終わってしまいました。
人は祝祭を求めている、祝祭とはある意味人が集まるところで発生する、今、人が集まることは難しいとなると、祝祭のない日常がずっと続いていて、人はこの1年半ずっとディスプレイと向き合うしかなかったという状況です。
いくつか素敵な考え方だと感じたところをメモしておきます。
20191220
-発信者として心掛けているシンプルなことがある。コアメッセージを疲れさせないことだと思う。手法論やレトリックは疲れる。体も疲れるし精神も疲弊する。しかし体や精神から切り離されてたメッセージ、つまりアーティストステートメントやコアメッセージは磨かれるほど輝きを増すし、新しい側面が見えてくることも多い。それは接するコミュニティの粒度や密度をいくつか掛け合わせてみて改めて発見することもある。つまり自分の中の光らせておきたいものをちゃんと疲弊する体から切り離して愛でておくということが大切なのかもしれないな、と思うようになった-
落合陽一さんは多忙なので、身体や心が疲れることを前提にこの考え方を持たれているのだと思います。人に疲労はつきものだが、理念のようなものはそういうところから切り離して疲れを帯びてしまわないように気をつけること、それが大事だと言っています。これはなかなか難しいことで、疲れていると自分の考えが揺らぐことは往々にしてあると思うのですが、理念はそことは一段違うところにおいてキラキラと輝かせておかないといけないということだと思います。素晴らしいメッセージというものは、一度発してしまえば輝き続けることができるものと言い換えることもできるでしょう。
20191013
-「社会批評性を持つことのダサさ」に息ができなくなって、「疲弊で眼に映るすべてのものに興味がなくなってから」がモノづくりの時間の始まりだと思い始めた話-
ここは社会批評性を含んだアート作品に対する忌避のようなことが言われていました。ソーシャルアクション風アートという言い方もしています。テクノロジーを濫用したらGAFAのようなものが生まれて多くの人は不幸になったみたいなことをアートで表現するとかそういうのが嫌みたいで、そういうものに興味がなくなってからがスタートだと言っています。
自分はアートを生み出せるタイプではないのでアートの世界で否定される内容なのかどうかは正直わかりませんでしたが、テクノロジーの濫用を非難する次のステージにわくわくするものが待っているような気はします。わくわくしないから人は批判的になってしまうようなところはあると思います。テクノロジーだけに執着するのはよくないですが、テクノロジーとの距離を狭めてよく見て考えて見えてくるものを待つというのは空虚な論争にふけったりろくに理解しないで批判するよりは正しいあり方だと思います。
コロナ後の内容は面白くないと書きましたがそれはコロナ前に比べてということであってつまらないという意味ではないです。どのように表現していったらいいかということについて具体的に考えている以下の部分はとても秀逸です。
20200419
-マスが動けない社内をどう考えるか。ーーー
クラスタ型でいることのメリットは、密密密な一体感やエンターテインメント感を楽しめることだったと思う。流行に乗っている感覚とか待ち行列やムーブメントの一部になっている感覚にも近いかもしれない。グリッド型の社会は時空間分割されているので一体感はないが、カスタム性の高い社会だ。このグリッド型社会にデジタルが偏在するのが今の状態かもしれない。
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抜粋が難しかったのだがコロナ社会においては以下のように分類されるはずですが、移動に関する大きな制限を課されたエコノミークラス(マス)向けとなる2,3の在り方はもっと改善の余地があるということを言っていいます。
1.ファーストクラス向けに超少人数のリアルなサービス
2.エコノミークラス向けの仕切り壁、マスク必須のグリッド型サービス
3.オンライン(デジタル)を使った不特定多数・リビング向けサービス
そしてコロナ後、世の中は一斉に3へ舵を切りましたが、それによりイベントは祝祭性を失い、日常の一部に組み込まれてしまったということが納得の分析でした。逆にいうと3のようなイベントにおいて祝祭性を演出できれば大きな成功となるということでしょう。自分はそこについては「参加している感覚」が重要だと思っています。ホストが話し続けるタイプのイベントはホストに希少性があれば成り立つがそれはもはやイベントではないでしょう。参加者はイベントに一体感を求めます。オンラインの空間であってもそこに皆が集まってきたという感覚を得られるような仕掛けがあれば祝祭そのものとならなくても特別な感情を起こさせることができるはずです。