- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104361045
作品紹介・あらすじ
サーカスの花形から作家に転身し、自伝を書く「わたし」。その娘で、女曲芸師と伝説の「死の接吻」を演じた「トスカ」。さらに、ベルリン動物園で飼育係の愛情に育まれ、世界的アイドルとなった孫息子の「クヌート」。人と動物との境を自在に行き来しつつ語られる、美しい逞しいホッキョクグマ三代の物語。
感想・レビュー・書評
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ホッキョクグマ親子三代の物語。多和田ワールドにすっかり翻弄されたが、ラストまで読むことを諦めないで良かった。熊の目を通して見ると、人間社会って奇妙で、不条理で・・ベルリン在住の著者ならではの鋭い視線に圧倒された。
1章「祖母の退化論」
冒頭の調教シーンからゾクリとさせられる。
「ある日、彼が変なものをわたしの後ろ足に縛り付けた。・・床に触れた左手が焼けるように痛い。あわてて床を突き放つ。何度か繰り返しているうちに、いつの間にかわたしは二本脚で立っていた。」モスクワで生まれた熊が、サーカス引退後に自伝を書き、作家になって亡命する。この奇抜な発想はなに。
2章「死の接吻」
旧東ドイツのサーカスで、娘のトスカは女曲芸師と伝説的な芸を編み出した。ウルズラの口の中にある角砂糖をトスカが舌で絡め取るシーン。舌の感触や匂いまで感じさせる文章力の高さに驚いた。
3章「北極を想う日」
1、2章を読んだ時の文体への違和感が消え、言葉が滑らかに落ちてくる。母親トスカの育児放棄により、飼育員のマティアスに育ててもらったクヌートが主役の章。愛らしい熊の子も成長すると「散歩は勉強になるが、ショーは仕事。どうすれば観客が退屈しないか」を考えるようになる。見せる自分を意識するクヌートが切ない。雪の舞い散る日に、彼を地球の脳天に向かって飛ばせたのは、せめて物語の中だけでも外に出してあげたいと著者が願ったからだろうか。クヌートの話が実話で、本の出版後に亡くなったことを知った後は、ラストの数行がなお心に響く。「その日は空気が重く湿っていて・・」で始まる詩的な文章が哀しい。
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難解な小説か?といえば、けっしてそうではない。寓話か?といえば、これもまた違う。では、何故ホッキョクグマが主人公の3代記なのか?といえば、この問いに答えるのはきわめて難しい。熊が選ばれたのは、単にベルリンのシンボルだから、なのかもしれない。そして、ホッキョクグマというのは、我々の対極に位置する哺乳類であるからなのだろう…おそらくは。この物語が小説としての醍醐味に溢れているのは、熊と人間の、そして作家と読者の、意思疎通をあえて分断した中で作品世界を成立させている点だろう。小説はそれ自身の力で自立しうるのだ。
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以前によんだ著者の「言葉と歩く日記」で、この本を自身でドイツ語に翻訳する話しがあったので、読んでみた。
ホッキョクグマの視点からみた世界。
3部構成になっていて、母→娘→孫と3代にわたる話し。(ホッキョクグマの寿命は短いので、この3代は実は象徴で何世代にもわたって繰り返された物語が折重なっているものとされる)
最初の初代のホッキョクグマは、ソ連、東ドイツがあったときの時代設定のなかで、ホッキョクグマや他の動物が人間と自然に話し合うというシュールな状況が描かれる。初代のホッキョクグマの「私」は、国が主催するさまざまな会議に出席したり、自伝を書いて、有名になったりする。そうしたなかで、西ドイツに亡命したり、そこからさらにカナダに亡命?を考えたりする。
2代目の物語は、女性猛獣使いとの交流を中心にしつつ、サーカスで曲芸をして、有名になって、世界公演をしたりする。ここも東西冷戦下の時代背景が描かれていて、面白い。
3代目の物語は、だいぶ現代になってきて(クヌートという実在したホッキョクグマがモデル)、動物園でスターになって、環境保全活動のシンボルとなる。
いづれも荒唐無稽の話しなのだけど、東西冷戦時代の描写やホッキョクグマの視点にしっかり入り込んだ書き方が妙にリアリティを感じさせる。
現象学における「主観」みたいな感じがあって、先入観なしに自分が体験しているものをそのまま記述しているようなナマナマしさが、なんともすごい。ぐっと身体の内側に入っていくようでなんだか切ない感覚がある。 -
とっても美しい魂の物語。心打たれる。見えない壁が見え隠れして東の静寂と西の喧噪が錯綜し時代は流れる。未来を描きルーツに思いを馳せる。いくつものテーマがぎゅっとこめられている。最後の残像は永遠に広がる真っ白い雪野原。ひらひら舞いおちる白い結晶。すばらしい読後感。
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三世代のホッキョクグマの話。最後はベルリン、いや、ドイツの環境運動のシンボルとなった有名なクマ、クヌートの物語となる。全編を通し、人前に出て人を楽しませる事を、自らの意思ではないのに義務付けられた、知性高きクマ達の心の動きが、ほぼ本作を占めている。単に人が動物を見て、その動物の心中を想像して書いた物語とは思えない。人間の親・子・孫の物語の様だ。著者がどうやって本作を編み出したのだろう、本作のアイディアを掴んだのだろうと考えると、非常に興味深かった。全体として、それほど心に響くところは多くなかったが、作品全体に流れる雰囲気が好きだ。
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年末に正月読書用として買おうとしていたのですが、寸前で少し前に同じ本を買っていたことを思い出し悲劇は回避されたのですが、その一件により、自らの「老い」について深く考えさせられた本です。以上。
違います。
これは面食らいました。衝撃です。ひさびさにきました。
とってもみじかく説明すると、ホッキョクグマ文学です。
ただ、書き出しから抱いたイメージは少しずつ逸らされずらされひっくり返され付け加えられそのうちだんだん自分が人間なのか熊なのかなんなのかわからないようなところまで連れてゆかれます。
ギミックと言うよりかは、「そういうふうになっているように書ける」という能力(と言ったほうがいいような気がします。だいたいの意味はいっしょでも)がその陶酔をもたらしたのだ、と分析をしますが、分析をしたところで、その細部は細部であって、そこだけ齧っても全然おいしくない、のでしょう。そこらへんにこのひとのすごさを感じます。ぜったい書けませんよ、これ。
まあそんな印象。 -
この作品に出てくるホッキョクグマ達が言葉を持ち、人間社会の境界線上を軽々と越えていく。色々なものがホッキョクグマを通して(時にはその周辺の人間を通して)異化されていき、既存の束縛から解放され切ったような、とても思いきりの良い価値観が作られていく。三代続くホッキョクグマの系図(最終章の主役はあのクヌートである)は、新しい価値が生まれていく過程のように思えた。束縛から逃れたところで、束縛のない価値などはこの世に存在し得ないことは、このホッキョクグマ達が一番よく分かっているはずだ。言葉をめぐる様々なイメージが奔放なまでに飛び交う小説世界の中で、このホッキョクグマ達の言葉が、じんわりと染み入るようにして心に入ってきた。納得の野間文芸賞受賞だと思った。
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白くまピースの物語?
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あの熊のクヌートの話ということで、ほんわかとした愛らしい話を想像していたけれど、読んでみると全くそんなことはなく、暗く悲しく美しい物語だった。自分の居場所が定まらない、自分のいるべき場所を喪失している者の物語。多和田葉子の本領発揮といったところか。面白かった。