密林の語り部 (新潮・現代世界の文学)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (275ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105145057

感想・レビュー・書評

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  • 2010年ノーベル文学賞受賞者リョサ氏の80年代の代表作である。
    テレビで村上春樹氏がノーベル文学賞を受賞するかもしれないので期待して待つファンの人々の様子を流していた。そして携帯にニュースが飛び込み「えっリョサ氏??」「あー残念っ!」と明らかにリョサを知らなさそうな女性の反応が映し出されていた。そうかリョサもしらないと思いつつ、自分もリョサを名前しかしらないことに気づいた。60年代にラテンアメリが文学ブームがあって、80年代に学生だった私もボルヘス、マルケス、リョサなどの名前はよく耳にしたものだ。そう考えるとテレビでみた女性は若くて、私は年配だというどけのことかもしれない。確かにリョサ氏などノーベル賞受賞以前、近年はあまりお目にかかっていない。
     ならばこれを機会にと取り組んだ 私にとっては2冊目のリョサ氏の本。
    先ほど読み終わったが、結構難物であった。脈絡もなく何を示すのかわからいカタカナが突然できたり、神話のような話と現実が交錯するというするマジックリアリズムの文学にありがち話も頻出する。
     朝日新聞では 池上彰氏が ノーベル文学賞を受賞したリョサ氏を紹介する各新聞の記事を読んで「さっぱりわからなかった」と書き、それを受けて大江健三郎氏が、より長い文章を先日の長官に寄稿していたが、要するに「食わず嫌いをせず読んでみて」という文章だった。この二つの文章を読んでリョサを読む気にならないと家内は言っていた。二言三言でノーベル文学賞の世界をまとめられたら大したもんだと思うが、それは難しいのじゃないだろうか。でもそのむずかしさに挑戦してみよう。これを読んで一人でもリョサを読みたくなったら私の試みは成功だ。

    私は今本を読んで 難物だったが・・・読んでよかった。
    この本でリョサはアマゾンの奥深く生きながらえてきた先史文化にシンパシーを表明する登場人物を描く。近代文明に接して、いきなりその軍門に下るのもあるだろう。しかし、車や銃を知ってなお、旧い生活様式を捨てないといはどういうことなのか、そちら側の視座を持てという。
     古事記を読むことは単に教養の一つなのであろうか。現在、神話はわれわれの中に生きていないのであろうか。あの世とは全くのレトリックなのであろうか。ならばなぜお墓を作る。神社仏閣に参る。お守りをつける。
     リョサ氏のつきつける課題は遠いアマゾンの密林の中で行われる話ではなく、文明化された私たちにも共通の課題なのであり、それに相当の筆致で取り組んだ成果の一つとしてノーベル文学賞の受賞があるのだと思う。
    効能は・・・、
    太古の神話世界をリアルに眼前に描いてみせてくれる。
    西洋文明を疑ってみろと提案してくれる。
    世界とは言葉で表されて、それも語り口調でこそ表現されるものだということに気づかせてくれる。

  • 題名から、密林(セルバ)を舞台にした作品かと想像したが、ちょっとちがった。『緑の家』にも登場するインディオの酋長フムや、密林の奧にハーレムを作り上げた日本人の悪漢トゥシーア(フシーア)といった人物もちらっと名は出るのだが、『緑の家』のような命をむき出しにして生きる男や女たちが多数登場し、互いに愛し合ったり憎み合ったりする、いかにもリョサらしい力の漲った全体小説を思い浮かべると裏切られる。

    もし、小説でなければ、バルガス=リョサ本人と錯覚してしまいそうなほど、高名な作家と経歴を同じくするペルー人の物書き「私」が視点人物。というか、ここは「私」=リョサと思って読むように作者は誘っている。日本でいうなら「私小説」的な書き出しである。小説は、旅行客で賑わう夏の朝のフィレンツェで幕を開け、星の瞬き始めたフィレンツェで幕を閉じる。ダンテとマキアベリを読み、ルネッサンス絵画の鑑賞を愉しみに夏のイタリアに滞在中の作家。気だるい頽廃さえ匂う幕開けではないか。

    ショーウィンドウに飾られた一枚の写真が「私」をペルーに引き戻した。それは、インディオの村を撮影したもので、引き込まれるようにして写真展会場に入った「私」の目にとまったのは、輪になって座り込んだインディオたちが一人の男の話を夢中で聴いているところをとらえていた。外部の者にはめったに姿を見せることのない「語り部」の姿だった。

    「私」には大学時代一人の友人がいた。赤毛のぼさぼさ頭で顔の右半分に紫色の痣を持つことから、みんなにマスカリータ(仮面)と呼ばれていたサウル・スターラス。キリスト教伝道者や言語学者といった西洋の浸出がインディオ固有の文化や森林を荒廃させると主張し、担当教官に手を焼かせていたが、成績優秀な好青年であった。「私」は彼に、小集団で常に密林を移動するマチゲンガ族の間を彼らの物語を語って歩くことで、その紐帯となっている「語り部」の存在を教えられ興味を持つようになる。

    三十年後、テレビの仕事で訪れたインディオたちの村で、「私」は、昔なじみの言語学者の口から、顔に痣のある白子の「語り部」の噂を聞きつける。イスラエルに移住したと聞いていたマスカリータのことが「私」の頭をよぎる。伝手を頼って調べてみると、移住した形跡はないことが分かった。では、友は成績優秀者にのみ許されるフランス留学の話を捨て、褌一枚の姿で密林に分け入ったというのか。

    ペルーという国は征服者の子孫である白人と、先住民であるインディオ、そしてその混血の人々で構成されている。手つかずの自然が残る密林に暮らすインディオの中には、白人の宗教や文化を受け容れ、そのメカニズムの中に組み入れられたフムのような者もいるが、白人との接触を嫌い密林を渡り歩くマチゲンガ族のような集団もいた。

    『緑の家』では、リョサは、白人社会と関わりを持つフムのような者を別にすれば、インディオをのことを、白人に襲われ、殺され、搾取される存在としか見ていない。ペルーという同じ国に暮らしながら、白人である作家にとってインディオは外部の者であった。ところが、本作においては、「語り部」という存在を得て、インディたちを内部から描き出しすことに成功している。

    第一章と最終章である八章は、フィレンツェで小説執筆中の現在の「私」の視点によるいわば額縁にあたる部分。物語の中心はリョサが得意とする対位法的な構成で描かれる。二、四、六章は、時間を遡り1953年から今に至る「私」が「語り部」を追う物語。そして三、五、七章は、「語り部」自身によって語られるマチゲンガ族の世界観、宇宙観を形づくる無数の物語群。人間と動物の関係、死と再生、放屁や糞尿に纏わる逸話が、突拍子もない連関で語り継がれる。この「語り部」の口を借りて語られるマチゲンガ族の物語が圧巻である。言語も習俗も異なるインディオをペルー人として認め、その文化に西洋化した自分たちにはない太古から営々として伝わる叡智を発見したことが作家をしてこのような小説を書かせたのだろうか。

    「互いを隔てている遠い距離をものともせず、一つの共同体を形成し、伝統、信念、先祖、不運、喜びを共有している仲間がほかにも生きているということを、部族の一人一人に思い出させるために、何日も何週間もかけて、一つの話をあるマチゲンガ族から別のマチゲンガ族に長い旅をして携えはこんでいく、クスコの東部やマードレ・デ・ディオス川流域の不健康な森にいる一人、あるいは複数の語り部の存在。物語を語るという単純で非常に古い技術―務め、必然性、人間の習慣―によって、マチゲンガ族を一つの社会、連帯しあう人々の共同体にまとめあげる潤滑油となっている語り部の人目に触れない、伝説的な影に私は心を打たれた。」

    引用文中の「マチゲンガ族」は、他の人々の集団に置き換えることも可能だろう。日本にもかつては「語り部」が存在した。はじめに言葉ありき。「語り部」の「言葉」によって語られる「ものがたり」なくしては神も人も民族もこの世に現れることはない。「語り部」こそは創造主である。リョサが、語り部に作家の姿を認めていることをわざわざ指摘することもあるまい。「語る」ことによって、遠くにいる人々を繋ぎ、一つの共同体にまとめあげることができる。創造の仕事に携わる者のみの知る悦びがここにある。

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