思い出すこと (新潮クレスト・ブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901905

作品紹介・あらすじ

詩集か、エッセイか、あるいは小説か――。円熟の域に達したラヒリの文学的冒険にみちた最新作。ローマの家具付きアパートの書き物机から、「ネリーナ」と署名のある詩の草稿が見つかった。インドとイギリスで幼少期を過ごし、イタリアとアメリカを行き来して暮らしていたらしい、この母・妻・娘の三役を担う女性は、ラヒリ自身にとてもよく似ていた。――イタリア語による詩とその解題からなる、もっとも自伝的な最新作。

感想・レビュー・書評

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  • Language Is a Place: A Conversation with Jhumpa Lahiri
    https://lareviewofbooks.org/article/language-is-a-place-a-conversation-with-jhumpa-lahiri/

    Jhumpa Lahiri speaks to Khairani Barokka: On self-translation and turning to poetry - Modern Poetry in Translation
    https://modernpoetryintranslation.com/jhumpa-lahiri-speaks-to-khairani-barokka-on-self-translation-and-turning-to-poetry/

    ジュンパ・ラヒリ、中嶋浩郎/訳 『思い出すこと』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/590190/

  • ローマに移ったラヒリが、家具付きアパートの古い机から発見したノートには、ネリーナという人物が書いたと思われる詩が綴られていた… 既婚女性として、娘として、母として。

    詩集を読む形で静かにネリーナの人生に添う。
    時に自分を顧みながらの味わい深い読書時間。

  • 友人に勧められ読み始めた、ジュンパ・ラヒリのイタリア語で書かれた詩集というべき作品。
    数作読み、ジュンパ・ラヒリは短篇がいいと思った。詩は馴染みがなく、苦手意識が強い。それでもこの作品に手を伸ばしたのは、友人と読後感を共有出来そうという理由とジャケットに惹かれたから。

    読み始めると、意外にもページをめくる手が止まらない。詩というジャンルのカテゴリーはわからないけど、この作品は作者自身のエッセイ、自伝的作品といった印象を受ける。作品の中で作者がネリーナ、博士、自身の、三役を演じた意味を考えた。イタリア語に魅せられた作者がそうまでしてイタリア語で詩が書きたかったのか…。
    イタリア語で読めないのは全く残念。詩というのは、とりわけ作者が選んだ言葉によって、読者がどう受け止めるか、散文以上に重要な役割を担うような気がする。詩そのものや、その翻訳の良し悪しはわからないが(選ばれた日本語は美しい)、作者がローマでの暮らしで見て感じたこと、読者と共有したいことが感じられ、意外にも楽しい読書となった。

  • 『さらに、机の引き出しの中には、あるものがきちんと積み重ねられていた。それは色も種類も違う数冊のノートで、なかには表紙に《ネリーナ》という名前がボールペンで手書きされたフクシャピンクのノートがあった。《ネリーナのノート》には未発表の詩がたくさん書かれていて、同じ人物の筆跡のようだった。詩の一人称話者には、既婚女性、母親、娘という三つの人格があるように思えた。ホリーナが作者の名前なのか、詩を捧げた相手なのか、ミューズなのか、それとも単なる詩集の題名なのかはわからなかった。いずれにしても、写真の真ん中で二人の女性に挟まれて、太陽で表情がほとんどかき消されている女性がその人なのではないかと感じた。同じ二〇一二年、ローマ国立図書館のエルサ・モランテ関係の資料のなかに、まったく同じ題名の自筆のノートがあることを知り、わたしの好奇心はますます高まった』―『はじめに』

    頁を開いてみると、ジュンパ・ラヒリの初めての詩集(しかもイタリア語による)と聞いて想像していたものとは全く違う世界が広がる。そもそも序章とも言える「はじめに」からしてこの一冊が単なる詩集というよりは、もっと思慮深いものが表出した結果であることを示唆する。と同時に(そしてそこが興味深い点なのだが)ラヒリが為そうとしていることは、読者を普段は気にも留めないような事柄の中にある多面的な意味世界へ誘おうとすることであると気付く。例えば冒頭の引用を読めば、どうしたってウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の序章「手記だ、当然のことながら」を思い浮かべてしまう訳で、なるほどそういう作りなのかと身構えた瞬間、すでにジュンパ・ラヒリの仕掛けた罠に嵌まってしまっている、という仕組みな訳である。

    『一九六八年八月十六日、修道院長ヴァレという者のペンによる一巻の書物「J・マビヨン師の版に基づきランス語に訳出せるメルクのアドソン師の手記」(一八四二年、パリ、ラ・スルス修道院印刷所刊)を私は手に入れた。この書物は、編纂の事情について審らかにしていないが、元をたどれば、ベネディクト修道会の歴史に貢献したことで知られる一六〇〇年代の碩学がメルクの僧院で発見した十四世紀の手記を忠実に復隠したものであるという』―『薔薇の名前/手記だ、当然のことながら』

    イタリア語に魅せられ言葉集めに没頭した挙句にイタリア語で執筆までしてしまったラヒリが、記号論の大家でもあるエーコに影響されただろうことは大いにあり得ることとして想像ができる。それは、特に「語義」と記された章に並ぶ断片的な思考の痕跡を読んだだけでも推し量ることができるけれど、夥しい「注」を一つひとつ読むと尚のことよくラヒリの思考の道筋がエーコのそれを彷彿とさせるものであると感じられる。そして特記しておきたいのだけれど、この注も単なる注ではない。普段から巻末の注は引用の参照先を記したものでなければ本文と合わせて読み進める方ではあるけれど、この巻末の注はいわゆるAppendix的なものではなく本文の一部(あるいは本文の整然とした思考の道筋からはみ出した脇道、連想のようなもの)で、独立した「章」と見て取っても変ではなく、簡単に読み飛ばしたりすることが出来ない。あとがきにあるように、この注はラヒリが手に入れた手記を預けたペンシルヴェニアのブリンマー大学(実在の私学の女子大。津田梅子の留学先)でイタリアの詩を研究しているというマッジョ博士(Verne Maggio Ph.D。Verneはラテン語、Maggioはイタリア語で各々「五月」の意味。)によるものとなっているが、それもまたラヒリの創作というのだから。実に手が込んでいる。

    『教会のファサード(19)を/一年近く包んでいた覆いは外され/デ・キリコの到着点だった/突き当たりの風景もきれいになる』―『マッツィーニ通りの』

    『(19) ファサードが«sfacciate»と書かれているが、それは«facciate»(ファサード)と«sfacciataggine»(無遠慮)の混同と考えられる。とりわけ、早朝にローマのサン・フランチェスコ・ア・リーパ通りの教会の後ろから昇る太陽がどれほど眩しいか知る者にとって、この混同の理由を理解するのは難しくない』―『注』

    そして何より、この一冊が「詩」という形式を採りながらも、どこかラヒリのイタリア語で書かれた他の二冊の本のように、エッセイあるいは私小説風に作家自身のことを語っている文章とも読めることは挙げておかなければならないだろう。散文形式のミニマルな言葉を読みながら、ラヒリの来し方がぼんやりと見えてくるようにすら思えるのだが、思い返してみれば、それはこの作家の特徴とも言えるもので特にこの一冊が典型的な訳でもないとも思うけれど、イタリア語で語られる自身の思い出が英語で語られた時のオブラートに包まれたようにぼやけている思い出よりも鮮明に見えるのも確かなこと。「別の言葉で」から続く作家の「現所在地」(それは移民二世としての漂流感と対比された比喩としての住所)もまたここにはに描かれているとも感じる。

    因みに「ホリーナ(Holina?:ベンガル語ではit did not happenという意味とも)」というのがラヒリの母親の名前なのかと一瞬考えたが、調べてみると彼女の名前はタパシュ(Tapati:太陽の神の娘)。ただし詩の中で語られるように彼女もまたベンガル語で詩を書いて出版するなどしていたようではある。また詩集を遺したとされるネリーナ(Nerina:海の精)という女性の名前は、ラヒリの本名ニランジャナ(Nilanjana:青い目を持つ人)と繋がるものなのかも知れない。

  • 読んでいて、ヨーロッパの街の空気の匂いが思い起こされた。

  • 中古の書き物机の引きだしからでてきたのは詩が書かれた何冊ものノート。ラヒリはさまざまな土地を渡り歩いてきた移民の女性によって書かれたとおぼしいそのイタリア語の詩を知り合いの大学教授に預け、注釈を施してもらう。メタ的な仕掛けの詩集。


    詩人はラヒリ自身、大学教授は存在しない。自分の作品に素知らぬふりで自分で注振るの、ぜったい楽しいよなぁ。バックグラウンド不明な詩があって、注釈が詩人の肖像を浮かび上がらせようとする構造自体はナボコフの『青白い炎』と同じだが、読み口はあの怨念のような小説とはもちろん全く違う。
    なぜこういう枠物語を用意したのだろう。家族がテーマになっているから? 小説家としての自分のパブリックイメージから距離を置いて読んでほしかった? ただのちょっとしたいたずら心かもしれないし、イタリアの実験小説に対するリスペクトかも。
    イタリア語の単語を取り上げて面白がる連作がよかったが、これは翻訳不可能だよなぁとも思った。ラヒリはわざと綴りを間違え、非ネイティブであることと言葉遊びの面白さの両方を表現しているらしい(これも自作自演で指摘するユーモア)が、その綴り間違いは訳に反映されていない。贅沢かもしれないが、試みて欲しかった気もする。

  • ラヒリさんがローマの家で見つけた“ネリーナのノート”には、たくさんの詩が書かれていた。イタリアの詩を研究しているヴェルネ・マッジョに依頼して、整理・解説してもらい、出版したのが本書──という設定である。
    うーん、詩かあ……と思いながらページを開いた。案の定、さっぱり意味がわからない。そのうえ、やたらと注釈が振られていて、その都度巻末まで進んで参照しなければいけない。だが、そのほとんどが翻訳された場合には無意味となるイタリア語の単語や文法の誤りの解説で……。
    途方に暮れながら読了した。

  • 絵本作家まつむらまいこさんのthreadsで紹介。
    https://www.threads.net/@maykomatsumura/post/Cy4L5dUyOS0
    。。。
    アマゾンより
    創作と自伝のあわいに生まれた一冊の「詩集」。
    円熟の域に達したラヒリによるもっとも自伝的な最新作。

    ローマの家具付きアパートの書き物机から、「ネリーナ」と署名のある詩の草稿が見つかった。インドとイギリスで幼少期を過ごし、イタリアとアメリカを行き来して暮らしていたらしい、この母・妻・娘の三役を担う女性は、ラヒリ自身にとてもよく似ていた。――イタリア語による詩とその解題からなる、もっとも自伝的な最新作。

  •  ジュンパ・ラヒリの最新作が出たと聞いてすぐに読んだ。まったく内容を把握しないまま読んだら、かなりトリッキーな作品で驚きつつ余韻があった。詩のことを理解するまでにはまだまだ時間を要しそうだけども…
     ラヒリ自身がまえがきを担当していて、彼女がイタリアに住むその家にあった机から発見された断片的な詩を著名なイタリア語学者が編纂した、という設定の本著。実際にはラヒリの1人3役らしい。訳者あとがきによると、この手のギミックはよくある技法らしいのだが、全く気付かず額面どおり受け取って読んでいた。
     詩とは言いつつ抽象度は低くて生活の具体的な描写が多いので、詩をよく分かってなくてもおおいに楽しめた。とはいえエッセイや日記よりは抽象度は高い。詩だからこそ読者側で想像する余地が小説よりも残っており、こういうタイプの詩なら今後も楽しめるかもしれない。好きなラインを引用。

    人生の枠組みは「死ぬ」も含めて取り除かれるべき不定詞の連続

    <<Svarione>>誤字長く残りわたしが何者かを示す機会

    動物のように人のあとに従うことを羊のようにおとなしくなるという。今では逆のことをするよう勧めるがあの日は色とりどりの群れのなかに暢気に入っていてほしいと思ったのだ。おまえがわたしと似すぎていたから。

     解説付きというのもオモシロい仕掛け。正直イタリア語の言語的な構造解説を日本語訳された文から感じ取るのは難しかったものの、引用や「こういう意図なのかもしれない」といった考察もあって単純に詩があるだけよりかはいくらか理解が深まった。しかもそれが自作自演だと踏まえるとさらにオモシロくなる。訳者あとがきによるとエッセイ、短編集の刊行が控えているらしいので、そちらを楽しみに待ちたい。

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