新・日本の外交―地球化時代の日本の選択 (中公新書 1000)
- 中央公論新社 (1991年1月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121010001
作品紹介・あらすじ
軍事はもとより政治にまして経済を優先されてきた戦後日本は、世界有数の貿易黒字国・債権国となったいま、「持てる国」として世界経済の不均衡を助成していると批判される。そして、戦後世界秩序の大転換の中で、経済力と軍事力の間のギャップが不信感を呼んでいる。市民国家そのものが変貌し、協調と責任分担を根本理念とする、地球化時代というべき国際秩序の下で、日本に何が可能か。戦後五十年を検証して日本の未来を考える。
感想・レビュー・書評
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2012.12記。
「日本の外交」刊行から20余年を経て1991年に出された続編。
米ソ冷戦、第三世界の台頭、そして冷戦の終焉・・・いずれの時代も興味深いが、一番印象に残ったのが、本書の刊行年に日本がまさにバブルの絶頂(からの今思えば転換点)にあったこと。
円安に起因する貿易摩擦で対日批判が吹き荒れ、ロックフェラーセンターの日本企業による買収で「アメリカの魂が買占められた」と激震が走る。日本の輸入の少なさの原因を国内の歪んだ慣行や商習慣に求め、内需拡大のための「構造協議」を要求する米国。それに対する反発の象徴が石原慎太郎・盛田昭夫「Noと言える日本」のベストセラー化。まさにそういう時勢だった(本書はそうした風潮に警鐘を鳴らすことで終わっている)。
昔日の感あり。 -
『日本の外交』(中公新書)の続編で、太平洋戦争後の国際状況の中での日本外交の歴史を扱っています。
東西冷戦という大きな枠組みの中で、戦後の日本がアジアにおける共産主義の防波堤としての役割を果たしながら、経済成長を遂げてきたことを概観するとともに、日本に確固とした外交理念が欠如していたことが、冷戦後の日本の外交の混迷を招いたという指摘がなされています。
日本の外交史に見られる枠組みが提示されていた前著に比べると、ややスケールの大きさに欠ける印象もあるのですが、いまだ評価の見定めがたい現代史を扱っている以上、やむをえないように思います。戦後日本外交史が分かりやすく概観されていて、おもしろく読みました。 -
入江昭『日本の外交』の続き。前作が、カバーしていない戦後の日本外交史についてまとめられている。
戦前から我が国の外交は、国際環境に合わせて場当たり的な対応に終始し、一貫した外交思想を持っていないというのが筆者の主張であり、本書においても、そのように主張しているところがある。しかしながら、90年代に近づくにつれ、外交の根源的思想をどうするかということについて議論が始まりつつあると述べられており、だんだん我が国でもそのような機運が高まってきていることについて述べられ、本書は終わっている。(本書が書かれた時代は、1990年である)
私自身、外交は国際環境によって規定されると考えているため、筆者の主張する外交の思想がよくわからなかったが、二作通じて読んだことで、筆者の言わんとしていることを理解し、共感することができた。2000年代が終わり、2010年代も半ばを迎えつつあるが、今の筆者は90年代と00年代をどのように評価するか、興味深いところである。 -
戦中の日本の状態を軍事・経済・思想の面から見る必要がある。軍事については大国であったが、経済については小国であった。思想については、アジア主義を掲げていたがアメリカの理想に比べれば、普遍性に欠けていた。このように軍事面ではアメリカに対等であったかもしれないが、経済・思想面で劣っていたことが太平洋戦争に負けた一因であろう。
戦後において、思想面が大変重要になってくる。戦後米ソという二大帝国による国際秩序が生まれたが、その2国の対立は資本主義と社会主義という思想面でのものであった。日本もその国際秩序に組み込まれていく中で、米国占領の影響を受けながら、どのような思想を持つか選択したければならなかった。
米ソの思想的対立が、軍事・経済にも及びそれぞれが同盟を作るようになって行った。日本も米側に組み込まれていった。その中で、朝鮮戦争などにより、日本の軍事的役割の必要性を米が感じ日本は再軍備に進んでいく。日本の米側単独講和もこの流れの一つである。したがって、日本は軍事・経済・思想について米に強く影響されることとなった。
1950年代は、世界的には米ソの核の脅威にさらされ双方の軍事同盟が結ばれるようになった。また第三勢力が台頭してきた。日本は、軍備を最小限にとどめ、経済発展を最重要視していた。そのため中国とも、一定程度貿易を行っていた。しかし、朝鮮との関係を改善しようとしないなど、思想面では、戦前と変わらなかった。
1960年代は中国等の新興国が発展してきている。日本は単にアメリカを追随していたのではなく、ベトナム戦争には消極的で、沖縄返還などでもアメリカに対抗していた。日本も外交方針を明確にする時期に差し掛かっていた。
1970年代は、アメリカが軍事的に経済的衰退していく転換点であった。それゆえ、米中の国交を結ぶことになった。日本は、世界の外交的役割を自覚するようになり、中国などと文化交流も進めた。
1980年代になって、米ソ冷戦の終戦が現実的になってくる。その中で、国家以外のアクターが力を持つようになるなど、国際関係に変化が出てくる。日本は、順調に経済発展していたが、貿易摩擦などでアメリカ等から警戒心を持たれるようになる。依然軍事は小さかったが、経済とのギャップを埋める思想がなかったので、いつ軍事大国化してもおかしくないと考えられていた。国際協力が必要になってきた。
国際秩序の新たな構築が迫られる中で、日本はどのような役割を持つべきかという理念を持つことが重要である。特に人権などを尊重し、国際協調に貢献するべきである。 -
前著 日本の外交の続編。1960年代以降の外交を中心に、政治・経済的な面の戦後史的な本。内容は、下記の通りであり、基本的な政治史がわかれば全体像もわかりやすいと思う。
序五十年の軌跡
第1章 日米戦争の結末
第2章 日本外交の再出発
第3章 平和的共存の芽生え
第4章 第三世界の抬頭
第5章 経済混迷期の外交
第6章 「ポスト冷戦」の世界へ
二一世紀に向かって -
戦後日本の経済力と軍事力のギャップ、そのギャップが、国際秩序の中で
如何に評価され、外部からの評価をどう国内の動きにつなげていくか
これがここ20年ほどの日本の課題であったと思う。
この本は戦後から現代までの主に外交分野での軌跡を追いかけているが、常にその時々で沖縄が絡んでいる。
その沖縄の絡みから、戦後日本を提示する方法があると、思いたい。 -
前著「日本の外交」の続編。戦後日本外交の変遷が冷戦下の政治・軍事・経済・文化的側面より包括的に考察されている。
敗戦直後から1950年代までの日本外交の変遷については、公文書が当時すでに公開されていることもあり、現在の論調と遜色がない。日米安保体制のもとで経済発展を第一目標に掲げ、イデオロギーよりも経済的利益に重きを置く日本外交の姿が描き出される。
一方、後半部分の1960年代から1990年代に関しては現在と異なる視点が何点か見受けられた。しかし、当時の日米貿易摩擦をはじめとする国際状況を考慮すれば致し方がないものとも思われる。
注目すべきは、1980年代の考察から非国家主体の台頭や地域統合の活発化に触れている点だろう。現在と照らし合わせてもこの点は卓見といえるはずだ。 -
戦後外交について。
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名著『日本の外交』の続編として出された新書。
歴史家が、「現代」「現在」を語ることの難しさを痛感させられた著作。外交史の大御所である入江昭氏が書いた著作であっても、15年経った現在読んでみると、論証の度合いや認識不足という点が気になってしまう。
歴史家は常に、過去の一事象を取り上げて論じる。もちろん、その一事象の原因・背景・経過そして影響までも知った上で、その一事象について論じるのである。しかし、現在は違う。我々が生きる現在には、過去はあっても未来はない。現在を形作っている原因・背景すらもはっきりしない。
そのような状況の中で、現代史の通史を描くことは歴史学者として勇気のいることだと思う。
さて、本書の肝心の中身であるが、冷戦は終結からソ連崩壊の間に書かれているため、時代の「過渡期」で試行錯誤している様がうかかがえる。
その一方で、前作から貫かれている「定まらぬ日本の外交姿勢」ということは明確に打ち出されている。今や当たり前の概念となったボーダーレス時代の地球を見据えた著作と言えるだろう。
ただ、日米関係の考察は鋭いものがあると思うが、日韓・日中関係についてはやや考察が甘い部分があるように感じた。 -
『新・日本の外交――地球化時代の日本の選択』(入江昭、1991年、中公新書)
第二次対戦後の国際政治史を詳細に解説している。すばらしい分析力をもって書かれている。国際関係の流れが国際政治、国際経済の両側面から説明されているので非常にわかりやすい。
初版が1991年であるため、近時の国際関係については記述がないが、80年代までの国際関係と日本外交の流れを学習するには非常に有益である。
(2009年6月29日) -
『日本の外交』の方のレビューをしたいのだが見当たらないので続編の書評を書く。
本書は、?変転する国際状況の中で日本外交の指導原則が果たした役割、?日本人の抱いていた考えと現実の国際関係との間のずれ、?日本外交の思想的背景と政治・社会の動向との繋がり、の三点を骨子に、明治初年から第二次世界大戦を経て「吉田ドクトリン」が規定路線となる1960年前後までの日本外交を、一方的なドグマや陳腐な解説に不満足に筆者独自の視点で振り返っている。
目指すべき国家目標が比較的明確であった明治初期、政治面、軍事面、経済面で「海外各国と並立を図る(三条実美)」ための努力が、とりもなおさず不平等条約の撤廃という政治的目標とリンクしていた時代には、一貫した外交姿勢が容易に存在し得た。しかし運輸技術の発展などにより西洋によるアジアへの領土的、経済的、軍事的進出の姿勢が顕著になるにつれ、「欧州連合に加わり利権を獲得(大隈重信)」しようと、列国に歩調を合わせた外交、アジア主義を排して帝国主義的発展を期そうという「現実主義的/機会主義的な」外交姿勢は国内の理想主義者たちの批判の的となっていく。
日露戦争開戦直後、朝鮮半島の支配権、南清への進出経済的発展から更に南満州への進出と、日本が大陸国家への道を歩みだした当時も根底にある外交姿勢は変わらなかった。日露戦争の勝利が西欧諸国を刺戟する事が恐れた政府は、アメリカ国内の排日運動、日英同盟の希薄化、清国内のナショナリズムの昂揚、英米の援清姿勢という厳しい国際環境の中で、列国と協調した「現状維持政策(伊藤博文)」を採っていく事となる。また国内的には、こうした日本外交観念の無思想性に対して、「日本はアジアの指導者として西欧に対峙すべきである」という「道徳的アプローチ」=アジア主義が、民衆や軍部(主に陸軍)の中で高まっていくこととなる。国内外で日本外交は孤立化し、指導者間での対立が生じ始める。
1910年代に入ると辛亥革命、ロシア革命という変転が起きる中、ヨーロッパに代わって台頭したアメリカが新たな国際秩序へ強い意欲を見せる。中国の近代化を助けようというウィルソン外交に象徴される外交姿勢がそれで、むしろ混乱した国際情勢の変転期を「日本の版図拡張の好機到れり」と考えていた日本陸軍とは大きく姿勢を異にしていた。しかしアメリカへの経済的依存性を高めていた日本政府はこうした折衝を避けようと、三次四次にわたる日露協商、日英同盟改定を行って欧米協調主義を貫こうとする。同時に国内では岡倉天心、近衛篤麿、樽井藤吉らに代表されるアジア主義の高まりは抗し難い影響力を持ち始める。米ソが新外交の時期へ突入していく一方、日本は新しい外交観念を打ち出せずにいた。
こうした中で軍事、経済、思想的に乱れた日本の対外態度に統一性を回復し、新しい国際観念を以て世界の諸問題に対処しようと尽力した幣原喜重郎が現れた。幣原はワシントン体制を新たな国際秩序と捉え、米との協調、軍事費の削減、中国内政不干渉による列国との協調姿勢を打ち出し、「経済的依存が平和な国際関係を維持する」という観念に傾倒した。
しかし幣原外交は世界恐慌により破綻、積極外交を標榜した田中外交から満州事変を契機に軍部独裁へと一気呵成に日本外交は瓦解した。ひとたび大陸進出への箍が外れると一挙に対外問題が頻発し、それに呼応するようにアジア主義は暴走気味に大東亜共栄圏思想へと加速、軍部・政府の一貫した国防計画の欠如も相俟って日本はついに破局(日米開戦・帝国の崩壊)へと身を躍らせることとなる。
このような考察を経て、著者は「現実対応的な次元を超えた地平で外交を包摂する哲学や理念を日本はいまだ持てずにいるのではないか」、との問題提起により 本書を締めくくる。とあるAmazonユーザーがこの本の書評で「この言葉は、21世紀を迎えた現代にあってより切実な重みを持ってくるのではないだろうか。」と嘆しているが、正にその通りであると私も思う。16冊目。