コシヒカリ物語: 日本一うまい米の誕生 (中公新書 1362)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (236ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121013620

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  • 「日本一うまいコメ」として、コシヒカリは1956年に発表されて以来、長くその名声を守り続けてきた。コシヒカリには、七不思議がある。
    ①戦争中に、コシヒカリの育種が始められたが、美味しいコメを育種目標にしたのか?
    ②その当時の育種目標は、いもち病に強い品種が求められたのに、いもち病に弱いコシヒカリが選ばれたのか?
    ③新潟県農事試験場の高橋浩之が始めたが、なぜ福井試験場でコシヒカリが完成したのか?
    ④福井県でコシヒカリが育種として完成したが、福井県の奨励品種として認められず、新潟県で奨励品種となったのか?
    ⑤東日本と西日本でコメの味について、好みが違っていたが、東日本と西日本の両方で美味しいとされたのか?
    ⑥草丈が高く、倒伏しやすいコシヒカリは、稲作の機械化が進めば消えるとされたにも関わらず、消えなかったのか?
    ⑦稲の品種の寿命は、一般に10年くらいとされているが、コシヒカリと肩を並べていたササニシキは、減少してヒトメボレに取って代わられたが、コシヒカリは誕生以来50年近く君臨しているのはなぜか?コシヒカリを超えるものがなぜできないのか?
    コシヒカリ 七不思議の物語
    コシヒカリは、農林1号と農林22号の交配だった。戦前の主流のコメは農林1号で5万ヘクタール作づけされていた。農林1号は、いもち病に弱く、倒伏しやすい性質を持っていたので、この弱点を解決することを目標に育種が始められた。いもち病抵抗性品種を育成することに全力をあげた。農林22号はいもち病に強い性質を持っていた。新潟農事試験場では、その交配したものがいもち病にあまり強くなかったので、新設の福井農業試験場に渡すことになった。稲の育種の未経験だった石墨慶一郎によって育種が継続された。1948年マグネチュード7の福井地震で試験田は埋没したり浮き稲になったが、新潟よりきた農林1号と農林22号の交配は生き残った。そして、育種は継続された。その当時は、食味試験はまだなかった。戦後の早い時期なので、肥料が不足していたので、コシヒカリはいもち病にかかりにくく、徒長もしなかったので、弱点が表面化せずに登録されたという奇跡のような話なのである。しかし、石墨は農林1号と農林22号の交配の中から、いもち病に強いホウネンワセを育種選抜していたので、コシヒカリを県の推奨品種にしなかった。石墨はそのコシヒカリを各県に送って試験したら、北陸3県はよくないと判定した。新潟県農業試験場長の杉谷文之はそのコシヒカリが良いと判断していた。しかし、このコシヒカリは倒伏しやすい性質を持っていたがコメはしっかりしていた。杉谷は「栽培法によって克服できる欠陥は、致命的な欠陥にあらず」と言って、推奨品種にした。杉谷以外の残りの稲作技術者は倒伏しやすいので反対していたにも関わらず、杉谷は場長権限で押し切った。奇妙な運命をたどるのである。1956年に「越の国に光り輝く」として、コシヒカリと名付けられ新品種として登録された。
    その時のコシヒカリの栽培を担当していた国武正彦は、「倒れやすい、いもち病に弱い」という性質を知りながら、やがて米は食味・品質で差別化される時代がくるに違いない。来る時代のためには、品質・食味に優れた新潟米を確立する必要があり、それにはコシヒカリは、どうしても切り捨てられないと思っていた。
    コシヒカリが倒伏しやすく、いもち病に弱いということは、肥料のやり方を元肥を少なくして、追肥していくという栽培方法を取り入れて解決した。多肥多収作りには向かなかった。また窒素肥料を抑えることが食味が上がるということもわかった。そして、それは魚沼(2万2000ヘクタール)の気候条件に適していた。コシヒカリは耐冷性品種だった。ただ、コメは配給統制の時代であり、コメが美味しいことより収量が上がる方が良いとされ、コシヒカリは、魚沼を除いて、新潟県での普及は少なかった。
    1962年に新潟知事に当選した塚田十一郎は、「日本一うまい米作り運動」をスタートさせる。ただ、相変わらずのコメの統制によって、うまいコメを作っても評価されないということで、挫折することになる。1967年から新潟知事になった亘四郎は、コメ政策を大きく転換し、質より量を重視する「コメ100万トン運動」を始める。この頃から、収穫の機械化が導入され始め、機械に適して収量の高い短稈種の稲が普及し始める。しかし、1969年10月には食糧庁の古米在庫が550万トンを超えるというコメ過剰がやってきた。1970年に生産調整という減反政策が始まるのである。合わせて、自主流通米というコメの自由化も図られることになった。1971年に食味ランキングが発表されることで、コシヒカリの美味しさが評価されていくことになる。ここで、コシヒカリが注目を浴びたのは、貯蔵特性が高く、品質の劣化がないことだった。つまり、古古米となってもコシヒカリは美味しかった。試験的に調べると1年間常温でコシヒカリを貯蔵すると脂肪酸の生成量は、日本晴れの約3割減だった。コシヒカリは古米臭が少なかったのだ。
    東日本では、陸羽132号が美味しいとされた。それから農林1号が生まれた。西日本では朝日という品種が美味しいとされた。そこから農林22号が生まれた。コシヒカリは、東日本と西日本の美味しいコメの系譜を引きついたのだった。そのことが、西日本と東日本の米の美味しさが一つになったのである。1979年に新潟県ではコシヒカリの作付けがトップとなった。自主流通米としてコシヒカリの価格が上昇することが大きな要因だった。「うまいコメを作れば付加価値が上がる」となった。
    1993年に冷害が起こり、ササニシキは冷害に弱く、没落していく。コシヒカリは冷害に強かったことで、コシヒカリがさらに広がることになった。1995年に食管法から、食糧法になることで、魚沼コシヒカリがますます価格が上がることになった。1996年には、魚沼産コシヒカリが1表32200円という高値をつけた。そのことから、6万トンしかできない魚沼産のコシヒカリの偽コメが出回るようになる。
    コシヒカリの倒伏しやすいことを松島省三によって、栽培法において確立することがまずポット栽培でできるようになり、それを田でできるようになった。(この内容は実に面白い。稲作をしている人はこの本を読むべきである)そのことが、結果として機械化にも適応することになった。
    育種の目標に美味しいが第一になったのであるが、食味が良いことといもち病抵抗性や耐倒伏性や短稈種は負の相関にあるとされた。
    食味が何が関与しているかの解明がなされ、北海道のコメのまずい理由が、アミロース値が22%ありたんぱく質が8%あることがわかった。そのことから、美味しいを米粒レベルで測ることができ、アミロースを減らしたんぱく質を減らした「きらら397」が1988年にできた。各県でコシヒカリの近縁種が次々に誕生し、あきたこまち、ひとめぼれ、ひのひかり、きらら397、ゆめぴりかと生まれていくのである。「コシヒカリ一門にあらずんば、銘柄米にあらず」という状況が生まれる。こうして、日本はコシヒカリのモノカルチャーになるのである。
    コシヒカリを超えることの育種にたゆみない努力がなされている。アミロース値が16%くらい、たんぱく質が6.5というのが理想となっている。コメの目的別の開発が重要になり、おにぎり、弁当、ピラフなどに向けた品種開発やその他の美味しい要素 粒感、ふっくら感などがさらに追求されていくことになる。それにしても、食べ慣れたものが一番美味しいということも関わってくる。
    コシヒカリの七不思議は、実に面白い物語となっている。
    コシヒカリの美味しさを追求する上で、肥料管理が重要な意味を持っていたことで、栽培方法も考案されたのは、おもしろいと思った。

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