- Amazon.co.jp ・本 (298ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121021793
作品紹介・あらすじ
公家社会と深く交わるなかで王朝文化に精通し、明国の皇帝には日本国王の称号を授与され、死後、朝廷から太上天皇の尊号を宣下される-。三代将軍足利義満の治世はしばしば「皇位簒奪」「屈辱外交」という悪評とともに語られる。だが、強大な権力、多様な事績に彩られた生涯の全貌は、いまだ明らかにはなっていない。本書では、新史料にも光を当て、公武に君臨した唯一無二の将軍の足跡をたどる。
感想・レビュー・書評
-
中世和歌史が専門の国文学者による足利義満の評伝。当時の公家たちの日記をふんだんに引用して、足利義満と公家社会の関わりから義満の人物像を描き出している。義満といえば、「皇位簒奪」を企てようとした人物として、一般では思われているが(古くは、田中義成の研究やそのリバイバルとしての今谷明の研究など)、後半の3章では「皇位簒奪者」としての足利義満像が徹底的に否定されており、とてもスリリングな読み物となっている。
① 足利義満と公家社会
足利義満は、16歳で参議・左近衛中将、21歳で権大納言・右近衛大将、25歳で左大臣、37歳で太上大臣、それに加えて准三后の待遇を与えられている。祖父の尊氏、父の義詮が共に権大納言で終わったのに対して、その官位待遇は比較にならないほど高い。義満の公家社会への接近は「義満の公家化」として古くから知られているが、単に公家社会に憧憬を抱いただけでなく、自らも学問・藝能に広く通じて、時に主催し監督したのが特徴である。義満は朝廷にて内弁を多く勤めており、左大臣として多くの朝議・政務を実際に指揮監督した。義満の指南役は、関白の二条良基であり、二人の関係は師弟関係として良好だったとされる。義満は朝廷において、良基に伝授された振る舞いの流儀内で行動しており、それは「摂関家の支配する文化圏に留まることを意味する」(P.95) と述べられている。
② 日明(勘合)貿易について
義満といえば、歴史の教科書では勘合貿易を始めた人物として知られているが、その際に「日本国王」と称したことから、天皇・将軍を超越しようとした捉え方がある。しかし、これは誤謬であるとしている。義満が、まず求めたのは貿易の許可であり見返りとしての巨額の貿易利益である。そもそも義満は国内向けに「日本国王」を称したことはなく、廷臣も大臣も「日本国王」として意識していない。幕閣はこの号に否定的であり、義満の国内の政治的地位になんらかの影響を与えた痕跡もないようだ。(P.227) ただの貿易交渉における方便だったといえよう。
また、勘合貿易によって、明の冊封体制に入ったことで、これを「屈辱・土下座外交」と見る向きもあるが、当時の「宋朝僧棒返牒記」による記述内容を見ると、1. 「当日は、明使・詔書よりも義満が北側に位置している。これは自身が上位に立つことであり、外交儀礼の核心である宗藩関係を全く理解していなかったか無視していたかである。」2. 「拝礼は一回のみあり、法服に平袈裟姿も平常の装束だった事実は、冕服を着て四、五拝すべしという明の規定から全く逸脱する。」(P.229) といったものだった。このことから外交交渉は、平身抵頭したものではなく、全くもって礼に欠いた、いい加減な外交交渉だったようである。
③「太上天皇」宣下について
生前の義満に対しては「御幸に准ふ」、「仙洞御願に准ふ」、「上皇に准へ奉る」、「法皇の御跡を模る」という表現が散見されるだけであり、飽くまで「准へる」のであって、同格ではあっても、そのものではない。(P.236) また二条経嗣が表した「荒暦」によると、義満が太上天皇の尊号宣下を執拗に望んだが、朝廷の延臣たちはこれを真に受けずに、尊号宣下は先送りにされたと読み取れるようだ。衰頽していた朝廷といえども、義満の要求をのらりくらりと躱すだけの力はあったようである。
本書では、多くの一次史料が引用されており、読み進めるのには少し苦労した。この時代について全く知識のない人には厳しい本かもしれない。しかしながら、手堅い論証によって従来の義満像が再検討されており、おもしろかったのは確かだ。いずれまた再読したいところである。昨今の歴史学による足利義満の再転換を知りたい人には大変オススメです。
評点 8.5点 / 10点詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
豊富な史料をもとに、「皇位簒奪」や「屈辱外交」といった従来のレッテルを排し、「公武に君臨した室町将軍」としての足利義満の等身大の全体像を丹念に描出している。
-
研究史も視野に入れつつ実態に迫ろうとしている。イメージ論ではなく、地に足がついた先にどのようなイメージができるのだろう。
-
平清盛にインスパイヤされ購入。
むー、特になし。(笑) -
「毎日新聞」2012年11月4日付朝刊で紹介されていました。
(五味文彦 評)
(2012年11月5日) -
足利義満に関する最新の研究成果をまとめた、という事で。東アジア史的視点から見る足利義満というのが過大に評価されがちだが、本書は基礎史料を改めて読み直そうというところから出発している。
史料から見えてくる足利義満像とは、朝議復興において「治天の君の代行者」としての役割を果たした忠臣としての側面と、無邪気とさえいえる増上慢によって混乱を招いた権力者、というイメージのようである。
ある意味で、恭献王(明からの諡号)としての姿を知りたかった人にはがっかりの内容とも言えるが、特に強調されている「和漢混合のイメージ」、すなわち、「日本人が考えた漢」と「中国」とのギャップを再検討する視点からしたら当然の結論とも言える。この辺が日本中世史の争点なんだろうか?
でも、大きな意味での東アジア史を通じた日本中世史の再検討っていうのは価値のある視点だと思うので、史料の精査が大風呂敷を畳みつつも、「日本は日本でしょ」みたいな結論にならない方が面白かったかなあ。
面白いと研究はまた違うというところか。