- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121024992
作品紹介・あらすじ
寺や仏像と日本人はどのように関わってきたのか。岡倉天心、和辻哲郎、高村光太郎、土門拳、白洲正子、みうらじゅんなどを通して、この国の宗教と美のかたちを浮き彫りにする。
感想・レビュー・書評
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仏像や寺院巡りが好きで
「信仰心がない上に古美術の知識もないのに、何故好きなのだろう?」
「好きなのに自分が仏像をどう見ているかわからない。もしやブームに乗っている只のミーハーなのでは?」
と自分を疑いながら京都や奈良に通っていたことがある自分にはドンピシャで興味深い本でした。
錚々たるメンツの人たちが、それぞれに自分の中で落とし所を見つけながら仏像と対峙してきた歴史があるならば、小物な自分のスタンスがあやふやなのは必然であろう。
白洲正子の本を読みたくなりました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
<目次>
序章 仏像巡りの基層
第1章 日本美術史の構築と仏教~明治期
第2章 教養と古寺巡礼~大正期
第3章 戦時下の宗教復興~昭和戦前期
第4章 仏像写真の時代~昭和戦後期①
第5章 観光と宗教の交錯~昭和戦後期②
終章 仏像巡りの現在
<内容>
「仏像」と銘打っているが、どちらかと言えば、仏像巡りや観光と宗教観の変遷の近現代史、と言ったところか?フェノロサ、小川一真、和辻哲郎、亀井勝一郎、土門拳や入江泰吉、最後はみうらじゅんといとうせいこうが登場する。自分は「観光」に特化して、仏像好きなのだが、そこに神々しさを見つけるくらいでいいと思っている。著者とはちょっと違うかな? -
●仏像が美術品と見なされるようになったのは近代になってからである。本書では、どのような過程で仏像が美術品と見なされるにいたったのかを解説している。
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仏像の本でありながら制作時代と仏師の関係とか、如来と菩薩の差異の説明とかは一切なく、一貫して仏像を我々はどのように受容してきたか、ざっくりいえば宗教対象か美術品かの考察に終始する。読んでみて予想外であり、その斬新さにまず瞠目させられた。岡倉天心からいとうせいこうまで、それぞれの偏愛をもって仏像と相対してきた人々のありようを小気味よく明快に分析してゆく。人並み以上には仏像に関心をもち、あちこち見て回っている自分の立ち位置について考えさせられる。そして感心したのが文章のうまさ。語彙の豊富さと確かさ。表現が的確で無駄がなく、端然として格調高い。整然としてスラスラと頭にはいってくる。どれだけ推敲しているのだろうか。さらさらと書いているのだとしたらすごい。こういう文章が入試に採用されたりするのだなと思う。
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登録漏れ。購入日不明だが、19/11/02に読了。
仏像の芸術的側面と信仰対象としての側面について、弁証法的に検討されている。対立の昇華、浸透、アウフヘーベン(笑)だ。
登場人物もすごいのだ。明治初期の文化政策から始まり、和辻、亀井勝一郎の巡礼を検討し、写真家の土門拳、入江泰吉らの仏像への向き合い方に深く寄り添い、さらに白洲正子を取り上げ、『見仏記』に至る!
なんかやられたっ!て感じ。 -
寺や仏像との関わりの変化を通して、この国の宗教と美のかたちが見えてくる。仏像ブームの思わぬ裏側と歴史的背景がここに。
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著者もあとがきで述べているが、たしかに現在数多くある仏像の本のなかで、このように日本人と仏像の関係をテーマにしたものはわたしは読んだことがなかった。
とても興味深く、また読みやすい本でした。
仏像を取り巻く歴史や環境、人々の思いはさまざまに変わっていくのに、仏像は変わることなくそこにあり続け、受け止めてくれる…そんなところもたくさんの人を惹きつける魅力のひとつなんでしょうね。
(ひとつだけツッコミを入れるなら、坂口安吾の写真w なぜその写真使った…) -
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2018/07/25
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日本人の仏像の見方として、宗教的な祈りに関する見方と美術的な造形に関する見方の二つがある。ただ後者は近代になってから生まれた見方であり、その見方が生まれた背景を探っていく図書。仏像の博覧会で外国がら評価され、日本の文化のアピールとして美術的な要素が強調されていく流れを知った。現在では寺よりも博物館に仏像の主導権があるという分析はまぁ、その通りだなと…