- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121026057
作品紹介・あらすじ
現代日本で暴力や暴動は、身近なものではないだろう。では、かつてはどうだったのか? 本書は、新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き討ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺を中心に取り上げ、日本近代の民衆暴力を描き出す試み。そこからは社会の変化や国家の思わぬ側面も見えてくるだろう。
感想・レビュー・書評
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阪神淡路震災や東日本震災の時に略奪が起きなかったり、コロナ禍にあってルール通りにマスクをしたりする近年の日本人しか知らないと意外な事実ですが、日本人は間欠的に集団ヒステリーになる歴史があります。「民衆暴力」はこの事象を掘り下げた数少ない新書です。二宮尊徳の思想を通俗道徳といい、近代国家では統治のためのイデオロギーとして用いられたそうです。通俗道徳は自らの境遇を個人の責任に還元する罠だというのです。尊徳の言ってることは間違ってませんが、身の不遇を社会の構造問題から自己責任へとすり替えるのですね。なるほど。学校から尊徳像が消えるわけです。
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民衆暴力、とはいうものの、初めの江戸時代末期のものはあまり暴力という感じは受けなかった。
一揆、その後の暴動、事件、そして関東大震災の時の朝鮮人虐殺に至るまでを解説。その時々の人々の息づかいが聞こえてくるような調査研究で、どのような事件が起きたのか、感じることができる。
巻末のあとがきに筆者が書いているように、大学生にも読めるように、という配慮からか、読みやすかった。
多数による暴力は今でも起こりうるものであり、自分が加害者になるかもしれないという恐怖も感じた。そうならないように普段から自分の気持ちをよく見ていかなくてはならないと気持ちを引き締めた。 -
著者の前著『都市と暴動の民衆史』、日露戦争の講和条件に反発して発生した日比谷焼打ち事件という程度の知識しかなかった事件について、暴動に直接加わった都市民衆の階層に着目し、その内在的論理を探究していく、そのアプローチとテーマに興味を持ったので、同じテーマを扱う本書を読むこととした。
本書においては、民衆暴力として、新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺の、4つの事件が取り上げられる。個々の事件についてはこれまで相当の研究の蓄積があるが、通して見ることによって、単純に支配者や権力に対する反発であったり、朝鮮人に対する差別意識に由来するといった、ともすると一面的な見方に対して、新たに見えてくるものがあるのが分かった。
現代では暴力とは忌避すべきものと考えられているが、少なくとも、歴史上の事件を見ていくときには、単純に進歩的又は反動的といった断罪ではなく、状況やその当事者の置かれた位置、誰に向けられたものであったかなどをに複層的に考えなければならないことを教えられた。
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個々の事件についての分析は面白いが、『民衆暴力』とはという問いへのこたえはよく分からなかった。
それぞれの事件の入門書として読む方が多そう。 -
近世の百姓一揆から新政府反対一揆、秩父事件、日比谷焼き討ち事件を経て関東大震災での朝鮮人虐殺まで。とくに朝鮮人虐殺については、2章を当ててその実態と論理を明らかにしており、歴史修正主義に抗する筆者の意志が伝わってくる。
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目を覆い、吐き気を催すほどの人間の中にある暴力性や悪魔性を前に、この事実に向き合うべき必要性を奮い立てながら読了した。
しかし、知っておかなければならないこと、そして忘れてはいけないことだと思った。 -
民衆の狂気
朝鮮人を利用して大衆エネルギーをそらす
権力を持つ側の思考
民衆管理のための自警団組織、
それが最悪の機能を果たした済州島の共和会
権力者は利用する
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近代の日本で、民衆が法や規範を突き抜けて暴力行為に及んだのはなぜなのか。4つの歴史的な事件を題材として、民衆の暴力行為を支えた「論理」を探究した本。
それぞれの暴力行為がそれぞれの「正義」に支えられていたことが分かった。
人が本来暴力的な部分を持つ生き物だということも忘れちゃいけないと思った。 -
幕末の世直し一揆、秩父事件、日比谷公会堂の暴動、関東大震災での朝鮮人虐殺をそれぞれの時代、文化などの背景を踏まえつつ、史料に基づき記載しています。暴力について考えるきっかけになる良書です。
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集団の恐ろしさ
天下晴れての人殺し
国家権力がその暴力を直接的・間接的に許可
国が暴力を容認する時、自分はどうするのか