唐木順三ライブラリーIII - 中世の文学 無常 (中公選書 16 唐木順三ライブラリー 3)
- 中央公論新社 (2013年9月9日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (573ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121100160
作品紹介・あらすじ
無常は、無常感という情緒の上にあるのではない。それは自他を含めての事実であり、根本的範疇である-。そう説く唐木は、より体系的に、構築的に無常を論じていく。思想する人として歴史哲学的思索に執着した唐木が、晩年に到達した境地をあらわした名篇を収録。
感想・レビュー・書評
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最近では唐木順三の名を知る若者も随分少ないのではないかと思うが、評者が高校生の頃(30年前)は、小林秀雄や中村光夫とともに大学入試問題に常連の評論家だった。本書所収の『中世の文学』は、「数奇」から「すさび」を経て「さび」に至って確立する中世文学の「精神のかたち」を極めてシャープな論理で抽出した唐木の代表作である。鴨長明の「数奇」になお残る王朝文学の残滓を払拭し、裸の現実を直視したのが兼行の「無常」即ち「すさび」であるが、世阿弥、道元、芭蕉をつなぐ太い稜線を形作るのは、「型」や「行」あるいは「自然」という自己を越えたものに自己を委ね尽くすことで真に自由な自己に遊ぶ境地であり、それが「さび」だ。「数奇」から「すさび」への道が「色即是空」だとすれば、そこから「さび」に至る道が「空即是色」であることは言うまでもない。東洋哲学の伝統に即しつつ、芸術におけるその極致として能、禅、俳諧に一貫する精神を明解に位置づけた傑作評論であり、西田哲学の決定的な影響をそこに見るのはさして困難ではない。
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唐木順三 中世の文学
中世の日本文学史の本。本のテーマは 中世文学の美的様式(すき、すさび、さび)の進化から 芭蕉の虚の精神を紐解くこと。
中世文学の美的様式を 鴨長明「すき」→吉田兼好「すさび」→世阿弥「さび」→芭蕉の 自己を無にして万象と一体となる思想へ つなげて論述。
中世文学の有名人を 美の様式の進化として つなげた着眼点がとても面白い
*文学と仏教がディレッタントにより 西行や鴨長明の「すき」という美的感性を生み、有の無化がテーマとなり
*全ての価値が平均化し、無興索漠とした時間が空転した世界の中で ニーチェ 的な「すさび」となり
*世阿弥の有を現す物は無〜自己を無にすることによって万象と一体となる「さび」という美的様式へ進化
芭蕉の虚の精神とは
色即是空、空即是色、諸行無常→虚を実とし実を虚とし、自己を無にすることによって万象と一体となること
すき→積極的、主体的
*西行、鴨長明
*ディレッタンティズム〜一切を捨てながら「すき」は捨てない
*すき=美的感性の段階
すさび→消極的、受動的
*親鸞、道元、吉田兼好
*すきの否定=人生のむなしさ→すきの主体的情熱を超える
*すさび=全ての価値が平均化し、無興索漠とした時間が空転した世界
*兼好は 無興索漠な世界のむなしさを「つれづれ」とした
つれづれの無為から抜ける道としての「さび」
*「さび」は様式の美的な呼び名
*枯寂幽静、さびれる、老い衰える
鴨長明
*方丈記〜世に従えば身くるし、従わねば狂せるに似たり
*方丈記〜有の無化がテーマ→存在するものは必ず滅びる
*発心集〜形をとって現れるものと 形の奥に隠れているものとの均衡、少ない詞と深い心との調和の上に幽玄がある
世阿弥
*時節のそれぞれに花を持つこと
*稽古=己に備わった時分の花を真の花に仕上げる道程
*色即是空と稽古により昇りつめたら、空即是色に還える
*有を現す物は無〜創造的無〜自己を無にすることによって万象と一体となる
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以下引用
花をつけた小枝の画をみてゐると、そこに樹の全体、また春の全体を感じる
生れる、死ぬる、咲く、散る、みな起である。時節到来、時が熟して起こるのである。一つの花が開くのも、全宇宙の力が働いてゐる。この花を咲かせるために、世界全体が協力している。この力と協力の上に、咲くということが現前する
梅花というものが、自らの原因結果で咲き、梅花というものがみづからの原因結果で散るのではない。
人間の約束事の二十四時の時間をもって計測、観測することは、人間世界の便宜のためにすぎぬ
縁起は時節到来、花開は春至であった
行為そのもの、はたらきそのものは、一切の存在をあらしめる根源的なものであるが、それを何と問うわけにもいかない
共鳴には予定調和が設定されているわけではない。予定失くして啼き、予定失くして裂く。起也。
実相の諸法に相見すといふは、春は華にいり、人は春にあふ、月は月をてらし、人はおのれにあふ。
動くものは変なり、時として止めざれば留まらず。止むるといふは見止め聞きとむるなり。飛花落葉の散りみだるるも其中にして見とめ聞き留めざれば、おさまることなし。其活きたる物だに、消えて跡なし。
相見
相見は自他脱落底
物の周りにある静寂。すべての運動は静まり、輪郭となる
理性や欲望の脱落によって、本然の姿に立ち還る
詩は本来、開存の立場のもの。
人によって山が現成しながら、それは同時に山の活計を現成したことになる。
出会うことが本質的に先である。
山の運歩と自己の運歩との一致、山と人との呼吸が合うことにより、山は人を介して己を顕わにする -
唐木順三は筑摩書房のco-founderだったのか、遠い昔の入試問題でしか知らなかった。電車の中で立って読むにはちょっと辛い574頁の中公選書です。
『中世の文学』に惹かれて、読み始めたが、「ディレッタンティズム」が何の説明もなく出てくる。唐木の時代ならともかく、この言葉を理解できるコンテクストに私はいない。
解説で粕谷一希が書いているように、『詩とデカダンス』と『無用者の系譜』を納めた『唐木順三ライブラリーⅡ』の併読が必要なようだ。