宦官 改版: 側近政治の構造 (中公文庫 B 6-15 BIBLIO)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122041868

感想・レビュー・書評

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  • 宦官の古今東西における存在の事例や、去勢手術、職務や宦官禍の盛んとされた」、前後漢・唐・明の事績を叙述している。特に手術や手続きに関する部分は生々しく読むのに目を背けたくなる。
    終章で日本に宦官制が定着しなかった理由として、殷にて羌族捕虜がされたことを事例に、去勢はそもそも他民族が大将だったことから、単一民族である日本ではその芽がなかったと推論している。しかし、その後の中国では自民族にも刑罰や自宮の例があり、また歴代で交流はあったのにも関わらず日本にはついぞ輸入されなかった点への言及が足りないように思う。

  • 中国の歴史を背後から支え動かしてきた宦官について解説がなされており、中国の裏面史ともいうべき内容の本です。

    中国史の全体にわたって、宦官が果たしてきた役割を一般の読者向けにわかりやすく説明しており、ダイナミックな中国史のなかでそのときどきの権力中枢と密接に結びついてきたこの制度の実態を知ることができました。

    終章は、「宦官はなぜ日本に存在しなかったか」「現代における宦官的存在」の二部から成っています。著者は異民族の征服と宦官の発生を結びつけ、日本の歴史において宦官が存在しなかったことの説明をおこなっています。他方で「宦官的存在」については、現代の日本もけっして無縁ではないどころか、そうした存在がますます社会のなかで大きな役割を果たすようになっているという著者の感想が語られていて、かなり自由なエッセイになっています。

  • いや〜。奥の深い世界ですわ。。。でも、僕は切れないなあ。。。笑

  •  3ページで国が滅ぶ位の勢いである。
     中国における(日本以外の世界における)、宦官の発端は、どうやら「人に非ず」というものあるらしい。まぁ男性的で合理的な発想だ。
     しかしながら中国における宦官の扱いというのは、きわめて人間くさい。正確に言うと、皇帝という存在の非常さを支える、人間的な部分。宦官であるが故に中国人特有の気の強さを失った人たち。
     中国を支えてきたのは彼らなのだなぁ……と思う。
     誰がどう見ても極悪にはなれず、人の弱い部分を残しながらも権力を握る宦官の姿は、どこか哀れである。
     ちなみに、中国で最後の宦官が亡くなったのは、1996年。ごく最近まで、宦官は居たのである。

  •  施術対象者を温床(オンドル)の上に寝かせ、徒弟の一人がその腰を、もう二人がその足を片方ずつしっかりと固定したところで、室内の緊張は一気に高まりをみせた。男の下腹部と股の上部は白い紐でくくられており、出血が最小限にとどめられるように、一応の配慮がなされている。施術される部分は、事前に熱い胡椒湯で三回ほど念入りに洗浄され、それはこころなしか、持ち主が何度も何度も想像し、反芻した不安と恐怖と痛みが伝染したかのように、力なくダランと俯いているようだ。別れを惜しむほどの猶予もなく、刀子匠(タオツチャン)が入室し、施術対象の男の目の前に立つ。

    「後悔不後悔(ホウフイブホウフイ:後悔しないか)」

     男は承諾した。自ら志願したのだ。ここで怖じれば貧しい生活からは、もう一生逃れられはしない。男は、それを手放すことで得られるかもしれない栄達に賭けるしかなかったのだ。
    鎌状に湾曲した刀子が一閃し、それはあきれるほど呆気なく、鮮やかに切断された。彼の「成り成りて成り余れる処」は、こうして主との有機的なつながりを永遠に絶ったのである。刀子匠(タオツチャン)は、白鑞(はくろう)の栓を慣れた手付きで尿道に差し込み、傷口を冷水に浸した紙で丁寧に覆った。そして、執刀を受けた男は、二人の人間にかかえられて、苦痛に耐えながら二、三時間も室内を歩き回らされる。そののち、横臥。手術後三日間は、水を飲むことさえも許されない。もうそこにはない自分の一部のことを、餓(かつ)えによる朦朧とした意識の中でつらつらと考えるうちに、なんとか地獄の三日間は過ぎ、白鑞の栓が引き抜かれると、あれほど水分を摂らなかったにもかかわらず、噴水のように尿があふれ出る。

     この現象をもって成功とする。いったい何に成功したのか。それは、男でもなく女でもない第三の人間の誕生に、だ。彼はこれから都に送られる。貴人達のお気に召す優雅な作法や知識を詰め込まれ、彼が美貌で有能ならば、後宮の婦人や皇帝に近侍することになるだろう。権力の中枢に一足飛びに駆け上がり、権力者の仲間入りを果たすことも夢ではない。
    汝の名は宦官なり。

     『三国志』や司馬遷の『史記』を読むのが好きな人ならば、「宦官」という字面は眼に馴染んだものであろう。本来、「宦」という字は「宮中に仕える近臣」という意味があり、「宦官」という言葉が直接に「去勢された男子」を指すわけではないが、中国においては、内廷奥深くに勤め、皇帝や寵姫と密接に結びつき、時代によっては外戚と権力を争いながら内乱の原因を作ったり、強大な権勢を振りかざしたりしたのが、この去勢を施された男子であった為に、「宦官」=「去勢男子」というイメージが生じる結果となった。

     しかし宦官と一口に言っても、彼らがどのように生み出され、どんな生活・仕事をし、去勢したことで身体的・精神的にどのような変化が見られるのか、といった細かい部分については知られていないのが普通である。この三田村泰助氏の著書『宦官 側近政治の構造』は、中国史に触れる上で切っても切り離せない、しかしながら歴代皇帝の陰に隠れて実体のつかみにくかった宦官というものについて、事細かな研究成果を我々の前に提示してくれる名著である。

     宦官は、古代中国の殷代にはすでに存在していたことが確認されている。無論、宦官という第三の性を生み出し、彼らを使役するという風習は、中国に限ったことではなくて、ペルシアやトルコにもあったし、エジプトや南インドにもあった。およそ、古代オリエント世界とその周辺の専制君主制を採用する国家では、宦官が存在していたと考えても差し支えなく思われるほどである。また、積極的に宦官を用いなかったと考えられている国々においても、それを必要とする国家の需要に合わせて、宦官を作り出し、市場で売買し、利益を上げていたことも事実である。

     もともとは戦争捕虜などの異民族に対して、制裁と断種の目的から去勢が行われていたのであろう。もしくは、同族間で主として姦通などの罪を犯した罪人が出た場合の刑罰として。刑罰として去勢する場合、これを「宮刑(きゅうけい)」とか「腐刑(ふけい)」という。この宮刑を受けた者は、労働奴隷として苦役が科せられたり、貴人の家庭内で奴僕として働くことが要求されたりするわけだが、そのうち、「生殖能力を持たない」ということが、権力者の妻妾の世話をするのに極めて都合がいいことが解かってくると、奥向きの雑事を一手に引き受ける宦官が誕生するのである。彼らは生殖能力を持たないが故に、高貴な婦人たちとの間に間違いを起こしようがないからだ。

     こうして、宦官が諸侯や皇帝の家庭と結びつき始めると、そこには自然と、種々の機密に与(あずか)るチャンスが生じてくる。彼らは諸侯や皇帝の私生活に食い込むことで、常に主人の心のひだの部分までをも理解し、最重要の情報にも接し、次第に表裏一体の関係を築いていく。そして時に主人と同等か、それを上回る権力を行使するようになるのである。ここまで来ると、宦官として奉公した方が有利であるという考え方も生まれ、自ら志願して去勢を願い出る者や、親の意思により、幼少期に去勢されてしまう者も出てきはじめる。罪人でないにもかかわらず、去勢を希望する状態を「自宮(じきゅう)」という。

     本書では、宦官が良い意味でも悪い意味でも特に活躍した時代、すなわち漢・唐・明を取り上げて、その中で、なぜ宦官の活動が活発になったのかを、各時代の政治背景や皇帝の資質、その皇帝を取り巻く后妃たち、及びその一族(外戚)の関係から読み解いている。宦官は、時に有力な外戚と結びついて政治を壟断し、時に政務に熱心でない皇帝に代わって朝廷を裏面から牛耳った。秦の始皇帝の側にあって、帝の死後、遺詔を改ざんし、始皇帝が継嗣として望まなかった胡亥(こがい:始皇帝の末子)を即位させた趙高(ちょうこう)や、『三国志』に登場する宦官集団・十常侍(中常侍)などは、宦官の負の部分のイメージを定着させた筆頭であろう。

     悪くすれば、一つの王朝が滅びるところまで宦官の害悪というものは増大することもあったが、その反面、この著書では皇帝と宦官たちの結びつきの強さ、愛情の深さといったものにも着目しているのが特徴である。例えば、漢の高祖は晩年病床にあって継嗣の問題に頭を悩ましていた時、誰にも相談できないその苦悩を、宦官に膝枕をしてもらいながら紛らしていたというし、後漢の霊帝は「十常侍(中常侍)」のうちの張譲(ちょうじょう)と趙忠(ちょうちゅう)を指して「張常侍はわが父、趙常侍はわが母」と言ったという。また明代には、皇帝が冷えた食事しか口に出来ないのを見た近時の宦官が、腕によりをかけて温かい食事を作って差し上げたところ、「うまれてはじめてうまいものを食べた」と喜ばれ、それ以来、宦官が皇帝の食事の支度をするようになったことなどが書かれている。

     古代から、皇帝に影のように寄り添い、時代によっては、その皇帝を押しのけるかのように表の世界に顔を出す宦官だが、彼らの専権によって王朝が衰退していくという現象を何度経験しても、中国の皇帝が宦官制度を廃止することはなかった。あたかも宦官がいなくなれば、皇帝である自分までもが存立しえないかのようにである。何故、宦官制度がなくならなかったかという問題については、多角的な見方が必要になってくるが、一つには、皇帝も宦官も、人間でありながら「普通の人間」として生きていくことが許されないという立場にあったことが、両者を親密にさせる要因であったのではないかと、私は個人的に考えている。

     「登極せし者、すなわち王」という考え方がある。王(皇)位の登った者は、その時点で唯一無二の絶対的存在として、血縁関係などのあらゆる相対的な関係性から独立するというものである。実際には王や皇帝といえども、血縁者に囲まれて過ごすには違いないのだが、思想上ではそういった関係性の埒外に置かれるのが殆どである。人民を支配し教導する立場の王や皇帝が、某(なにがし)さんの息子とか、どこそこで生まれたとか、一般民衆と同じレベルの話題でしばしば語られることは、その神聖性や神秘性を損ない、甚だ不都合だからである。中国の皇帝もまた天の代理者として、地上にありながら地上の全てのものから独立し、天の運行と天帝の地上に対する采配を補佐するとされていたから、肉体的には某さんの息子であっても、思想上は何ものにも拠らない絶対者なのである。そのことが皇帝を孤独にし、いつか権力を奪われるのではないかという激しい疑念を抱かせ、周囲の人間を一切信用できない状態に追い込んでいく。そういった皇帝ならではの苦悩は、女官や官僚といった「普通の人間」には、到底、完全に理解することは出来ないし、皇帝自身がその懊悩を、彼らに胸襟を開いて打ち明けるということも、まずないだろう。

     宦官も同じく孤独な存在である。男でもなく女でもない彼ら宦官は、身分そのものは低かったから、どんなに職務に忠実でも、大きな功績を残しても「たかが宦官」という目で見られていた。肉体の欠損、生殖機能の喪失からくる劣等感も並大抵のことではなかったはずである。中国においては、官途に就き、栄達し、子孫繁栄を図って、先祖の祀りを絶やさないことが一つの重要な価値であり、その子孫繁栄と家の祭祀が全うできないということは、中華社会の中の不適合者にほかならない。彼らは確かに人間ではありながら、なかなか人間扱いしてもらえない、孤立無援の存在なのである。

     至高の存在として君臨する孤独な皇帝と、孤立した種族である宦官―――。この二者は身分の高低、聖俗、或いは清濁、一切の相反する属性を内包したままで生活を共にするのだ。あたかも皇帝が陽、宦官が陰であるかのように。「普通の人間」になりえなかった両者は、全く異なる世界に生きているようでありながら、お互いがお互いにとって最も良き理解者なのである。

     本書を読む際に気をつけておくべき点がある。それは、この連綿と続けられてきた宦官制度を、野蛮だとか立ち遅れているとかいう風に評価すべきではないということである。勿論、野蛮という評価を下すべきものではないからといって、人体に人為的欠損や改造を加えることを是とするわけでは決してない。現代の人権意識をもとに考えれば、それは許されるものではないが、当時の宦官を必要とする時代や文化にあっては、これもまた欠くことのできない制度であったのだ。宦官を生み出していた文化を野蛮とするのであれば、現代の我々の方が大規模な戦争を起こし、大量殺戮兵器を製造している面から見ても、よほど野蛮であることを認めなければならないし、我々現代人が進歩し洗練された生活を送っていると思うのであれば、宦官が存在した時代の人々も、その当時において実現できる限りの洗練された生活を営んでいたことに思いを致さねばならない。人間の本質など、数千年・数百年程度の経過では、変化を遂げることなど無いに等しいのだから。

     本書は漢・唐・明代の皇帝と宦官の名が行きつ戻りつしながら出てくる部分もあるので、中国史に慣れない方には、少々読みづらいかもしれない。ただ、巻末に漢・唐・明代だけを抜粋した年表が付いているので、それを確認しながら読み進めれば、宦官の意外な実態を知れて面白いだろうと思う。


                                              平成二十二年七月二十日 再読了

    ※文中四段落までは、『宦官 側近政治の構造』の二十頁から二十一頁までの「去勢の仕方」より、三田村泰助氏の語と文の流れを借り、私の創作を加えて再構成しました。

  • 白州正子の「両性具有の美」の中で紹介されていたので、読み始めた。中国の国土の広さ、人種の多様さ、結果として生存競争の厳しさ・・・当然、男でも女でもない存在のあり方もスケールが大きくて残酷。
    歴史本と侮るなかれ。現代の企業内の構造と照らし合わせて考えると面白い。

  • 私の人生を大きく歪めた一冊。この本を読まなければ、中国史をやりに×××大学に行かなかったのに。。。
    そんな恩讐を越えて恩師の名著をお薦めします。

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