ニセ札つかいの手記 - 武田泰淳異色短篇集 (中公文庫 た 13-6)
- 中央公論新社 (2012年8月23日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122056831
作品紹介・あらすじ
一日おきに三枚ずつ渡されるニセ札をつかうことで「源さん」との関係を保とうとする私。しかし、その「ニセ札」が「ニセ」でなかったとしたら…。ニセ物と本物の転換を鮮やかに描く表題作ほか、視覚というテーマをめぐる不気味な幻想譚「めがね」など、戦後文学の旗手、再発見につながる七作を収める。
感想・レビュー・書評
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本屋さんで「武田泰淳の新刊出たんだ、でもなぜ?」と思って手にとった1冊。聞けば、今年は生誕100周年だという。奥さま・百合子さんの『富士日記』は今でも読まれることが多いように思うけれど、静かで非常に格調高く、しかも苦くて重苦しいものがずーんと心の奥底に残るような、武田泰淳の一連の作品が進まれる機会はとても少なくなっているのではないかと思う。私も、結構好きな作家さんながら、読まなくなって久しいので、いい機会だからと読んでみた。
「異色短篇集」と銘打っているとおり、バラエティに富んだ作品が収録されている。最初の『めがね』の書き出しにはやられた。すごくさりげなくもインパクトがあり、すっと小説に入りこんでいける。ひどい近視で眼鏡が手放せない男と、こちらもまたひどい近視なのに、眼鏡をかけようとしない女。女の眼鏡を男がうっかり割ってしまうところから、二人の世界のとらえかたのずれが描かれる。波風が立ちそうで立たないものの、不器用な恋愛(でも決して恋愛ドラマではない)と二人の価値観の開きがドラマチック。向田邦子ドラマに似た空気を感じた。『「ゴジラ」の来る夜』で描かれる、来襲するゴジラを迎え撃つ特攻チームの、密室殺人をめぐる大騒ぎには、筒井康隆作品のスラップスティックさを感じながら半笑いで読んだが、落としかたには苦さと絶望感をしのばせており、ちょっとぞくっとする。やるな、武田SF!
表題作『ニセ札つかいの手記』や『白昼の通り魔』も、じわじわと重くビターで鮮やかな面白さなんだけど、個人的に好きなのは、『空間の犯罪』。不具の男が、極道にののしられた一言をきっかけにあることに挑むさまと、そのはざまで心ならずも犯してしまう罪の顛末。不具が理由で戦時の徴兵を免れたこの男が、「自分よりもはるかにまっとうな人間が戦争で死んでいるのに、生きていてもしょうがない自分が、なぜここに生きているのか」という引けめを感じ、ガスタンクのてっぺんに上りながら憔悴していくさまが重苦しく、克明な苦い描写でくらくらくる。「どんな結末でもいいから、早く終わらせてやってくれえ!」と読んでる途中に何度か吐き出してしまいそうになった。ザ・武田泰淳な面白さと苦さの密度が高い短編だと思う。
どの作品も、武田泰淳ならではの苦さに満ちたイヤ感が漂いながらも、スットコSFからノワールに映画エッセイと、エンタテインメントにあふれた多芸さを楽しめる、ディープインパクトな短編集でした。以前読んだ、ラノベ設定仰天中華活劇『十三妹』といい、しかめっ面の純文学おっさんじゃなくて、トンデモな面白小説おじさんなんですな、武田泰淳は。しかも猫好きの。 -
★生きて行くことは案外むずかしくないのかも知れない
★ 我々は人間の美しさ強さもだが醜さや弱さもありがたがっていい
そういえば内田吐夢との白熱した対話も収録された『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティ・ブック』(清流出版2009年)で彼が映画をいかに貪欲に見ていたかを知って喜んだものでした。
本書はあの『司馬遷』『ひかりごけ』『森と湖のまつり』『富士』『快楽』など重厚な作風の武田泰淳が1963年に上梓した奇妙な味わいの小説集『ニセ札つかいの手記』で、元本には表題作の他「ピラミッド付近の行方不明者」「白昼の通り魔」の三編が収められていましたが、本文庫には表題作の他に「めがね」「『ゴジラ』の来る夜」「空間の犯罪」「女の部屋」「白昼の通り魔」「誰を方舟に残すか」の七編が収録。
ところで、大島渚の映画『白昼の通り魔』(1966年)が武田泰淳の原作だったことをご存知でしたか? 私はたしかに映像でクレジットを見てシナリオも読んでいたはずなのに、まったく記憶になくて、ええっと驚くことしきりでした。
表題作は、主人公の独身でギター弾きの私が源さんという謎の男から渡された偽札を使う任務(?)を与えられ、その偽札の半分を現金で戻すという、つまり渡された三千円のうち千五百円を使い半分の千五百円を返す。二千五百円だと不足分の千円を自分の懐から捻出しなければならない。私はお金には困っていなくて自活できる暮らしをしている。ではどうしてそんなことをするのかといえば、私は源さんに相方として認められたことを快く思っていて、否、どちらかというと光栄だくらいに考えている節がある。某日、源さんから絶縁という言葉を聞き耳を疑う。手持ちのニセ札が切れて、彼の家族が引っ越すという理由だった。これが最後だといって手にした1枚を、私は警察に手渡してしまう。源さんとの結びつきを確認しようと。
いわくいいがたい心理情景、不可思議な人間関係、つまらないともおもしろいとも断言できない、いいようのない人間の真理。
武田泰淳は全集まで手を伸ばしていなくて、冒頭の五作品以外は竹内好関連で中国思想・文学のエッセイや評論や対談しか読んでいませんから、本書で新たな武田泰淳像が加わってとても新鮮に感じました。
「きまってるよ、そんなこと。ニセ札は数が少くて、めったに見つからない貴重品だからニセモノなんだろ。だから必死になってみんな探してるじゃねえか。本物を探すバカありゃしないよ。本物のお札は、ありきたりの平凡なお札さ」 -
背ラベル:913.6-タ
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深沢七郎的隔靴掻痒文体
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正直言ってよくわからない短編の連続です。もう一度読みたいとは思えません。
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自分にはまだまだ早すぎた。もっと歳を重ねてから読みたい本。
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「めがね」
肺病病みで近眼の女が眼鏡をかけようとしないのはなぜだろう
メロドラマである
「『ゴジラ』の来る夜」
冷戦時代に誰もが抱えていた「ある恐怖」を象徴するのがゴジラだ
それは、誰もが平等に受けるべき恩寵でもあった
「空間の犯罪」
昭和24年に発表されたアプレ犯罪小説
足が不自由で徴兵を免れ、戦争を生き延びた青年が
やくざ者にバカにされたことから少しずつ道を踏み外してゆく
「女の部屋」
朝鮮人の経営するカフェで働きはじめる女
朝鮮戦争の開幕から、北派と南派にわかれて険悪になっていく人々に
ついていけない感じ
「白昼の通り魔」
田舎の山出しのファム・ファタール
2度の心中につきあって2度とも生き延びる
罪はなくとも、その天然ぶりで知らず知らず恋人たちを傷つけるのだろう
「誰を方舟に残すか」
旧約聖書を独自解釈したもので、タイトルが内容をほぼ示している
たとえばそれを、ナチスの蛮行に比較することもできなくはない
「ニセ札つかいの手記」
1000円札はただの紙、的な主義の理想にもとづいて
ニセ札をばらまいているらしい
よくわからないがそこにおそらくジレンマを抱えた男がいて
語り手(これも男)を引きつける
東京オリンピックの工事が開始された頃の話で
なぜか急に三島由紀夫の「月」が引き合いに出されたりする -
生誕百年、埋もれていた泰淳さんの異色短篇7作が文庫となり甦りました。レコードで例えればB面ベスト集、ザ・アウトサイド泰淳といった具合でしょうか。ユーモアとエスプリに富んだ7作全部が素敵、B級ドタバタ喜劇といった趣きの作品もあります。いちばんのお気に入りは「空間の犯罪」、ガスタンクと戯れるクライマックスの視覚的高揚と幻想感にドキドキ緊張しました。そして「女の部屋」の最後のあっけらかんとのびのびした女性の描写に、百合子さんへの愛情の切れ端を感じずにいられないのでした。
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武田泰淳も、私がかつて「はまり」、読みあさったお気に入りの小説家である。これは、彼の異色の短編を集めた本だ。
武田泰淳は「戦後派」の「代表」の一人と見なされているが、私の感覚では彼は特異なアウトサイダーで、「文学史」からはこぼれおちるに違いない「変な作家」である。『富士』を読んでも『快楽』を読んでも、彼の書く小説にはあまりリアリティが無いし、逸脱も多く、何よりも「未完の作品」が多いことから、彼が「きっちりと書く構成家」ではないことを証している。
奔放に物語をつづりながらも、独特の「重さ」を失わないのは、ちょっとした描写に「人間」についての確かな観察眼が感じられ、これは一級の文学者である証拠であって、三流の小説には決して存在しない物だ。
私は武田泰淳は、その「得体の知れない不気味さ」において、どことなく深沢七郎と通じるものがあると思っているのだが、この親近性を探っていけば一冊の本になるだろう。
武田泰淳の世界は、意志や精神性よりも「運命」、生と死とが違和なく結びつくような「無」の境地、善悪や倫理を超えたどう猛な生、などといった要素に満ちあふれており、それらの点が、たぶん、深沢七郎的世界とつながっている。
ただし、武田泰淳の方はもっとえげつない。まるで「溜まってる童貞の白昼夢」のように、突如ポルノグラフィの場面が出現したりもする。
この短編集で言うと、「「ゴジラ」の来る夜」(S34)にそんな場面がある。何の必然性もなく美女2人が宴会でストリップショーを始めるのだから、わけがわからない。このらんちき騒ぎは『富士』のクライマックスシーンに似ている。泰淳のえがきだす「物語」にはこのように意味がない。あるのはどう猛きわまりない、盲目的な生のうごめきだけだ。「透明なゴジラ」=核兵器=無差別で無意味な殺戮。この短編の主題は泰淳の暴力的な側面を象徴的に表しているのではないか。
武田泰淳は女性というものを「精神」をもった存在として認めていなかったのではないか、と私はいぶかしんでいたが、「白昼の通り魔」(S35)では女性の独白調を採り、なかなか印象深い物語をえがくことに成功している。これはこの短編集の白眉だ。
「ニセ札つかいの手記」「誰を方舟に残すか」には武田泰淳の不気味な倫理観がよく出ている。それの感触は深沢七郎のとは微妙に違って、黒々と粘着的である。
『十三妹』私も昔読みましたよ(あの表紙で「...
『十三妹』私も昔読みましたよ(あの表紙で「? これは?」と思ったもので)
Pipoさんの『十三妹』レビューも楽しいです。おっさんテイスト(笑)
...
『十三妹』は、アニメ化されても楽しそうな作品だと思いますが、あのおっさん講釈テイストがなくなるとただの萌えアニメかも…と想像したりしています。