- Amazon.co.jp ・本 (768ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122065932
作品紹介・あらすじ
神の死でニヒリズムに陥ったヨーロッパ精神を、生をありのままに肯定し自由な境地に生きる超人によって克服する予言の書。この近代の思想と文学に強烈な衝撃を与えた、ニーチェの主著を格調高い訳文と懇切な訳注で贈る。文字を大きくした読みやすい新版
感想・レビュー・書評
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19世紀ドイツの思想家ニーチェ(1844-1900)の主著、1883-85年。一切の形而上学的観念がその虚構性を暴露されてしまったのちに、人間はいかにして超越者に依存することなく生きていくのか、という問題を追究する叙事詩的作品。
なお、ニーチェの主要著作は次の通り。
1872『悲劇の誕生』
1876『反時代的考察』
1878『人間的、あまりに人間的』
1881『曙光』
1882『悦ばしき知識』
1885『ツァラトゥストラ』
1886『善悪の彼岸』
1887『道徳の系譜』
1888『偶像の黄昏』『反キリスト者』
1901『力への意志』(遺稿集)
□ 駱駝「汝なすべし」――ルサンチマン、世界と生の無価値化
人間はその合理性ゆえに、彼岸(世界の外部)ならびにその彼岸を統べる神という観念を生みだし、それに依存ないし従属していく。此岸(世界そのもの)と此岸における生は、彼岸(世界の外部)の反照として従属的な位置づけに貶められることになり、それ自体としての自立的な意味を喪失していくことになる。それは以下の過程をたどっていくだろう。
①世界には、人間には受け容れられない不条理な苦難が存在する。②その不条理を拒絶して、応報的=比例的=配分的なしかたで苦難の存在を合理化しようとする。ニーチェはこうした人間の合理性に「弱者の復讐心=ルサンチマン」を見出すだろう。③しかし世界そのものの中で自己完結的にその矛盾を解消することは困難であり、世界の外部という形而上学的観念を創出する(プラトンのイデア界、キリスト教の彼岸)。④世界の外部に対して、世界そのものの価値が低下していく(プラトンの仮象界、キリスト教の此岸)。⑤応報的因果律が適用できるのは世界の外部のみであり、世界そのものは機械論的因果律によって説明するしかない。⑥こうして人間的「意味」は世界の外部に疎外されていき、世界そのものとそこにおける生は自立的な意味を喪失していく。
キリスト教が支配的になると、生の価値は世界の外部にある尺度によって不当に貶められ、死後の世界にこそ真の価値があるという転倒した世界観を強いられるようになる。キリスト教道徳は、「背面世界」という虚構の価値ばかりを虚しくも肥大化させていく一方で、本来人間の生が根差しているはずの「大地」「肉体」という現実の価値を徹底的に無化していく。人間は、「弱者の復讐心=ルサンチマン」が捏造した彼岸だとか神だとかいう形而上学的な虚構に縛りつけられ、そうした自己の外部から当為=意味を押しつけられることによって、自己の世界そのもの生そのものに、自己自身で価値=意味を付与することができずにいる。則ち、世界と生に意味を付与するのは世界の外部に存する何かであって、人間自身でない以上、人間は自らの生を生そのものとして生きることができずにいる。
「ああ、これがわたしの悲しみだ。人々は、物事の根底に、報酬と罰という嘘をはめこんだのだ――そしてさらにそれを君たちの魂の根底にも据えつけたのだ、有徳者たちよ」(第二部「有徳者たち」p201)。
「なぜなら、人間が復讐心から解放されること、これがわたしにとっては最高の希望への橋であり、長い荒天の後の虹であるからである」(第二部「毒ぐも」p215)。
□ 獅子「われ欲す」――力への意志、ニヒリズム、超人
世界の外部に拉されてしまった世界と生の意味、その意味の源泉を、人間自身に取り戻さなければならない。
①ニーチェは、世界の外部や神といった形而上学的観念が決して無垢な真理に基づくものではなく、「弱者の復讐心=ルサンチマン」という、人間の恣意的な自己都合から発したイデオロギーに過ぎないということを暴露し、「神は死んだ」と宣告する。
「ああ、兄弟たちよ、わたしのつくったこの神は、人間の製作品、人間の妄念であったのだ。あらゆる神々がそうであるのと同じように。/その神は人間であったのだ。しかも人間とその「我」のあわれなひとかけらにすぎなかったのだ。わたし自身の灰と炭火の中からこの妖怪は、やってきた。そしてまことに! それは彼岸から来たのではなかったのだ。[略]。苦悩と無能――それがすべての背面世界を創り出したのだ」(第一部「背面世界論者」p59-60)。
「もろもろの価値の根源は人間である。人間は、おのれを維持するためにそれらの価値を諸事物に賦与したのである。――人間が元で、それが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ」(第一部「先の目標と一つの目標」p126)。
つまり、キリスト教道徳を含め一切の形而上学的観念は、所詮は人間の恣意的な自己都合としての「力への意志」の発現形態のひとつでしかなかったということ。キリスト教は、自分たちの道徳が「力への意志」から発したものでしかないという身も蓋もない事実性を、自己欺瞞によって自らに対して隠蔽してきたということになる。
②さらには、真理概念それ自体もまた、人間の恣意的な自己都合としての「力への意志」のひとつの発現形態に過ぎないとして、その形而上学的透明性とそこからくる特権性が剥奪される。
「いっさいの存在者を君たちはまず、思考しうるものにしようとする。君たちは、それぞれの存在者が思考しうるものであるかどうかを、真率な不信の念をもって疑う。/だが、君たちの意志が欲することは、いっさいの存在者が君たちに適応し、服従するということだ。それは扱いやすくなり、精神に臣従しなければならぬ、精神の鏡として、映像として。そのことを君たちは望むのだ。/最高の賢者たちよ。それが君たちの意志の全貌だ。つまりそれは、力への意志の一種なのだ。君たちが善と悪、また種々の価値について語るときも、そうなのだ。/君たちは、君たちがひざまずいて礼拝するに足る世界を、君たちの精神によって創造しようとしている。それが君たちの究極の希望であり、陶酔なのだ」(第二部「自己超克」p250-251)。
③形而上学的観念の虚構性が暴露された以上、世界と生の価値は、ただ人間個人にのみ根拠をもつ「力への意志」によって、そしてそれが「力への意志」に発するものであるという明確な自覚をもって、措定されるしかない。この「力への意志」によって措定される価値とは、個人の存在論的欲求にのみ立脚した世界と生の解釈枠組であるといえる。よってここで、一切の普遍的超越的理念は無効化されることになる。なぜなら、「アルキメデスの点」のような普遍的な視点というものが虚構に過ぎないと暴露された以上、全ての認識は、「私にとってaはXである」というように、特定の視点(「遠近法」「地平」)によって限定される仕方でなされるしかないのであり、この意味で普遍的認識というものは不可能となるから(「遠近法主義」)。このように、「神の死」が意味するところは、ニヒリズムの到来である。一切の超越者が存在しないニヒリズムのうちに投げ出された個々の「力への意志」は、ただ他者が措定しようとする諸価値の否定を目的とする永遠の闘争状態に入る。これがヴェーバーの所謂「価値の多神教的状況」「神々の闘争」という事態である。
「この惰眠を破って、わたしは次のことを教えたのだ。何が善であり悪であるか、そのことを知っているのは、ただ創造する者だけだ。/――そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者がはじめて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのであると」(第三部「新旧の表」p438-439)。
「そこでは、いっさいの生成がわたしには神々の舞踏、神々の気ままであると思われた。そこでは、世界が、縛めから解き放され、自分自身へと逃げ帰って、――/多数の神々の永久の追いかけごっこの場、多数の神々の至福な争いと和解と抱擁の永久のくりかえしの場となっていると、わたしには思われた」(第三部「新旧の表」p440)。
③ニヒリズムとは、世界と生に意味を付与してくれる特権的な超越者が存在しない、という状況である。こうした状況において、一切の超越者に依存することなくただ自己の「力への意志」のみを根拠として自己が生きる世界と生の価値=意味を措定する者、自己が生きる世界と生の価値=意味を措定するのは自己自身以外にあり得ないという自覚をもつ者、それが「超人」である。「超人」は、「力への意志」から発する新たな価値創造のために、人間を外部から超越的な位置取りで抑圧しようとする一切の既成価値を破壊する。
ところで、諸個物を超越的に規定する一切の存在を前提し得ない以上、諸個人の存在論的欲求も理念的に固定されるということはあり得ない。則ち、「力への意志」ひいてはそれによって措定される世界と生の価値も、生成流転のうちに不定態としてあるしかない。つまり、「超人」は、自己が自己に付与する一切の規定性を、常に乗り越え更新し続けなければならない。よって、「超人」は常に自己否定と自己超越の過程のうちにある。
□ 幼子「然り」――無意味な生の肯定、永劫回帰
①では、既成の価値を破壊した「超人」は、いかにして新たな価値を創造するか。この点において、ニーチェの「超人」思想は二通りに解釈されてきた。第一のものは、従来からある「彼岸/此岸」「精神/肉体」「内部/表層」「合理性/非合理性」「主知主義/主意主義」といった二項対立において、キリスト教思想を反転させて後者に価値を置く、という解釈。これは、ニーチェの思想を、合理主義を批判して非合理主義を志向する「生の哲学」として解釈することにつながり、ファシズムに利用されたニーチェ像と重なる。この解釈は、二項対立を反転させただけで、二項対立の枠組そのものは保存されているという点で、逆立ちさせたものの形而上学であることには変わりがない。
第二のものは、超越的価値の不在というニヒリズムのもとで、自分がそのつど措定する価値が決して特権的なものではあり得ないということ(「遠近法主義」)を自覚し、そうした普遍的な意味の不在に耐えながら、にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ、生を肯定していく、という解釈。つまりここでは、普遍的なものとしての意味への拘泥を乗り越えて、無意味(普遍的な意味をもたないこと)を生きることで、形而上学そのものを解消することが目指されている。
「人はおのれみずからを愛することを学ばなければならない、すこやかな全き愛をもって。――そうわたしは教える。おのれがおのれ自身であることに堪え、よその場所をさまよい歩くことがないためにである」(第三部「重さの霊」p429)。
「豪胆なのは、恐怖を知りながら、恐怖を圧服する者だ。深淵を見てはいるが、たじろぐことなく、誇りをもってそれを見ている者だ。/深淵を見てはいるが、鷲の目をもってそれを見ている者、――鷲の爪で深淵をつかむ者、それが勇気をもつ者だ」(第四・最終部「高人」p643)。
生の価値を創造するとは、それによって生を肯定することである。そして生が無意味である(普遍的な意味をもたない)ならば、無意味なもの(普遍的な意味をもたないもの)として生を肯定するということである。これが「超人」が為すべき事業である。
②生を無意味なもの(普遍的な意味をもたないもの)として肯定しようとするならば、キリスト教終末論に代表される目的論的歴史観は否定されなければならない。なぜなら、目的論的歴史観の時間意識においては、生は唯一の目的=方向=意味に向かって直線的にただ一回限りで進行するものとして捉えられることになるから。生が無意味であるならば、何らかの目的を実現するべく一定の方向へと展開していくということはあり得ない。とするならば、生は、何らかの規則的な順序にそって連結された連続的な線というよりも、無秩序に並存しているだけの不連続な点列のイメージに近い。
ところがニーチェは、直線的な時間意識へのアンチテーゼとして、「永劫回帰」という円環的な時間意識を提唱する。それは次のようなものである。第一に、生にはいかなる方向性もない。則ち無意味である。第二に、ただ一回限りの生というものは在り得ない。則ち生は、無限に延びる時間軸上の過去において既に反復されてきたし、未来においてこれから反復されるだろう。問題はこの第二の点にある。生が無目的=無方向=無意味であるからといって、必ずしも生が反復しなければならないとはいえない。反復するかもしれないし、しないかもしれない、としかいえないはずである。にもかかわらず「永劫回帰」を生のあり方として固定してしまったニーチェの主張は、全き無意味であるはずの生に何らかの超越的な秩序を与えてしまっているという点で、自らが葬り去ろうとした形而上学に回帰してしまっているといえる。
③「無意味な生をそれ自体で肯定する」。このことの具体的な内実を言語でもって表現することは、結局のところ不可能なのではないか。なぜなら、言語が表現し得るのは普遍的な概念(諸個物の差異のうちから抽象してきた同一性)のみであるが、そうした普遍的概念を用いて無意味な(普遍的な意味をもたない)生を捕捉しようとすることは矛盾であるから。つまり、理性=論理=言語によって形而上学批判を遂行しかつそれを表現しようとすることの根本的な矛盾が、ニーチェ解釈の難しさの根底にある。それは自己関係的機制に本質的に孕まれている矛盾である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
神は死んだとか、ルサンチマン、ニヒリズムといった概念が登場する。
超人的とか、末人、永遠回帰と言った概念も独特な視点て面白い。
全てプラマイゼロというか、その時々の感情とかに支配されずに、人生を全体として捉えるっていう手法は比喩としてはわかりやすく、受け入れやすいもんだなとも思う。
自分の感情、情動、世間との比較等から解放されることで自分を肯定できるようになるのかもねっていう発想は得ることができたかも。 -
本当に深い本というのは、100回読んでもその100回目に初めて見えてくる内容があるような本です。パンデミックの吹き荒れる21世紀の今、ニーチェの洞察がどれほど正しかったかにあらためて驚かされるでしょう。
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難しいけど有名だけあって読んで損は無い
宗教を否定しておきながらニーチェが無宗教系の教祖になってる感は否めないですが -
私は先に『道徳の系譜』を読んでいたのですが、それよりも細かに、というよりも実際のニーチェの思想に沿った、芸術と哲学の融合という感じがあって面白かったです。ただ1つ疑問を挙げるならば、結局超人とは永劫回帰の思想を持った人のことを指していたのでしょうか。初めは自分自身が没落でありいずれ来たる超人への橋としておきながら、最後には自身の事業である「人の生を可能にすること」に向けて下界へ赴いていて、さも自分が超人であるかのような振舞いが理解できませんでした。およそ超人というのはツァラトゥストラのような過程を経て生まれるといった解釈で良いのでしょうか。また、自分には芸術に対する学がないので、作中の古典文学や音楽を用いた比喩、彼の表現自体に理解が及ばないところがあったのが悔やまれます。ただ、訳者の手塚さんが所々に脚注を入れておいて下さっていますし、ある程度の予備知識があれば読むのには困らないと思います。個人的経験から言えば先に『道徳の系譜』を読むことをおすすめします。これを契機に、ワーグナーやショーペンハウアーの考えにも触れてみたいと思いました。
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近代の思想と文学に強烈な衝撃を与え、今日なお予言と謎に満ちたニーチェの主著を格調高い訳文と懇切な訳注で贈る。〈巻末対談〉三島由紀夫・手塚富雄
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難しい!だからこそ何度でも挑み、理解を深めたいと思った。
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いつかは理解したい、おそらくおもしろい本。