- Amazon.co.jp ・本 (606ページ)
- / ISBN・EAN: 9784124006162
感想・レビュー・書評
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権力に立ち向かいながら、人が正しく生きるということはどういうことなのか、2千年の時を超えても主張されていることは不滅なのである。
何より訳がすばらしいので、「ゴルギアス」や「パイドン」などは長編なのだが、読み進めるのに何の困難もない。
特に「パイドン」では、ソクラテスが毒杯を仰いで、逍遥と死に向かうまさにその場面が描かれていて感動を覚える。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
真理は、手の届かない、絶対的なものとして存在する。
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哲学的思考の根源ともいうべきプラトンの対話篇の迫力と鮮烈な古典美を、徹底的な改訳と新訳で香気ゆたかに再現した決定版。[主な内容] 田中美知太郎「ソクラテスとプラトン」、プラトン「リュシス(生島幹三訳)」・「饗宴(鈴木照雄訳)」・「メネクセノス(加来彰俊訳)」・「ゴルギアス(藤沢令夫訳)」・「ソクラテスの弁明(田中美知太郎訳)」・「クリトン(田中美知太郎訳)」・「パイドン(池田美恵訳)」・「クレイトポン(田中美知太郎訳)」。
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1 『ソクラテスの弁明』
プラトンといえば、ソクラテスの弁明というほど有名な本。
読んではみたけれど、やはり『メノン』や『リュシス』、『パイドン』のほうが魅力的。
内容はタイトル通りソクラテスの「弁明」である。無知の知、魂の世話、より良く生きる、と盛りだくさんのことが書かれている。また、対話編ではなくソクラテスが一方的に話している。
「諸君よ、諸君は私の死を決定したが、その私の死後、まもなく諸君に懲罰が下されるでしょう。(中略)。諸君を吟味にかける人間はもっと多くなるでしょう(p.454)。」
ソクラテスがここまで有名になったのは、イデアの探究など、言っていることはもちろんだが、その生き方にあるだろう。ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたが、「間違っていたことを認めないなら死刑にするぞ」といわれ、自分の主張を曲げた。しかし、ソクラテスは違う。「探究することをやめないと、死刑にするぞ」といわれても自分を曲げない。死刑なんかよりも「真理」を求めたいのである。そして自分は間違っていないとし、逃げることができたのに毒杯を飲む。この生き方がカッコいい。だからこそ、ここまで有名になったのだろう。彼を裁かなければもっともっと彼の著作(書いたのはプラトンだが)を読めたかもしれないが、ここまで魅力的な人物にはならなかっただろう。
「わたしは、彼に、君は知恵があると思っているけれどもそうではないのだと、はっきりわからせてやろうとつとめたのです。するとその結果、わたしは、その男にも、そしてその場にいた多くの者にも憎まれることになったのです。しかしわたしは、彼と別れて帰る途で、自分を相手にこう考えたのです。この人間より、私は知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらはなにも知らないらしいけれど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、私は知らないからそのとおりにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、わたしのほうが知恵があることになるらしい(p.419)。」
「私は知らないということを知っている、という点で彼らより優っている」という有名なソクラテスの言葉だけれども、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないだろう。彼はこの行為が憎まれる行為であることはわかっていた(p.419にも「憎まれていることはわかっていた」という記述もある)。しかし、なぜ「わからせてやろう」と思ったのか。それは、無知を自覚させることによって魂をよりよくさせるためである。無知を自覚することによって知を求める。これがソクラテスのいう「よりよく生きる」ことだろう。ソクラテスも次のように言う。
「わたしが歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ、つぎのことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、だれにでお、魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかうべきであって、それよりもさきに、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならないと説くわけなのです。そしてそれはいくら金銭を積んでも、そこから。すぐれた魂が生まれてくるわけではなく、金銭やその他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、魂のすぐれていることによるのだから、というわけです(pp.435-436)。」
「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのです。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからです。なぜなら、死を知っているものは誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた、人間にとって、いっさいの善いもののうちの最大のものかもしれないのですが、しかし、彼らは、それを恐れているのです。つまり、それが害悪の最大のものであることをよく知っているかのようにです(p.433)。」
考えて考えて行きつく先はソクラテスなのかもしれない。私も同じ意見である。私は彼のように神は信じない。先日の学会で「『死』を教えたい」と言っていた人がいた。調査をしたところ「死=悲しいもの」という認識をしている子どもたちは少なかったそうである。「児童が『死は悲しいものだ』と思っていなくて残念だ」というけれど、それはあなたの考えが浅いだけでしょう。なぜ死が悲しいのか、『死=悲しい』と信じていることがすでに洗脳されているのではないだろうか。死んだこともないのに、なぜ悲しいなんてわかるのか。 そもそも、「私が死ぬ」の私とはなんですか。体?脳?魂?児童は別の考え方をしているかもしれないのに、なぜ「私の調査がおかしかった」とは考えずに、「悲しい」ですませられるのか。「死とは何か」を考えさせることはできるかもしれないが、死は教えられないだろう、と考える。
「わたしには、神からの知らせとか、ダイモンからの合図かといったようなものが、よくおこるのです(p.438)。」「わたしは神を信じているからです(p.447)。」
ここが残念。なぜすべてのことを疑ったのに神の存在を疑わなかったのだろうか。
2 リュシス
この本に出会ったのは、1年半くらい前。前期で大学院を退学した友人がいた。その時に淋しくて「友達ってなんだろう」と思い読み返した一冊。結局でた答えは「友達とは道具である」ということだ。友人に伝えると「まっちーらしいね」と返ってきた。
本書はプラトンの最も初期の作品の一つである。
内容としては、友愛が成立するための条件をいろいろな角度から見ていく。結局答えはでないのだけれど。
読んで考えたのは、「友達とは道具である」ということだ。
ソクラテスは友達が欲しい、といいリュシスに「友とは何か」「友達になる目的とは」を問う。
友達が去る。寂しい。なぜ寂しいか。
遊べない。議論できない。相談することができない。など…全て私の欲求を満たすことだ。
しかし、「相談をうける」場合がある。これは私の欲求を満たすものか。
相談をうけている私、そこから自身の存在価値を見つける私、欲求をみたす私。
このように考えれば、私の欲求を満たすものだ。
だが、違和感がある。
道具(友達)はたくさんあるはずなのに、寂しい。単純に「1つ減ったから1つ増やせばいい」にはならない。
友達が道具だという機能しかないのなら、減ったら増やせばいい。
何十本もあるスプーンが一本減っても、困りはしない。感情すらわかない。
友達がいなくなると感情もわく。
道具だけじゃないはずだ。
考えよう。
(まっちー) -
ソクラテスから人類に投げかけられた「なんじ自身を知るべし」読めば読むほど謙虚にならねばと切実に思います。
あと田中さんの訳は本当に読みやすく感じます。 -
目次
解説「ソクラテスとプラトン」 田中美知太郎著.
「リュシス」 生島幹三訳.
「饗宴」 鈴木照雄訳.
「メネクセノス」 加来彰俊訳.
「ゴルギアス」 藤沢令夫訳.
「ソクラテスの弁明」・「クリトン」 田中美知太郎訳.
「パイドン」 池田美恵訳.
「クレイトポン」 田中美知太郎訳
ソクラテス年譜