民族という虚構

著者 :
  • 東京大学出版会
3.96
  • (8)
  • (9)
  • (9)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 117
感想 : 10
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130100892

作品紹介・あらすじ

民族という虚構から開かれた共同体へ。異邦人や少数者の存在こそが人間の同一性を生み出す源泉をなす-パリ在住社会心理学者の考察。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • キーワード
    「範疇化」
    「同一性は差異化の運動によって生み出される」

    【人種】
    人種とは客観的に規定できるものではなく、歴史的文脈の中で生み出された主観的な範疇にすぎない。

    分類という行為は、対象の客観的性質のみに依拠して行われるのではなく、分類する人間の主観的決定がなければ分類は根本的に不可能。

    そうした意味において、人種は、個体を特徴づける形質規定の仕方が無数にあるわけではなく、各形質の優劣を客観的に決めることが不可能な以上、主観を完全に離れて人種を抽出する試みは原理的に虚しい。
    ヨーロッパが植民地拡大をしてゆく際、他地域の人々を支配する過程において、ヨーロッパと非ヨーロッパのカテゴライズによって支配を正当化した歴史がある。

    【民族】
    民族も同様に、当該集団及び外部の人間によって生み出された主観的カテゴライズに過ぎず、同一性が初めにあるのではなく、差異化の運動が同一性を後から構成する。
    複数の国民や民族がいるために国境や民族境界ができるのではなく、人々を対立的に差異化させる運動が境界を成立させ、その後、境界内に閉じ込められた人々が一つの国民や民族として文化的に均一化する。
    固定化した同一性を出発点として民族を発想する事自体が間違っているのだ。

    【連続性】
    民族という言葉が使用されるとき、時間と共に様々な要素が変化するのに、その集団に綿々と続く何かが存在しているという了解がある。
    時間を超えて保たれる自己同一性は、普段の同一化を通して人間が作り出す虚構の物語だ。

    自己同一性は、対象自体に内在する性質ではなく、外部の観察者がそれを不断に同一化し続けるために起こる。世界は同一性や連続性によって支えられているのではなく、断続的な現象群の絶え間ない生成・消滅があり、それを主体が変化に気づかないまま同一化することにより成り立っている。

    【なぜ虚構は我々の現実を支えるのか?】
    ①虚構は信じられることで現実の力を生み出す

    ②虚構と現実は不可分に結びつき、虚構に支えられない現実は存在しない

    ③虚構が現実として機能するためには、世界を構成する人間に対して、虚構の仕組みが隠蔽される必要がある。

    誰かが始めた習慣は、合理的正当性を持たないが、やがてその起源が忘却され、恣意性が客観性に変換されていく。「自然法」「個人」「社会」「神」などの様々な概念は、社会秩序を正当なものとし支えるために作り出され、さも自然の摂理であるかのように、その真実を隠蔽されることで初めて正常に機能する。

    ここにおいて、「現実」と「虚構」は、二項対立ではなく相互関係なのだ。

    【物語としての記憶】
    記憶は単なる経験の積み重ねではなく、次第に構築される虚構の物語。

    何らかの行為を行った後で、「なぜこのような行動をとったのか」と自問するとき。個人主義的な者ほど、自らの心の内部に、原因があったと内省し、自分の行動により強い責任を感じる。そのため、行動と意識の間の矛盾を緩和しようと、無意識的に創作し、自分の意見を変更しやすい。自立した個人主義者ほど影響されやすいのだ。

    我々の至高や記憶は常にねつ造(自律感覚として、自分が意思決定をしていると思い込んでいる)されながら変化しているが、このねつ造が無ければ、人々は生きていくことができない。

    過去に生じた出来事に対する思い出の単なる累積物のような静的なイメージで集団的記憶を捉えるのは間違っている。新しい経験は咀嚼され、過去の記憶全体が再構成される。

    日常生活のさまざまな場面において、我々を支える革新が生まれるためには、単なるデータの集積と合理的判定を超えた何かが必要になる。科学的に正しさが証明された絶対的真理は存在せず、むしろ真理とは、人間によってある程度の妥当性を帯びた真理を「正しいであろう」と確信することである。
    この意味において、ある事項・対象を理解するとは、その対象の背後にある世界観や暗黙の理論を、慣れ親しんだ文脈の中ではなく、他の文脈に置き換え、矛盾やバラバラの知識がパズルのように解けることなのだ。

    【共同体の絆】
    ドイツや日本人の戦争責任のように、共同体としての絆は契約のような合理的発想では説明できない。
    個人を集めたときに単なる集合ができるのではなく、集団ができるためには虚構が必要になる。

    現在時点においては、集団責任の原理はなく、犯罪等の責任は全て個人に帰せられる。また、戦争責任をあとの世代が負うことに対しても責任は一切ない。
    結局これは、前の世代を今の世代が同一化し、自分ごとのように恥じている心理的なプロセスにすぎない。

    実際には、国家あるいは共同体は、社会が機能するために擬似的に想定された契約的観念として、連続性を保っている。この虚構の連続性のもとに、過去から続く負債を契約観念上今の世代が負うべきに見える。

    そもそも、「契約」というのは人間の感情や個人的関係をできるだけ排除しながら、必要な物資、労働力などを複数の個人の間で可能にする社会装置である。しかし、物質を交換するにあたっては、結局様々な人間関係無しでは成立し得ない。契約の履行とは、究極的には一つの約束に対してお互いがお互いを信頼することで成り立つものだからだ。

    【開かれた共同体概念とは】
    社会の変遷には、少数派が多数派に同化し飲み込まれるといったことではなく、両者の相互作用が社会や文化を作り上げていく。また、少数派は必ず多数派に影響を及ぼす。
    変化することが問題なのではなく、変化したくないのに変化を強制されたり、変化したいのに現状維持を余儀なくされることが問題。

    多民族・多文化主義は、孤立した居住地域が出身民族ごとに形成されやすい問題がある。

    共同体の文化に守られ、同一性の感覚が保たれるおかげで、かえって変化をしやすくなるという逆説が存在する。

    日本が異文化を受け入れやすい理由
    1外来情報がもとの文脈から切り離されて入ってくるので、日本の意味文化に合わせた変容を起こしやすい。
    2情報源と情報内容が分離されやすく、同一性を脅かされない。(西洋の一員になっても日本人であることをやめるわけではない)
    3情報源と直接的に接しないので、異文化を押し付けられにくい(植民地のようにストレートな干渉とは違う)

    まとめると、自らの中心部、つまり本質的な部分は維持できるという感覚を持ちながらであれば、自分自身を変化したときに、自己同一性の危機に陥らないのだ。


    民族は虚構の物語である。現実を支えているのが虚構ならば、それはどんなに強固であっても将来必ず変化しうる。そして、この変化こそが、共同体を流動的に作り上げていく。
    象徴的価値を通して、主観的に感知される民族境界が保持されるおかげで、他の集団の文化的価値を受け入れながらも、自らの同一性を維持しているという感覚が保持され、他の文化を受け入れられる。
    少数民族のいない純粋な社会は成立しえない。外部がなければ内部はない。「異人」は、人間生活にとって不可欠な存在として、我々の内部にいる。


    【感想】

    民族とは、人種や血統や母語の区分けによって、あたかも過去から連続して続いてきた実体のあるもののように思える。

    しかし、そうすると問題となるのが民族の連続性だ。
    国家が何百年も続くと、当然ながら構成員も変わっていく。では何故人々は全く無関係である先祖と自分を同一視し、国家や民族の魂を宿すものとして自分を定義できるのか?
    日本の戦争責任を問うにあたり、戦争を企てた祖先と現在の我々の間に繋がりはあるのだろうか?
    ユダヤ人がシオニズム運動にてイスラエルを建国した際には、何故過去の贖罪という言葉が正当性を帯びたのか?

    作者が言うには、民族が実体を持って続いているというのは虚構であり、「断続的な現象群の絶え間ない生成・消滅があり、それを主体が変化に気づかないまま同一化することにより成り立っている。」ことだという。
    そもそも、国家や神、宗教といった概念の始まりは、増えすぎた人々を効率よく統治するために、執政者が作り出した社会的安定装置の面があった。
    今日ではその虚構が、国を支える役割だけでなく、より広範に広がり、個人間の契約や知識の共有化など、人間一人ひとりの営みを支えるために必要不可欠なものとなっている。

    民族もそうした虚構の一つだ。
    「人々を対立的に差異化させる運動が境界を成立させ、その後、境界内に閉じ込められた人々が一つの国民や民族として文化的に均一化する。
    固定化した同一性を出発点として民族を発想する事自体が間違っており、個人を集めたときに単なる集合ができるのではなく、集団ができるためには虚構を必要とするのだ。」

    この本では更にそこから一歩踏み込み、これからの社会の変遷において、異なる文化の人間が一つの国の中で共存を目指すためのアプローチについても述べている。
    ここで重要なことは、文化における少数派と多数派の関係が、多数派が少数派を飲み込んだり、少数派が多数派の文化をすんなり受け入れるといった現象は起こらず、
    むしろ少数派が多数派に影響を及ぼしうることを述べている。

    外国からの影響を受けない島の文化がやがて衰退し滅びていくように、外部からの異質物を取り入れない文化は、自分の文化自体が進歩することもなく、繁栄していくこともない。
    民族が虚構の物語であるならば、それはどんなに強固な物語であってもいずれ変化し得るし、この変化が社会に流動性と繁栄をもたらしていく。

    そして、ユダヤ人国家の樹立が各国でユダヤ人の帰化を推し進めたように、ゆるぎない同一性を担保する土壌があってこそ、変化を受け入れることも起こる。

    これは、自分のバックボーンが保証されることで、自身およびそれを取り巻く民族の中に一つの「民族的核」ができる。
    そしてその変わらない核を持つことが、同一性を保てていることの安心感につながり、他者の文化を受け入れることに繋がっている。

    黒船が来航したときの日本では、それまで安定して続いてきた国内政権が揺らぎ、西洋の軍事力と文化と相まみえる形になった。
    しかし、日本は西洋の概念をそのまま受け入れ、日本を「西洋化」したわけではなかった。
    「日本」と「西洋」を比較し、日本の社会基盤や精神性に沿う形で、西洋の議会制度や産業を取り込んでいったのだ。

    そのとき決定的に重要であったのは、「日本には日本特有の本質的な部分がある」と考え、その同一性を維持できるという感覚を持ちながら、近代化への道を拓いて行ったことなのだ。

  • まず民族という概念を

    ・個々の個人を超越する何らかの本質
    ・構成員間の血縁関係
    ・文化的な継続性

    の3つに分けて、それらが歴史的または科学的に一貫性を持つものではないと1つずつ証明していって、例えばスコットランド人という古来民族はいなくて、元々は海上交通によりアイルランドから流れてきた人たちで。伝統衣装のキルトも17世紀にイングランドの商人が持ち込んだもので、スコットランドの下層庶民たちに流行したのをスコットランド同化政策の一環としてイングランド政府が禁止する、それが解禁された際にキルト着用は一気にスコットランドの中上流階級にまで広がり、キルトはスコットランドの民族衣装という認識が作られてしまった……という。

    そういう外部と内部のせめぎ合いが民族という概念を作るのであって、民族の本質というのは実は存在しないんだよ、っていう。

    この著者の本は実は3冊目で、3冊ともに同じ実験から同じ結論に導く論を立てていたり(飛ばした)、おいおいそれは論理展開が強引やろってとこも正直あるんだけど、民族は移ろいゆくものであり少数派が存在するから成立するものだという本書の基本的な部分には納得できました。

  • 「民族」とは何か?虚構と現実を結びつけている社会的・心理的仕組みを解き明かし、「常識を疑う」という問いの重要性を鮮やかに示す。(松村 教員)

  • 出口治明著『ビジネスに効く最強の「読書」』で紹介

    民族という概念は虚構であるという前提から「民族」意識がもたらすしくみを考察。

  •  誰もが知っている語だが,民族とは,考えてみれば不思議な概念である。例えば,今の日本人と明治の日本人は,ほとんどすっかり構成員が入れ替わっているはずだが,民族として連続しているとみなされる。なぜか?血縁によって日本人という特性が継承されるわけではない。身体的特徴の似通った民族間で,赤子の取り違えが起こることを想定すれば,このことは明らかだ。民族を区別するのは,言語や信仰といった後天的要素であり,先天的な血のつながりは問題にならない。
     民族とは,共通の文化的基盤をもつとされる人間の集団である。出自・言語・宗教・生活様式・居住地などの文化的背景を共通にしていることが,同じ民族であることの一つの目安となる。これらの中でも特に言語が重要な基準とされるが,決定的な基準はない。母語を共通にしていても,信じる宗教が異なることで別の民族とみなされる場合は多いし,言語・宗教が似通っていても,たどってきた歴史が異なるために別の民族と考えられることもある。一つの民族は一定の地域に集まって住んでいることが多いが,ユダヤ人やアルメニア人のように,世界中にちらばっている民族も少なくない。文化的な伝統に加え,身体的特徴,政治的・経済的つながりなど,民族を分ける基準には様々なものがあるが,どの基準がどの程度異なれば別の民族,というふうに機械的には分けられない。
     それでは民族の核心は何かといえば,帰属意識,仲間意識に他ならない。この点で民族は,他の「われわれ」意識をもつ集団,すなわち家族や親族,あるいは地域社会,会社の同僚,といった共同体と異なるところはない。民族はこれらの共同体のうち,もっとも大規模なまとまりといえる。特に面識がなくても,同郷の人とか,同じ会社で働いている人に対しては,ある程度の親近感がわくものである。そのような親近感が民族という同胞意識に決定的な役割を果たしている。であるから,人間の集団同士が同じ民族か異なる民族かという問題は,きわめて主観的な感情の問題である。このような主観性が,民族を複雑にしている。
     実は民族に限らず,何かを分類する,分ける,というときには,必ず人間の主観が混じってしまう。例えば生物の分類のひとつに「種」がある。この「種」という範疇は,交雑可能性の有無で定義される。集団Aに属する個体と集団Bに属する個体が交雑不可能な場合,AとBは別種の生物とされる。しかし,条件によっては,別種とされている生物同士が交雑する場合もあるし,無性生物においては,この考え方がそもそも適用できない。自然はきれいに分類できるものではなく,連続的なのだ。交雑可能性という原則どおりの分類は現実的に不可能であり,実際には個体をよく調べ,外形的特徴や生態の差異に着目して個々の生物の分類はなされてきた。複数ある特徴のなかには,それが異なる場合に別の生物とされる特徴もあれば,異なっていてもそれは個体差であり,同じ生物とみなされる重要度の低い特徴もある。どの特徴が重要であるかは,論理的に決まることではなく,人間が恣意的に決めるほかない。科学的な分類といってもこれほど人の主観が入る。自然は正しく分類されるのを待ってなどいない。世の中に客観的な分類などないのだ。
     筆者は,人間の分類としてより単純な概念である人種をまず例に挙げ,そこでの議論を敷衍して民族の虚構性を鋭く指摘する。人種とは,人間を身体的特徴によって分類する考えである。コーカソイド,モンゴロイド,ネグロイドという三分法が18~20世紀にはかなり普及していた。この三分法は,肌の色によって人間を分けるものであるが,身体的特徴は肌の色だけではない。身長,目の色,体毛の色や濃さ,鼻や頭部の形など,様々な切り口が可能である。身体的特徴のうちなぜ肌の色が大きく取りあげられたのか。それは西洋文明を優れたものとするイデオロギーを正当化するために便利だったからという。他の基準では,西洋人の一部がアジア・アフリカの人たちと同じ分類にカテゴライズされてしまったりして不都合だったのである。人種は虚構である。文化という,より抽象的な指標に基づいて人間を分類する民族も,虚構であるほかない。
     民族は社会的に構成された虚構であり,そこには歴史的経緯や政治的思惑の関与が避けられない。「われわれ」意識が民族成立の必要十分条件であり,その「われわれ」意識が正当な根拠のあるものかどうかはどうでもよい。構成員間に存在するとされる血縁関係が単なる神話であっても,構成員が共有するとされる伝統や歴史が,意図的に捏造されたものであっても,多くの人がそれに対する帰属意識をもつのなら,民族は成立し,そのことによってのみ民族は成立する。民族は近代化の産物である。近代国家は,国民をまとめるために,共通語としての国語をつくりあげ,教育を通じて民族の歴史を教えこんだ。ドイツ人であれ,日本人であれ,19世紀の近代化によって確立してきたもので,中世にはそのようなカテゴリは存在しなかった。しかし,これを上から無理矢理押しつけられた一面的なものと考えてはならない。統合されるべき人々も,世界が拡がるなかにあって,自己のアイデンティティ確立を求め,民族の神話にとびついた。近代化の過程で,両者の利害は一致したのである。
     民族は,内部の同一化によってできるように思えるが,この理解は正しくない。民族意識は,むしろ外部との差別化・差異化によって成立し,維持される。外部がなければ内部はないのだ。顕著な例が,ヒトラーによるユダヤ人虐殺である。当時,ドイツのユダヤ人は,言語,宗教,居住地等の面で,ドイツ社会への同化が相当程度進んでいた。ユダヤ教の戒律を守り,ゲットーに押し込められていた,東欧のユダヤ人とは対照的である。ナチスがユダヤ人に目印の着用を強制したのは,同化の努力によってユダヤ人とドイツ人の見分けがつかなくなっていたためである。異民族であるべきユダヤ人が,社会に溶けこんで見えなくなることに,ドイツ人は危機感を抱いた。ヒトラーはその不安を煽り,問題の「最終解決」を図った。そして逆説的だが,この兇行こそが,シオニズム運動を強力に後押しする。もし滞りなく同化が進んでいれば,ユダヤ人という民族の範疇自体が消え去ったはずである。ホロコーストがなければ,イスラエル建国はなかった。同化が完遂される一歩手前で,差異化という反動が生じ,民族の境界が否応なくつきつけられた。本当のところは差異がなくても,何らかのきっかけで差異化・差別化が始まれば,そのこと自体によって差異は生まれ,増幅してゆく。差異化の運動によって民族は形成され,維持されるのだ。世界にはさまざまな民族があるが,各民族が自立した範疇として存在するのではない。民族は,差異の体系としてある。
     民族に限らず,近代の生み出した多くの概念は,本質ではなく虚構である。中世の社会は,宗教という虚構が支配していたが,近代が生み出した社会システムも厖大な虚構の産物である。虚構といっても,それは無意味で無用のものではない。その虚構を多くの人が信じることによって,現実の人間社会はなりたっている。そして,このような虚構の上にしか,現実の社会というものは存在しえない。虚構をどう考え,いかに扱ってゆくか,それこそ将来人類が生き残っていく上で重要なことなのだろう。

  • 表題にある「民族」を例にして、実は人間の差別意識やコミュニティへの所属意識、排他的欲求などの幅広い論考を行っている。名著。

  • ※まだ全部読み終わっていません。

    民族は人々が作り出した虚構であり、その虚構が現実となったものであるというのがこの本の趣旨であった。ところで、この虚構はいったいいつ、誰が、どのような目的でつくられたのか、以下で明らかにしていきたい。
    私は人々をまとめる意味での民族という観念が使われるようになった(つまり、意図的に「民族」という観念を作り出した)のは、近代であると考える。というのも、前近代社会においては何らかの形で共同体意識が人々のなかにあったが、その意識が「民族」として捉えるようになったのは近代であると考えるからだ。以下にまずすこし回り道をしてから、なぜ私が民族観念の誕生を近代に位置づけたのかについて述べていきたい。
    まず、なぜ人々は民族を必要としたのであろうかという疑問からスタートする。人間が集団を成して生活することはその太古から続いていることである。しかしながら、集団のなかにいる人間にとっては、その集団は共同体であるとは気づかない。つまりその集団が部落なのか、種族なのかは、構成員たちにとってはどうでも良いことであり、自分たちを部落や種族とは名のることもなかった。だが、近代に入って教育が広まったことで、今度は支配者側が人々をまとめるときに都合の良いように文化(特に言語や生活様式)を元としたグループに分け、それぞれのグループを民族としたと思う。ここで説明しなければならないのが、なぜ教育が広まったことによって民族観念も広がり、そしてなぜ言語や生活様式を元にグループ化されたのかということである。
     前者についてはアンダーソンの『想像の共同体』からヒントが出ている。彼によれば、「民族」という観念の普及には印刷技術の革新、なかんずく新聞が大きな役割を果たしたという。ところで、新聞はそれが読めることが前提である限り、私は教育(識字教育)が果たした役割は無視できないと考える。そしてこの識字教育が大規模で行われるようになったのが近代である。近代はイギリスで起こった産業革命にはじまる。産業革命の始まりに伴って、従来バラバラに行われてきた生産活動が、一箇所(工場)に集約する形をとるようになった。そのとき、労働者である人々をも集約する必要性が生じた。ところが、従来バラバラであった人々をまとめ、命令し、労働効率を上げるために、統一した言語が必要になった。ここで生まれたのが教育の必要性であり、国語である(同様なことは日本では明治時代以降の軍隊において生じている)。この教育によって、人々は支配者のいう民族観念を受入れることになる。そして、教育と民族観念はさらに相互に関連しあい、つまり国語の創出によってそれまで多種多様な方言を話す人々にとって、同一の言語を話し、しかも一つの言語によって意思疎通を可能にした。ここにおいて、教育(国語)は人々の一体性を生み出したことになる。
     さて、それではなぜ言語や生活様式を元にグループ化されたのであろうか?ここで注目したいのが差異化という概念である。人間は自分と違うものを認識したとき、その内部では差異化が行われている。そして差異化することは人間のある種の本能的欲望でもある。つまり、人間は他人と同じだと感じるとき、自己の認識が危ぶまれる。アイデンティファイすることが人間にとって大事である以上、人間は他人と同じだと感じた瞬間、他人と異なろうとするのである。そしてこの他人を認識するときには何よりも聴覚や視覚を頼りにすることになり、したがって、グループ化においても言語や生活様式を区別要素に取り上げたと考えられる。
     それでは、なぜ民族という観念を作り出さなければならなかったのであろうか?答えは二つあるように思う。一つが統治のしやすさで、もう一つが戦争である。まず、統治についてだが、産業革命によって近代が始まると、市場を求めて植民地活動が盛んになる。そして既知のように、前代未聞の大規模な帝国が誕生する。この帝国を統治しようとしても当然ながら莫大過ぎる。そこでよく知られた分割統治が行われることになる。この分割統治を行う際に区分けをしなければならないが、それがグループ化することであると考える。
     そして二つ目の戦争だが、大雑把に言えばフランス革命に誕生したナショナリズムのようなもので、団結して何かに向かわなければならないときに、団結要因を作り上げるために民族観念が必要だったと考える。そしてここでしばしば使われるのが「単一民族」の発想である。この戦争によって民族観念、特に「単一民族」の観念が誕生したことを裏付けるのが特に日本のケースである。つまり、明治維新によって幕府が倒され、朝廷としての天皇が再び権威を取り戻した。と同時に天皇が神の子孫とする考えが固まり、天皇の巡幸によって各地へ普及した。そして十五年戦争期(1931年の柳条湖事件から45年降伏まで)に入ると、天皇の絶対化が進むようになり、国家神道さらに推進され、「単一民族論」も盛んに出されるようになった。ここで注目しなければならないのが、特に「単一民族論」に代表されるように、戦時に団結要因として作られる民族や、急進的な民族主義者はしばしば神話を民族創造に使うことである。つまり、民族を単なる共同体の一種からさらに現実味・説得力を持たせるために、その地域古くからある神話や文字といった文化を民族という観念に付与し、それによってあたかも太古の昔からその民族が存在していたかのように見せるのである。
     説明を大きく端折った部分もあるが、以上の考察によって民族が意図的に一つの共同体ではなく、あたかも特性を持ったグループであるかのように意識されるようになった(つまり、民族観念が誕生した)のが近代であることが言えるだろう。

全10件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

小坂井敏晶(こざかい・としあき):1956年愛知県生まれ。1994年フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第八大学心理学部准教授。著者に『増補 民族という虚構』『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)、『人が人を裁くということ』(岩波新書)、『社会心理学講義』(筑摩選書)、『答えのない世界を生きる』(祥伝社)、『神の亡霊』(東京大学出版会)など。

「2021年 『格差という虚構』 で使われていた紹介文から引用しています。」

小坂井敏晶の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×