- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140883631
感想・レビュー・書評
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本書は、東日本大震災で最大の人的被害を受けた石巻市出身の著者が、震災から1ヶ月後の2011年4月24日に放送されたNHK番組「こころの時代 瓦礫の中から言葉を~作家・辺見庸」(収録は3月下旬)で話したことをきっかけに、日本の「言葉の危うさ」と「言葉の一縷の希望」について書き下ろしたものである。
著者は、「われわれの身にいったいなにが起きたのか、なにが起きつつあるのか、それはどのような性質の出来事であるのか、なにが壊され、潰え、なにが生まれたのか、このさきにどんなことどもが出来しようとしているのか、歴史はこれからどう変わるのか―を感じとり、ひとつひとつ言葉にしていくのは、作家であるわたしの義務であり運命であると考えます」というが、一方で、「言葉でなんとか語ろうとしても、いっかな語りえない感覚です。表現の衝迫と無力感、挫折感がないまぜになってよせあう、切なく苦しい感覚。出来事があまりにも巨大で、あまりにも強力で、あまりにも深く、あまりにもありえないことだったからです。できあいの語句と文法、構文ではまったく表現不可能でした」と漏らす。
そして、震災後に多くのスポンサーがCM放送を自粛したために、ACジャパンのCM「あいさつの魔法」(「こんにちワン ありがとウサギ 魔法の言葉で 楽しいなかまが ぽぽぽぽーん」)や金子みすゞの「こだまでしょうか」が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に描かれた“ニュースピーク”のごとく繰り返し流されていたこと、福島原発の事故について、報道は「福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原爆の168個分」と数値を示すだけで、その書き手が生きた言葉で何も表現していないこと、震災直後に自らいくつかのインタビューを受けたものの、記者の既定の世界像に合わない発言は全く無視されたことなどを挙げ、「言葉についていえば、この破壊、かぎりない破壊を表現する言葉を、わたしたちは、失うもなにも、ひょっとしたら最初からもっていなかった、用意していなかったのではないか」と思い至る。
その上で著者は、シベリア抑留を体験した石原吉郎や、東京大空襲を体験した堀田善衛の言葉を手掛かりに、我々はどのような言葉を発し、どのような言葉を死者ひとりひとりに届けられるのかを思索している。
『もの食う人びと』など、これまでも人間とその営みの本質を洞察してきた著者が語る、奥深い書である。
(2012年3月了) -
東日本大震災の一ヶ月後にNHKで放送されたテレビ番組で、辺見庸が語った内容をきっかけに書き下ろしたもの。刊行は、3・11から一年も経たない2012年1月。
大震災と原発メルトダウン、という圧倒的な出来事を前にして、それを表現する言葉が致命的なほど不足しているという状態を、呆然としながら論じている。
「理不尽なのは大震災、大津波、原発メルトダウン、放射能汚染そのものだけではない。それらの意味と歴史的位置、悲劇の深度を表すべき言葉がテクノロジーの進化に反比例して退化し貧弱化していることも現代の大いなる逆説であり、それが言葉をもちいる生き物であるわれわれ人間の心をますます疎外しています」(p60)
特にメディアにおける言葉の貧困を批判的に語っているが、しかし同時に辺見庸自身も、どのような言葉が現状にふさわしいのかということは、必ずしも見つけられていない。
本書では、それを考えるヒントとして、ヒロシマで被爆した詩人・原民喜や、ソ連抑留を体験した、同じく詩人の石原吉郎、東京大空襲を体験した堀田善衛などの言葉を通して考えている。
そこで引用され、考察されているものは、見方によっては身も蓋もないものでもあるが、しかし同時に、それが詩人たちの偽らざる言葉であり、そして圧倒的な事象を表象する深度を持っている、と辺見は述べている。
ところで、この本では矢部史郎の「原子力都市」(311以前に書かれた原子力論)が引用されていたことに個人的には少し興奮したが、矢部も06年に出版された「愛と暴力の現代思想」という本の中で、「大学における失語」について論じていた。物事を理解する上で不可欠な言葉というものが、学問をするための空間にあっても失われている。それだけ言葉は空虚になっているし、そして言葉に対する信頼そのものが地に墜ちている、という辺見や矢部の認識は、僕も何の異論もない。
この時点で、辺見庸の詩集「眼の海」は完成しているし、またその後に刊行された小説「青い花」が、現状を表現する言葉の一つのアンサーになっているのかもしれない。しかし、それらは当然ながら、とてもではないが明るいものとは言えない。しかし、希望を見出すためにこそ、しかるべき絶望の海に潜らなければいけないのかもしれない、とも思う。
本書では、あとがきに「執筆途中にひどい抑うつ状態におちいり、夏をまったくぼうにふってしまった」(p193)とあったが、現状を真摯に考えればそのような状態になるのは極めてまともであるように思う。そして、そうした憂鬱を共有しているものは、確かに多数派ではないかもしれないが、しかし全くの少数派でもないのではないか。こうした「絶望の共有」の可能性が、逆説的であるが、現状におけるギリギリの希望であるように思える。 -
3.11震災後にマスコミで語られる言葉に違和感があるまま過ごしてきたのが、すっきりしました。2月に石巻の光景を見て原民喜の「夏の花」を思い出したのは私だけじゃないのですね。関東大震災の焼け跡を折口信夫が詩に描いている、というのは発見でした。言葉に直観的な強さを感じるかどうか、響きにごまかしがあるかどうか、この時代状況では、もっとこだわる必要がありそうです。
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3・11後の美しく勇ましく単純化された表現や自主規制の風潮に抗い、死者ひとりびとりの沈黙におくりとどけるべき言葉とは。
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311以降の日本人の使う「空っぽの言葉」、「薄い言葉」への違和感を綴っている被災地石巻出身の作家辺見庸。自分自身の内面と言葉のかい離を、熟考したうえで出てくる言葉は、重く凄みがある。
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震災の後、どのように感じたか、またジャーナリズムあるいは物書く人としての在り方等、赤裸々に書かれている。震災以来ずっとわだかまっていた不安感が、ここに文字として表れて、ほっとしたのと同時に改めて何かしのびよる恐ろしいものに身のすくむ思いだ。
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震災以降感じていた違和感をうまく言葉にしてくれた本。日本人はみんな読んでみるべき。
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3・11が遠のくどころかまた近づいてきた。あのときも「言葉を持っていなかった」が、いまも変わらない。責任も無責任も人間限りのことなのできっと風化していく。この先の恐ろしい悪夢を言い訳する主体とは「言葉」なのだろうか。はたまた化石となった人間の骨だろうか。春になったら、また読もう。