ハイデガー『存在と時間』 2022年4月 (NHK100分de名著)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (115ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784142231386

作品紹介・あらすじ

「存在」の問い自体を刷新した20世紀最大の哲学書。未来に残したその倫理的課題とは。

古代ギリシャ以来、哲学史上最も重要なテーマのひとつとされてきた「存在」。その問い方自体を刷新し、20世紀以降の哲学に決定的な影響を及ぼしたのが『存在と時間』である。 
未完に終わったうえ難解なことでも有名なこの書を、専門用語は最小限に、人間一人ひとりの生き方という視点から解読していく。世間の空気に流されず、自らの良心と向き合って生きる決意をもつことで本来的な自分として生きることを提唱したハイデガー。しかしナチスを擁護したことで、後世の哲学者たちに新たな倫理学的課題を残すことになる。なかでもハイデガーの教え子だったハンナ・アーレントとハンス・ヨナスは、ハイデガーを批判的に読み、その思想を乗り越えようとした。彼らの思索も参照しつつ、排外主義や差別がはびこる現代社会に生きるわたしたちが「他者への責任」を引き受け、他者と共に生きるとはどういうことかを考える。

感想・レビュー・書評

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  • 【読もうとした理由】
    100分de名著シリーズを初めて読んだとき、分かりやすかったので、他の作品も読んでみたいと思ったため。この作品を選んだ理由は特になし。


    【読んで認識したこと、思ったこと】
    「存在と時間」は、ドイツ出身のハイデガーが、1927年に公刊された、未完の著作。
    なんとなく知的な気分になれるかと思いながら読み進めた。テーマは、存在とは何かという、日常的な事柄で、内容のなかには多くの人にあてはまりそうな部分もあると思った。何かに生かせるかなと思いながら読んでいたが、とくに自分の中には浮かばなかったため、読んでいてもそうなんだ~程度で終わってしまった自分の力のなさが残念に思った。


    以下自分用要約。
    ・旧来の哲学において、自明であると考えられていた存在とは何かという問いを、より望ましい答えに近づけるように問い方を洗練させたのが、「存在と時間」。

    ・ハイデガーは「○○がある」、という文のうち、「○○」を「存在者」、「がある」を「存在」と呼び区別した。このとき、○○にあてはまる、テキストや机など物体のことを考えても存在の意味は解明されない。多くの場合、「存在」について考えているつもりが、「存在者」のことを考えてしまい、分かった気になり、解決されていると思い込んでしまう。これが、ハイデガーが、「問い方」にこだわる理由。

    ・「存在とは何か」を問うに、まずは「人間」の存在を分析する必要がある。なぜなら、存在の意味を問うことは存在しているものにしかできない。つまり人間にしかできないことで、人間がどのように存在しているかを分析することから始める必要があった。また、偏見や固定観念にとらわれないよう、人間のことを人間とは呼ばず「現存在」と呼び、純度の高い思考を実現しようとした。

    ・ハイデガーによれば、何かを問う時、問われているものについて何らかの理解が必要。リンゴとは何か?を問う場合、リンゴについてなにも知らなければ、そもそもそのような問いは思い浮かばない。つまり、問う者には、曖昧でもリンゴに何らかの理解がある。
    そうであれば、「存在」について問うているとき、「存在」という言葉が何を意味するのか、何となく知っていなければならない。(存在に関するこのような暗黙の了解を「存在了解」と呼ぶ。)

    ・そうである以上、現存在は、自分自身の存在を理解しているということになる。(現存在は問うという行いができる存在者である。存在についても知っている。なので、現存在は、現存在が存在しているということを理解しているということ。というか、これまでの言葉の定義からもこの考えにいきつく。)
    現存在が関わり合うことになる自分の存在を「実存」と呼ぶ。

    ・時間を解釈すれば、時間があらゆる存在了解一般を可能にする地平であることを示すことができる。
    →時間を解釈することで、時間が、「存在」をなんとなく理解しているという暗黙の了解を一般的なこととして成り立たせている領域であることを示せる、ということか?
    時間が、現存在に存在についての何らかの理解を与えているということかな?
    人間の自己理解は、これまで自分がどんな過去を歩んできたか、これからどんな未来を歩もうとしているかという、現存在がどんな「時間」を生きているかが、「存在とは何か」を考える上で重要だと捉え、このような言葉を残した。

    ・現存在の自己理解の方法に二種類ある。自分をその固有な自分らしさにしたがって理解すること、これを自分本来のあり方から自分を理解しているという意味で「本来性」と呼ぶ。
    もう一方は、世間で言われている尺度に従って「みんな」が当たり前だと思っているものに従って自分を理解すること、これを自分自身ではないものから自分を理解している場合で、「非本来性」と呼ぶ。
    人は、常にどちらか一方ということはなく、次の瞬間には他方にかわっていたり、別様でもあり得る、ということをハイデガーは「可能性」と呼んだ。
    ハイデガーによれば、多くの人は、非本来的に生きている。

    ・多くの人は、「世人(ひと)」という、世間、あるいはその場の空気、常識のような、自分ではないものによって自分を理解している。
    現存在は世人に従って生きている。言い換えると人間は、どんなときでも空気を読んで生き、「みんな」が正しいと思うものに照らし合わせて自分を理解しているということ。
    世人はあくまでも匿名的な他者の総体。

    ・現存在が自分の意見だとして、語っているものも、世人の意見を無意識に語っているにすぎない。自分は我が道を往く!と考え行動したとしても、それ自体よくある選択であり、それもまた世人に呑み込まれているに過ぎない。とハイデガーは言う。

    ・世人の生き方の特徴に、「世間話」、「好奇心」、「曖昧さ」がある。
    世間話とは、非本来的な現存在において交わされる会話のこと。このとき重視されるものは、自分がみんなの一員であるかどうか、「みんな」が関心のあることをキャッチアップできているか、「空気を読んだ」コミュニケーションができているかということ。
    好奇心とは、上記の世間話にコミュニケーションが支配されているがために、世間がなにに関心を抱いているかに振り回され、何かについてじっくり考えたりせずに次から次へと関心が移り変わる落ち着きのない様のこと。
    曖昧さとは、このような世間話ばかりして、周りに合わせて興味関心を変えているがゆえに、一つのことを深く考えないので、自分自身の意見が表明されず、どこまでが本人が思っていることで、どこからが本人の思っていないことなのか見分けがつかなくなること。
    この三つを合わせて頽落(たいらく)と呼ぶ。世人にのみこまれている状態。

    ・世人は無責任さをもたらす。
    非本来的な現存在の行為は、すべて「みんなもこうしている」ということに照らし合わせて決まる。すると、何かの行為の責任を問われたときに現存在は「それが世間の常識だから」といって自分を弁明する。よって、その行為の責任が、「私」から「みんな」へ、現存在から世人へと横滑りしてしまう。したがって、現存在は責任を引き受けない、無責任な状態に陥ってしまう。

    ・世人に支配された人間は、何らかの暴力や悪に加担してしまっていることに無自覚であったり、「みんなもこうしている」からといって自己正当化し、傷付いている人から目を背けたりすることが起きる。(いじめでも言えるし、ユダヤ人の大量虐殺でもあった)

    ・現存在が、世人に支配されるのは、世人に同調してさえいれば「安心」だから。同調をやめ、自分一人の力で人生を拓いていこうとすれば、たちまち「不安」に襲われ、耐えられなくなるため。
    「みんなもこうしている」という、規範に従っていれば、人並みに充実した人生を送っている、全ては順調に進んでいると自分に言い聞かせることができる。

    ・不安は、明確な対象があるものではない。そのため、少しでも安心できるように、現存在は空気を読み続けることになる。そうして、現存在は、さらに頽落の深みにはまる。

    ・しかし、不安から逃れるために頽落することが、常に心地よいわけではない。例えば、世間では、「学生は学校には通うもの」と見なされているが、学校へ通うことが辛くなった学生は、自分を人間失格と責めてしまい、苦しくなる。行ったとしても辛い。それなら世間の声を捨ててしまえば良いかというと、捨てたとき、今度は現存在は不安に陥り、自分自身と向き合わなければならない。ある意味では、「学生は学校に行くのが当たり前」という規範がもたらす苦しみを上回りさえする。結果、捨てることができない。

    ・死と向き合うこと(死への先駆)が、本来性を取り戻すことの鍵になる。死は、自分自身しか引き受けることのできないもので、全くもっていつ起きるものか分からない。それに向き合うことによって自分が「唯一無二の存在」であることを理解し、「当たり前」だと思っていた世間の価値観に同調せず、自分の本当にすべきことを考えるようになる。

    ・死への先駆のみでは本来性を取り戻すには足りない。死への先駆をし、「良心の呼び声」(良心の呼び声は沈黙という形で示され、具体的なことはなにも語ってくれない)に耳を傾け、「みんなに従わないこともできたんじゃないか」と気付く、決意性が伴われることで、本来性を取り戻すことができる。
    これを「先駆的な決意性」と呼んだ。

    ・しかしながら、著者のハイデガーは、ヒトラー率いるナチスに加担した。ユダヤ人の迫害にも何の抗議もしなかった。
    何故こうなったかを分析した主な哲学者にアーレントやハンスらがいる。

    ・アーレントは、ハイデガーが他者との関わりを非本来的なこととして捉え、孤独であることが本来性であると考えていたため、全体主義に抵抗できなかったのではと考えた。人間がともに世界を築くために他者と語り合い、連帯して行動する「活動」が、重要で、全体主義的な支配に対する抵抗策になると考えた。

    ・ハンスは、「良心の呼び声」に注目した。「良心の呼び声」は、現存在を世人の支配から解放するが、何を決意するべきか、何が正しいのか、何が間違っているかを教えてはくれない。そのため、ヒトラーを支持し、加担するという決断さえ、人間の本来性として擁護されてしまうということにつながり、ヒトラーやナチスに飲み込まれたとハンスは解釈した。

    ・ハンスによれば、責任とは、他者の生命を守ることである。それを発展させていくと、私たちの責任とは、未来へ向かうものになる。本来性が重要なのであれば、自分たちの本来性だけでなく、未来の人たちの本来性を発揮できる環境を残すことに対しても責任を負っている。だからこそ、私たちは「未来への責任」を負っているとハンスは考えた。

    ・ハイデガーの『存在と時間』は、本来性を取り戻した現存在が、どのように他者と関わるのかということが考えられるべきだった。

  • 100分de名著シリーズは毎回楽しみにしているが、今回のハイデガーは当初買うのを迷った。だってハイデガーは読んだことがない。「難解」「大長編」etc. 避ける理由はいくらでも浮かんだ。
    でも思い切って買って読んだ後、所感は180度転回した-読んでよかった、と。

    編者の戸谷(とや)先生の解説が、もうこれ以上ないって言うくらい噛みくだいて平易な文章にしてくれているのが大きい。でも戸谷先生によると、ハイデガーもできるだけ哲学用語は用いず日常的なドイツ語を使って造語していたのだという。ハイデガー最重要語の1つDasein(ダーザイン)なんて、日本語訳だと“現存在”なんて非日常語が使われているが、ダーザインの直訳は“現にそこに存在する”で、英語の“be動詞+there”と比較すれば、いかに日常的な言葉なのかがわかる。つまりハイデガーって、奥に進めばそりゃ難しくなるけれど、入り口から難解だと尻込みする姿勢は間違いなんだってこと。

    次に本書の内容に踏み込む。私がハイデガーのスタンスで特に共感したのは、既存の考え方をまず疑ってかかったところ。「存在」に関して哲学界で長く信じられてきた見解では、存在の実態は100%解明できていないとハイデガーは考えたらしい。
    これって自分の身近な状況に移し替えて考えればわかるけれど、言うのは簡単、だけど実践するのは難しい。だって既存の発想に立てば、その答えに至る過程も周りから織り込んでもらえてジャッジが得られるから。
    だがハイデガーは、その“常道”自体を全否定した地平から論考しようとしたというのだから、周りよりも自己の思索の追求に重きを置く意味で、それこそ哲学的だ。

    それと私の共感ポイントはもう1つある。それはハイデガーが存在とは何たるかの解答ありきで論を進めるのではなく、あえて存在とは何かを問う「問い方」のみが突き詰められているというところだ。
    現代の私たちはともすれば目先の答えをすぐに求め、その答えを現実にすぐに当てはめて物事の是非を論じようとする。だが、真実追求にとってその手法は正確さに欠ける場合が多いのではないのか?戸谷先生の文章を読み、私が漠然と日常で考えてきた、即断即決で物事に何でも白黒をつけたがる最近の傾向の矛盾や危うさに符合したように思えた。

    そのように、戸谷先生のハイデガー論は一貫して、ハイデガーは過去の遺物ではなく、現代の時代背景でも光を放ち私たちにヒントを与えてくれるのだということを教えてくれる。
    私が特にそれを感じたのは、ハイデガーがナチスを支持したという大いなる矛盾に関する部分だ。

    周知のとおり大阪の選挙では維新の会(以下「緑派」と書きます)が圧倒的に強い。私は(赤派のように)緑派を毛嫌いはしないが、大阪の人がここまで広く緑派を支持するのに少々違和感を抱いている。
    だが本書の「決意性」の部分を読み、緑派の支持者の多くが「決断力がある」と言っているのと重なった。決意性とは周りに流されない自分の本来性を取り戻すキーワードだが、ハイデガーが支持したナチスが後世から見て誤っていたように、緑派が導き出した決断自体が社会的かつ歴史的に正しいという保証は全くない。なのに人々は正解かどうか不確定なはずの緑派の決意性を自分自身に重ね、自己の不安定な決意性を裏書きさせようとしてしまうのではないか。これが大阪で緑派の支持が多い理由だと私は推測する。

    決意性とは自己の本来性を取り戻す重要なアクションだとしても、いかに決意性のなかに公正さを担保するのか?ハイデガーの弟子たちは、その他大勢ではない信頼できる他人との関係の構築や、環境及び人権といった倫理を付加するなどで、決意性の補強を試みている。これも現代につながる面白い議論の展開だと思った。

    結局、はじめから最後まで、現代社会にも通じる人間の存在のあり方を根底から再定義しようとするヴィヴィッドかつアップトゥデイトな思想で本書はあふれていた。100分de名著シリーズ中でも特に内容が濃いのではないか。
    いや、濃いだけでは苦い薬を飲むときのように満足感に欠けてしまう。戸谷先生がハイデガーの意思を汲んだかのように、身近な例とやさしい単語での解説に終始したという功績も、地味だけど大きい。

  •  2022年4月4日〜25日、計4回
     第1回 「存在」とは何か?
     第2回 「不安」からの逃避
     第3回 「本来性」を取り戻す
     第4回 「存在と時間」を超えて

     カントの『純粋理性批判』、ヘーゲルの『精神現象学』とともに世界三大難解哲学書のひとつとされるハイデガーの『存在と時間』。それを、こんなにわかりやすくていいの?ってくらい極限まで噛み砕いて、いいのか悪いのかわからないけれどわたしたちの日常生活に照らし合わせて、これ以上ないくらいわかりやすく解説してくれた。たぶんこの講座だったら高校生でも十分理解できると思う。

     わたしが大学で哲学科に入ったとき、とにかく哲学を日常生活から切り離すようにと教授や先輩たちから口を酸っぱくして言われた。哲学は、人生に救いをもたらす自己啓発とか教訓のようなものではなく、あくまでニュートラルな知の追求の試みであるべきだから、気に入った哲学者の論文の一節を名言のように切り取って感激するような愚かなことはしないように、というようなことだったと思う。そもそも、生きている中で言葉にできない感情だったり現象だったり、そういうもののなんたるかを知りたくて哲学を学びたいと思ったわたしは、それを聞いてとても戸惑った。じゃあ哲学を学ぶ意義ってなんだろう?日常生活と、人生と関係がないなら、そうやって追求した知になんの意味があるんだろう?その疑問に納得のいく答えを出せなかったから、大学卒業とともに哲学からも離れてしまった。

     そして今回、何を思ったか突然10年以上ぶりにこの講座で『存在と時間』に触れることにした。指南役の戸谷洋志さんがわたしの一つ下の年齢で、こんなに若くして准教授になったなんて凄すぎる、、、と興味を持ったということもある。わたしの場合、何かを始める際、その内容そのもの以上に、それに関係した「人」への興味がきっかけになることが多い。

     最初の方の回で、ハイデガーが、存在とは何であるかを日常生活から捉えようとしたという話があった。それを聞いて、ああやっぱり、哲学と日常生活は完全に切り離さなければいけないわけではないのかもしれないと感じた。もちろん、最近よく本屋で見かける哲学者の名言集みたいなああいう本を積極的に読んでみたいとは思わないけれど、たとえば「頽落」や「先駆的決意性」といった専門用語を聞いたとき、ああこれは自分にも身に覚えがあるな、あのときのあの感覚かな、と記憶をたどり、そこからさらに考察を深めていくやり方も決して間違ってはいない気がした。そもそももうわたしは大学生ではないのだし、偏屈な教授も提出期限が迫った論文もない。であれば、自分の好きなやり方で取り組んでなんの問題もないとは思うのだけれど、哲学と日常生活との関係性についてはずっと引っかかっていたので、ここに記録しておこうと思った。

  • 竹田青嗣『ハイデガー入門』をさらに嚙み砕いて飲み込みやすくした、という感じ。ハイデガーの「先駆」のアイデアは、『7つの習慣』の第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」に似ているということに気が付いた。「決意性」の説明はアドラー心理学っぽい。ハイデガーの思想はビジネス書の読者との親和性が高いのかも?「非本来性」の「世間で言われている尺度に従って……自分を理解する」(p.34)という説明にはセカオワのHabitを想起した。
    個人的には、ハイデガーを乗り越えた戦後の哲学者として紹介されているアーレントやハンス・ヨナスの思想に、より強く惹かれる(『ハイデガー入門』で紹介されていたレヴィナスにしてもそうだ)。

  • 10年前に「ハイデガー拾い読み」を読んでいる。
    ブクロブには、(だって、「存在」をそんなふうに定義付けする必要があるんだろうか。)と書いているが、全然覚えていない。

    NHKの放送を見ながら読む。最後は、最終回の放送を待たずに読み終える。
    難しい哲学の要旨を判り易くかみ砕いてもらったので、有難い。
    最後は、ナチ党員になったというハイデカーの限界とそれを克服していった弟子達の話。

    ロシアのウクライナへの侵略、ミャンマーの軍人支配。
    いつまでも人類は愚かなままだ。どうしたらよいのだろう。

  • 難解な文章による哲学書でした。自分の人生を引き受けること、本来的な自己に向き合うことの意味を考えさせられました。

  • ハイデガー語なるものを理解するには良いと思うが、この本それ自体としては自己啓発本クサくてウザかった。現存在が被本来的に生きているとハイデガーが考えているというのは構造主義を意識しているように感じるが、なぜ実像主義者の彼がこのように思考したのか、反証などそのプロセスについて知りたかった。彼が大学で陰キャで陽キャに対するフラストレーションでこういう考えになったとしか読み取れなかった。
    第1章で存在とは何かという問いから現存在の実存論的分析に至るプロセスは分かりやすかったが第2章からはギュスターヴ・ルボン『群集心理』と言っていることがほとんど同じで、存在と時間からこそ学べることが少ないように思えた。

  • とても分かりやすく、ハイデガー以降の哲学者も思想史の流れと共に軽く紹介されていたので、哲学のファーストステップとしてとても勉強になった

    不安から逃げるために非本来性に陥ってしまうが、良心の声を聴く覚悟を決めたとして、どうやってそれに伴う不安に耐えればいいんだろう

    ハイデガー批判を行った、ハンナ・アーレントとハンス・ヨナスだけれど、今現在よく言われていることに重なる部分が多分にあった
    例えば、アーレントが言っていることは、自分に閉じこもっていないで人と交流することで自分を発見し学習しようということ。これはコロナ禍でもよく聞いたこと。ヨナスは倫理によって自己中心性とのバランスを取ろうと考えたけれど、これは環境問題に対する意識はもちろん、ポリコレにも繋がるんじゃないかと思った
    当たり前だけれど、哲学とは本当に身近なもので私たちのものの考え方にも大きな影響を与えているんだな〜

    ところどころ「存在と時間」の本文が引用されていたけれど、ハイデガーが作った独自の言葉(本来性とか非本来性とか)のためだけではなくて、独特の持って回ったような言い回しがあり、とても読みにくい
    ハイデガーのが独特の表現方法を用いていたということもあるのだろうけれど、やっぱりこれは時代の違いや、ドイツ語を日本語に訳するという難しさにも由来するのかな。研究するとなるとやっぱりできるだけ直訳が望ましいのかもしれない

    「存在と時間」読みたいと思ったけれど、どの訳にするか考える必要がありそう
    あとはサルトルやメルロポンティ、アーレントも!

  • 世人に飲み込まれないように。
    現存在としての自分の立ち位置を客観的に把握する。

  • 作品、著作を批判的に読み解くことを平易に伝えてくれる。
    存在と時間の主張の価値と限界、その限界の乗り越え方。
    思想そのものにナチとの親和性があるとの視点は苦いが受け入れてこそ、重要なそのさきが見えた。

    ナチとの親和性は古東氏とは違って、アーレントが指摘した個人のアトム化、そして、ヨナスが指摘した倫理の問題を挙げていた。

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著者プロフィール

戸谷 洋志(とや・ひろし):1988 年東京都生まれ。立命館大学大学院 先端総合学術研究科准教授。法政大学文学部哲学科卒業後、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は哲学・倫理学。ドイツ現代思想研究に起点を置いて、社会におけるテクノロジーをめぐる倫理のあり方を探求する傍ら、「哲学カフェ」の実践などを通じて、社会に開かれた対話の場を提案している。著書に『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『ハンス・ヨナス 未来への責任』(慶應義塾大学出版会)、『原子力の哲学』『未来倫理』(集英社新書)、『スマートな悪 技術と暴力について』(講談社)、『友情を哲学する 七人の哲学者たちの友情観』(光文社新書)、『SNSの哲学リアルとオンラインのあいだ』(創元社)、『親ガチャの哲学』(新潮新書)『恋愛の哲学』(晶文社)など。2015年「原子力をめぐる哲学――ドイツ現代思想を中心に」で第31回暁烏敏賞受賞。

「2024年 『悪いことはなぜ楽しいのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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