ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

著者 :
  • 早川書房
3.93
  • (65)
  • (104)
  • (59)
  • (10)
  • (1)
本棚登録 : 1328
感想 : 108
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150310479

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • とりあえずは、東浩紀以降、評論界は停滞している(評論の対象となっているコンテンツや、それらが反映しているであろう現実の有り様に追いついていない)ことを指摘し、どうも、その指摘はあたっているっぽいという感じ。
    新書で出てたセカイ系の本の類が、文章の出来も悪いが、本の出来はもっと悪かった(つまり、編集の仕事が悪い)のに対して、本の出来もしっかりしている。文庫を読んでいる方がフラストレーションは溜まらないよねという、ある意味あたりまえな事を再認識したりとか。

  • ◎究極的に無根拠であったとしても何かを選択し決断しなければいけない

  • 発売当時には某はてな村界隈で何かと物議をかもしてた本作だけど、僕にとってはとてもいい本だった。

    セカイ系あたりで見事に思考停止していた自分にとってこの本はかなり役に立った。なんというか、自分の人生に希望が見えた。

    ハードカバーが嫌いだからって発売当時にスルーしてた自分がちょっとうらめしい。けど、今になったとは言え読めてよかった。

  • # メモ

    - 「データベースから生成される小さな物語の共同性は、排他的な性格を帯びるのだ」
    - キャラクターは物語とその共同性から無縁ではいられない。
    - 95年の思想。アスカに振られるシンジ。価値の宙吊りに耐えて生きる。
    - 「何かをすることで人を傷つけるくらいなら何もしない」引きこもり/心理主義。セカイ系。「95年の思想」の堕落形態。
    - 「闘わなければ生き残れない」サヴァイヴ系=バトルロワイアル系(DEATH NOTE)。ゼロ年代的決断主義。決断主義の必然性とその克服。→ゲームに参加しつつこれを止める方法の模索(LIAR GAME)。
    - 宮藤官九郎と「終わりある日常」の豊かさ。
    - 『野ブタ。』とバトルロワイアルの離脱可能性。
    - 母性の重力。
    - 成熟。子供の試行錯誤に必要な環境を用意する新教養主義。
    - ゼロ年代の想像力の変遷を象徴する週刊少年ジャンプと平成仮面ライダーシリーズ。正義と成熟の問題系。
    - ポストモダン状況が進行するなかで問われる〈決断主義〉への態度。
    - 仮面ライダーの「変身」は疎外感の暗喩。
    - 『アギト』の食事シーン。「生きるっていうのは、おいしいってことなんだ」。社会や歴史から切断された日常の中から物語を引き出し、楽しんで生きるという態度。
    - 昭和ノスタルジーとセカイ系レイプ・ファンタジー
    - 「決断主義の生む「誤配のない再帰的共同性」の閉塞(と暴力)を乗り越えることを志向する作品が、(…)宮藤官九郎や木皿泉、あるいはよしながふみの挑戦であった」
    - ケータイ小説。脱キャラクター。物語回帰/物語純化。
    - 「〜である」型のアイデンティティ(キャラクター)を他人に押し付けるのは「空気の読めない」キャラクター的実存。
    - コミュニケーションの中で共同体の中の位置を獲得する「〜する」型の書き換え可能なアイデンティティ。モバイル的実存。
    - 「決断主義という不可避の条件を受け入れ、動員ゲームから可能な限り暴力を排除する運用」→アーキテクチャ(環境)の社会設計。ある種の設計主義。
    - 「現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと--自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない」
    - 「どう誤配と柔軟性を確保し、開かれたものにしていくか」
    - 「現代では、超越性を公共性が保証することはありえない。「生きる意味」も「承認欲求」もすべてはひとりひとりが、コミュニケーションを重ね試行錯誤を繰り返し、共同体を獲得する(あるいは移動する)ことで備給していくしかない」
    - 「家族(与えられるもの)から擬似家族(自分で選択するもの)へ、ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ、終わりなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ--現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代から与えられるべきものではない。個人が日常の中から、自分の力で掴み取るべきものなのだ。そしておそらく、この端的な事実は時代が移っても変わることはないだろう」
    - アイロニカルな没入から、アーキテクチュアルな没入へ。

    # 考察

    - 宇野は「日常の中に意味を見出すことが倫理的だ」という立場で、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と似ている。
    - 宇野は「人が生きる上で物語は必要だ」という立場を取り、「物語からデータベースへの移行」を論じる東浩紀を批判する。

  • 2012/01/02 読了

    やもすれば負の側面ばかりにスポットが当てられがちな現代について、サブカルを含めた批評視野で現代性に希望を見出していることに好感を持った。

    特に、自己像は「ほんとうの自分」ではなくただの願望に過ぎず、他者とのコミュニケーションで書き換え可能なもの、という主張は、もともとあるはずのない「自分探し」を強要する社会的雰囲気の圧力から解放してくれる。

    「空気系」の人気が示すように、何気ない日常の豊かさを如何に引き出すかが、大きな物語を持たない僕らにとってとても大切なことだとはわかる。ただ、それは内だけを見て「小さく収まる」とはイコールじゃないってことは忘れてはいけないと思う。と、言っておかないと社会が回っていかない気がする。

    これまで、批評は殆ど読んだことなかったけれど、こういうの書くのを職業にしてる人って、アニメやドラマ見る時に何と小難しいことを考えているのか、というのがまず第一の感想だった。

  • 自分のこれまで生きてきた時代を評論で読んでみたいと思って購入。

    社会の変容とサブカルチャーをリンクさせ(そもそもリンクしている)、
    想像力に時代と人の思想、深層心理を見ることができ、
    想像力はそれに準拠するものであるという前提に論が進む。

    当初の自分の世代・時代を振り返るものとしての目的は十分果たされ、
    評論・言説に対する興味を喚起する点で十二分に効果があった。

  • 動ポモ批判にはじまり、内容はゼロ年代カルチャー講義。
    個別にはスッキリ正鵠をえた批評もあれば、情熱過多で消化不良な点もあるが、その饒舌に酔いながらエキサイティングに読み進めることができる。

    それは同時に、
    二十世紀との訣別を誓いながら過渡期のなかで溺れていたような、
    何か変えなければならない•何も変えられなかった「ゼロ年代の閉塞感」そのものともいえる。

    威勢よく改変を試みながら結局焼き直しに陥る、批評はその時代の記録にしかならないのか。新しい価値を創造するには至らなかったが、時事カルチャー批評はウォッチしていきたい。

  • 時代の切り取り方とかそれを見るための事例の上げ方とか面白かった。

  • この手のサブカルチャー評論の中心的存在だった東浩紀を「古い想像力」と断じ、「AIR」辺りに代表されるセカイ系的なギャルゲーの想像力を「レイプ・ファンタジー」「既存の社会構造の生む広義の性暴力」とまで言い放つ、この著者の「芸風」に賛否あるのはまぁわかる話である。しかし、その是非を別にして、東の議論がカバーしきれなかった部分(例えば奈須きのことか近年のアージュに見られる「物語消費」への回帰的な傾向や、「ハルヒ」以降「らき☆すた」的な「空気系」へのシフトといったことが該当すると思う)への補完として読めば非常に有用なのでは、と思うのだがどうだろう。特に、最近の「空気系」の隆盛を予見したかのように、「セカイ系」から「日常のロマン」への橋渡しとして「ハルヒ」を捉えた視点は、ある意味「ハルヒ」論として一番しっくりくる感じがした。この辺については巻末のインタビューでさらに補足されているので、今現在読むならこの文庫版が断然お薦め。
    「萌え」的なものに限らず、特撮もの、テレビドラマ、映画等幅広い分野からの考察というところも特徴で、そこから「この時代をどう生きるか」という問題意識が見える。スタンスとしてはかつての宮台真司に近いのかな?
    久々に読みごたえのある本を読んだ気がする。

  • 今日から読みはじめた。おもしろいかなー。

全108件中 71 - 80件を表示

著者プロフィール

1978年生まれ。評論家。批評誌「PLANETS」「モノノメ」編集長。主著に『ゼロ年代の想像力』『母性のディストピア』(早川書房刊)、『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『砂漠と異人たち』。

「2023年 『2020年代のまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

宇野常寛の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×