- Amazon.co.jp ・本 (464ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150505868
感想・レビュー・書評
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言語は自然と文化、どちらを反映するのか。母語は思考に影響を及ぼすのか。現代人には奇妙に感じられる「葡萄酒色の海」というホメロスの色彩感覚にはじまり、視覚と色名の関係をめぐる議論の歴史や、左右前後を表す言葉を持たず、常に東西南北の絶対方位感覚を必要とする言語の発見など、言語学が生まれた西洋で〈普遍〉と信じられていた常識が崩れていった事例を、言語学者の功罪に鋭く斬り込みながら語るノンフィクション。
ホメロスは『オデュッセイア』も『イリアス』もまだ読んでないけど、「葡萄酒色の海」のことだけは知っている。だけど、これが文学的な修辞の範疇を超えて「古代人は色弱だったか否か」の議論にまで発展していたなんて知らなかった。西洋の研究者はアフリカやポリネシアへのフィールドワークを通して、空や海の色を黒と同一の単語で表す人びとの存在に驚愕したという。
ホメロスの叙事詩は本来口で語られたわけで、厳密な色名を挙げるより実物を指し示せばそれで事足りたのだろう。アフリカやポリネシアの人びともそうで、空や海は「地の色」であって、そこに浮かんだり飛んだりしているものは何かという情報のほうが重要だったゆえに、海や空そのものの色を黒(暗色)と区別する必要がなかったのだと思われる。
色名が生まれる背景に、人工的にその色を作る技術が関わってくるという説も面白かった。そして勿論、文字を持つ文明か持たない文明かも大きい。直接対話できない相手との交流が活発な地域であれば、共通概念としての色は重要になる。反物を指定の色に染めてほしいという注文書とか。
以上のように、本書の第一部では色名を例に、視覚と言語の関係をめぐる研究史を紹介している。「研究に値する言語」はギリシア語とラテン語だけだとされていた19世紀初頭から、さまざまな偏見を晒しながら歩んできた言語学の歴史にツッコミを入れつつ語っていく。具体的な研究成果が一切報告されていないのに常識化してしまった「言語学の基本」や、偏見への反省がある分野の研究を停滞させてしまった例も引き、鋭い批判も飛ばす。この本は一般向けに書かれた言語学の入門書であると同時に、言語学の罪を暴く本でもあると思う。
第二部で言語相対論を取り上げると、ドイッチャーの語気はさらに強くなる。「宇宙観は言語に依存する」と断言したウォーフによって、言葉は認識の限界を定める牢獄になり、誰しも母語にないものは本質的に理解できないことになってしまった。ドイッチャーは、そんな考えは馬鹿げていると言う。言語相対論を打破する説がヤコブソンの翻訳に関する思索からでてきたのは興味深い。「言語の違いは〈何を伝えていいか〉ではなく、〈何を伝えなければならないか〉にある」というのがそれである。
そこで時制を明らかにしなければ一言も話せない言語、男女の区別が無機物にまで及ぶ言語、そして地理座標が体に染み込んでいないと位置関係を表現できない言語が登場する。最後に挙げた例のひとつ、グーグ・イミディル語は、それを母語とする人びとにどんな場所でも東西南北が識別できる身体感覚を無意識レベルで叩き込む。この事例は、オリバー・サックスが『音楽嗜好症』で中国語のような声調言語を母語にしていると絶対音感を持ちやすい、と言っていたのと少し近いと思った。言葉の〈ジェンダー〉にまつわる章は日本語話者には不可解極まりない男性名詞・女性名詞の区別をネタにしていて楽しい。マーク・トウェインの皮肉が冴え渡る。
最後はふたたび色名と色の識別の相関性を、最新の脳科学実験のデータから考えていく。日頃から言語学って文系と理系の中間にある学問だと思っていたけれど、認知科学と手を取ることで「人間がどのように世界を把握しているのか」「言葉と認知の相互関係はどのくらい強いのか」がこれから明らかになるのであれば、もう言語学こそがSFだとすら言ってもいいんじゃないだろうか。そんな未来に対するワクワクと、そして何より過去の過ちを認めることこそが「科学的」であるというアティチュードを教えてくれる一冊だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
こちらも途中で断念。「言語が好き」な私には合わなかった。この本は「言語学」に興味がないと、途中から飽きてくる気がする。
また行間も大変狭く、フォーマット自体すごく読みづらかった…。紙の新聞を読んでいる気分でした。 -
少し古いが、2004年にBBCが世界で最も翻訳がむつかしい語を発表している(http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/3830521.stm)。コンゴ民主共和国の南東部で使われている”ilunga”という語は、『如何なる暴力・暴言も一度目は許し、二度目も我慢するが、三度目には絶対に許さない人』という意味である。日本人的には有り体に言うと“仏の顔も三度まで”に近そうだ。
本書は古今東西様々な言語や言語研究の成果を通じて、
① 言語の違いは、それを用いるひとの社会や文化の違いを反映しているのか、それとも自然や環境の違いを反映しているのか
② 言語の複雑さは社会の進歩の度合いと関係しているのか
③ 言語は思考の方法に影響するのか
という3つの問いに取り組んでいる。
BBCは”illunga”を“the world’s most difficult word to translate”に選んだが、あくまで翻訳がむつかしいだけで、翻訳ができないわけではない。“ilunga”という語が他の言語にないからといって、『2回目まではぐっとこらえる人』がコンゴ南東部以外の地域に存在しないわけでもない。言語には限界があるようで、不可能もないことを教えてくれる。
また、いわゆる先進国や文明社会と未開の社会の差異を、生物学的なもの、生物的に所与のものと考えるような過去の説に対する反省を引きながら、研究がどのように揺れ動いていったのかを追いかける。
“ilunga“は②の問いに対する事例と言えそうだ。
そもそもの問題として、『言語の複雑さ』というのは漠然としすぎて定義できないため、それが社会の発展とどのように関係するかも測ることはできない。
ただし、言語の一部、例えば語彙の量、単語の複雑さ、文中の単語の量などに限定した場合、それらと社会の状態との間には、統計的に有意な関係がみられる(という研究がある)。
曰く、単純な社会ほど、多くの情報を単語内で表現するという。理由として考えられるのが、閉ざされた社会では物事の理解に共通基盤が存在するため、意思疎通にあたって指示語が用いられやすい。指示語は、様々な要素を後付けで取り込んでいく。結果、複雑な意味を持つ語が出来上がる。(反対に、構成員が複雑に入れ替わる社会では、物事の伝達は丁寧に行わなければならない。あまり特殊な指示語はたとえ使っても伝わらないので、あまり複雑な内容を意味する語は定着しない。)
ところで、 “ilunga”が使われているコンゴ南東部を、いまなんの疑いもなく“単純な社会”であるものとして考えていた。でも本当にそうだろうか。コンゴ南東部のことなど、自分は何一つ知らない。
『未開の社会で用いられる言語は、きっと単純な言語だろう』という過去の(あるいは今もある)偏見を戒めようというテーマが本書には(きっと)ある。それを読み終えた後でなお、『コンゴ南東部はきっと未開だろう』とごく当たり前に偏見を持って語ってしまった。言語に対する偏見と、コンゴ南東部に対する偏見、次(3回目)はもうない。反省。 -
言葉は、発する人の世界の見方にどう影響を与えるかについての考察本。
ウォーフの仮説が妙に気になる、だけど信じていいのかな、と思ってたところでこの本に出会い、読んだ。結局ウォーフの仮説は今は否定されていることがわかったけど、でもだからと言って言語と思考が全くの無関係でもないということがちゃんと説明してあって(しかもユーモアたっぷりに)、私的には満足。解説も言語の研究で何冊も本を出している先生が書いていて、それもまた満足。興味深いし、面白いしで、大事に読んでいきたい本になった。 -
言語が話し手になにを伝えるのを許すか、ではなく、なにを伝えるのを強いるか
この観点は私にとって新しく糧となった -
【読書前メモ】
言語学の本書。「言語が思考を一定程度、規定する」というソシュールが主張した内容を具体例を交えながら説明している模様。 -
言語とそれを取り巻く文化的慣習やコミュニケーションを巡る旅。
言語はコミュニケーションツールであり、話し手の私的な知識体系、心的体験を映し出すものであり、また言語そのものは文化的慣習と密接に結びつく。
「色」の表現の仕方を皮切りに進む旅は、言語の面白さ幅広さを見せてくれる。
色相環、色の名前、その派生の歴史…自分の持ってる知識が日本に偏っているから、多言語かつ他言語の話題が面白い…!知識足りない!と思いながら、調べながらゆっくり読みました。
母語以外の言語を学ぶのは苦手で、全然上達しないんだけど、勉強していて感じる「母語との違い」(男性名詞とか女性名詞とか初めてのときはビックリしたし、量詞が難しかったりしたし)は、きっとその言語を使っている世界と文化が変化させてきたんだろうな、と漠然と思っていたんだけど、漠然と思っていたことが「思い込み」だったり「まあまあいい線いってた」りして、その発見もまた面白かったし、苦手だけど他言語を学ぶ面白さも感じました。
それ以上に言語学が面白そう…!
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p.86
「青」…「緑」を意味する語から派生する少数派と「黒」を意味する語から派生する多数派。
日本語、1,000年以上前から「青」に緑の意味を含むが(青信号とか)平安時代以前はそういえば知らない…「あをによし奈良の都…」の「あを」は緑だったっけ…?
→「名付け」について。見分けられるから名付けるのではなく、必要があるから名付けるのではないか、とう示唆。「紫」を意味する語を持たない言語を話す人々は、その色に名前はなくとも見分けられている。
→「あを」は緑かもしれないが別の後が「青」を示したかもしれない。青は染め物として出てくるのはいつ頃だろう。自然界に溢れている色ではないから「作れる」ようになる時期と語の発生は関連があるかもしれない。江戸時代に大量の茶や灰色(鼠色)が生まれたことを思い出す。
p.152
多くの言語が同じ順序で色名を獲得するのはなぜか、そして、さまざまな言語の色の概念ぬ表面的な差異はあっても深いところで極めてよく似ているのはなぜか。
p.291
その表現は適切だろうか…絶対的な心的方位磁針を持たない私たちには想像し得ない感覚だろうな、と思う。例えば私は音楽は音名で聞こえているけれど、昔聞いたあの歌、というようなものは意識せず音情報と音名情報が結びついているから思い出して口ずさむときに音名で歌える。音名がわかるから楽器でも楽譜でも再現できる。音名で聞こえていない人の感覚がわからない。そういうことだと思う。
私の話す日本語では東西南北で左右の位置を示すことはないし、北がどっちかなんて気にしない生活をしているから、グーグ・イミディル型の地理的座標言語を話す彼らが、体験した事象と東西南北の位置情報とどう記憶しているか、不思議でならない。映像で覚えているなら、そこに身体感覚として東西南北の記憶が乗っているのではないか、と想像している。
きっとメンタルローテーション課題でも同じ答えが出るんだろうなぁ…!とドキドキもしている。
言語、だけではないナニカ文化的なものなのだろうか、下地になるものってなんだろう。ワクワクする。
p.313
言語の主流が英語になったら、地理的座標感覚を失ってしまった。はぁぁああ、言語って面白いな。
やっぱり地理的座標感覚を身につけるのも、何歳までじゃないと身につかないとかあるのかな。絶対音感は6歳までとかいうけど。言語も早く学び始めた方がいい説あるけど。
p.328
文法的ジェンダー…
私、名詞に性別がある言語を学習したことがないので完全に未知の世界。タミル語、乳幼児が中性詞ってナニ…(困惑)
p357
来ました、日本語の「アオ」!
p358
信号機の「アオ」が緑の範疇ギリギリのアオ寄り…!それは知らなかった。確かに古い信号機と新しいLEDの信号機は色味が違うよね。はぁあ、面白い。 -
生得主義が言語学の主流であるとは聞くのだが、面白そうだと思って手に取る本は、この本も含めて「非主流派」の本になりがちだ。本書の立場は生得主義に真っ向から反対するものでもないみたいで、自然により与えられた「制約のなかの自由」により、文化もある程度まで言語に影響を及ぼす、さらにその逆として、言語が文化に影響を及ぼすこともあるといったところ。
言語の「氏か育ちか」論争が、ある極端から一方の極端へと行き来する歴史も丁寧に解説しており、一種の科学史としても読める。
色の認知については、どこか他所で日本人の少し上の世代にミズイロの認識がないことを読んだ。ベーシックな知覚だけに驚いたせいで覚えているのだが、それにとどまらぬ様々な色の表現パターンが世界の言語にはある。面白い。グーグ・イミディル語の方向認識にも驚かされる。言語についての工夫をこらした実験デザインも興味深い。
そろそろピンカーあたりの本を読んでおいたほうが良い気もするのだが、あまり面白そうでないのだよなあ。 -
「母語の言語体系(文構造、文法、語彙)が、話者の知覚・認知・思考を規定している」という命題について。
その言語によって「何を伝えることができるかではなく、何を伝えることをを強いられるか」という観点に拠ってみると、↑の命題は正しいようだ。
そして特に色の見え方について、碩学の方々が導いた結論はかなり驚くべきもので、ぜひ読んでみてほしい。
言語の「強制」の興味深い事例をひとつ。。
「前後左右」の語彙がないオーストラリアの先住言語では(!?)「東西南北」を代わりに用い(!?!?)、例えば絵の中の位置関係も「東西南北」で表す。
だから絵について記憶を辿って説明するとき、「自分がどの方角に立っていたか/イラストがどの向きにあったか」も合わせて把握しないと、そもそも他者とコミュニケーションできない、という。
ただ「前後左右」の概念を理解できないわけではなく、ここを見誤ると一気にトンデモ論化らしい。
日本語も含め、名詞のジェンダーなどいろいろな言語の事例がユーモアたっぷりに紹介されており、とても楽しい。