みんなが手話で話した島 (ハヤカワ文庫NF)

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150505943

作品紹介・あらすじ

耳の不自由な人が多く暮らし、聞こえる聞こえないにかかわらず、手話を使って話していたマーサズ・ヴィンヤード島の驚きの実話。

感想・レビュー・書評

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  • 医療人類学者である著者が1979年より米ヴィンヤード島の島民・系図について調査、あらすじを締めくくる一文には「『障害』『言語』『共生社会』とは何かについて考える」とある。
    普段身近でないコミュニケーション手段であるため理解を深められるか心配だったが、この一文につられて読むことを決意した。

    「あの人たちが特別と思ったことはありません。あの人たちは他の人とまったく同じでした。そうだとしたら、この島ほど素晴らしい場所は、他になかったんじゃないでしょうか」

    ヴィンヤード島は映画『ジョーズ』のロケ地や元大統領のクリントン氏やオバマ氏の避暑地として知られている。しかしそれ以前の島は避暑地以上に人々(主に学者)から注目を受けていた。
    聾者と社会の壁が撤廃された、珍しくも理想的なコミュニティだったのである。

    1644年英ケント州ウィールド地方より最初の定住者65名が上陸した際は、いずれも聾遺伝子保持者でなかった。(そこまで分かっているのがまず凄い!!) しかし近親婚が何世代も続いたことで、聾遺伝子も現れやすくなる。中には4人に1人が聾者である地区も存在し、島内では健聴者も手話を交わしていた。
    聾の子供の誕生は人々の間ではさしたる問題ではなく、何故島内で聾者が多いのか考えにも及ばなかったという。

    回想エピソードを聞く限り、聾者・健聴者ともに非常に生き生きと暮らしている。
    健聴者の中には言葉よりも先に手話を覚える者もいたようで、幼い頃から聾者との共生はごく自然なものだった。(健聴者同士が無意識に手話で話していた、なんてことも…!)
    聞かれたくない話を手話で済ませたり、聾者自身も「聞きたくないことを聞かないで済む」と生まれ持った性質をプラスに捉えていて、微笑ましさすら感じ取れる。

    中でもトランプ競技会の話が個人的に好き。
    2人1組の2チームに分かれて競うゲームで、一方のチームが互いの手札を手話で教え合い、結果そのチームが大優勝。ゲームになると、なかなか参加の余地が難しいと思い込んでいた自分が情けなくもなった。
    現代の我々が手話を特別視しているのを彼らが目にしたら、きっと不思議がることだろう。(実際島からボストンに出た島民が、人々が手話についてメディアなどで取り沙汰するのを不審がっていたそうな)

    健聴者が合わせるというよりも、一言語として島に定着していたのか…!(島外からの移住者が増え、現在は手話を使える・使っている人が島には残っていない)
    島の生活を実現していくのは至難の業に違いないけど、自分の中の特別視フィルターくらいはそろそろ取っ払っていこう。

  • 【感想】
    本書の舞台であるマーサズ・ヴィンヤード島は、映画「ジョーズ」のロケ地に使われた避暑地だ。この島の中のチルマークという村は、1900年代の初頭には250人程度の人口だったが、確認できるだけでも10人が聾者だったという。
    この異様に高い聾者の比率によって、島のコミュニケーション手段は、常識では考えられないような発展を遂げた。健聴者が全員手話を使え、常に口語と手話が入り乱れるコミュニティが形成されたのだ。

    本書では「みんなが普通に手話で会話していた」というエピソードの数々が語られるのだが、われわれ健聴者社会に暮らす者にとっては驚きの内容ばかりである。
    まず、島の人はそもそも「誰が聾だったか」の記憶が怪しい。手話が日常に溶け込み過ぎて、聾者のための特別な配慮などなかったからだ。また、学校での勉強、日用品の取引、馬の売買交渉といった複雑なことも、聾者は手話で行っていた。人々が集まれば最低一人は聾者がいたため、みんな手ぶりを交えて話していた。中には、10人ほど集まっても物音ひとつ立てずにしんとしていたことがあったという。全員が手話で話していたからだ。
    これは子どものコミュニティでも同様で、大抵の子どもは小さいうちから、聾者の大人や友達と意思疎通するために、自然と手話を身に着けてしまう。中には、口語の修得より手話のほうが早かった健聴者の子どももいたそうだ。健聴者の子どもたちが、学校や教会などの静かにしなければならない場所で、先生に怒られないよう手話でぺちゃくちゃ(?)おしゃべりをしていたというのだから、その凄さが分かるだろう。

    そうしたエピソードを読み進めていくと、「ハンディキャップ」という概念は「身体的な障害」ではなく「社会的な障害」である、というのがありありと実感できる。ヴィンヤード島では聾はハンディキャップではなく、背が高かったり目が青かったりといった「身体的特徴」の一つにすぎなかった。聾者は当然「普通の人」と同じように扱われ、婚姻率も経済的成功率も健聴者となんら変わらない。

    近年、障害にまつわる言葉を置き換える動きがさかんになっている。「色盲」であれば、「色覚に特徴のある人」というように、彼らの状態を「特性」として言い換えることだ。一般的な社会に住む私たちは、聾というものをかなり重い障害だと見ているし、配慮しなければならないと教えられている。しかしそうした「思いやり」こそが彼らを生きづらくしている。状況を悪化させているのはむしろ、「私たちが聾者の人とコミュニケーションを取ろうとしない」ことにあるのだ。彼らと身近な距離で接して親密な関係を築けば、「障害」は「特性」となって社会に吸収されていく。
    それが自然と形成されていたのが、ヴィンヤード島というコミュニティだったのだ。

    ――「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」

    ―――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    1 みんなが手話で話した島
    本書はマーサズ・ヴィンヤード島、特にそのタウン(ニューイングランド地方の集落)であるウェスト・ティズベリーとチルマークに焦点を当てている。ここでは200年以上にわたり、遺伝性の聾が高い発生率を示した。孤立した島という閉鎖的環境で、近親交配による遺伝が繰り返された結果、先天性の聾者の比率は155:1だった。これは、アメリカ人全体で5728:1であることを考えれば相当に高い数字である。
    住民は効率的な手話を発明あるいは借用することにより、この状況に適応した。健聴者も聾者も、ほぼみんなが手話を使っていた。ヴィンヤード島の人々は聾を障害とみなしていなかった。
    20世紀になって島の外から新しい住民が入ってくると、ヴィンヤード島における遺伝性聾の発生率は低下し、1950年代の初めに最後の聾者が亡くなると、ついにはゼロになった。しかしこのことは、そのような恩恵と同時に、小さな共同体の破壊ももたらした。こうした支援ネットワークとしての小さな共同体は、悲しむべきことに、現代の産業化された世界では失われつつある。

    ヴィンヤード島に住む80代の女性はこう言う。「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」


    2 聾への適応
    同じハンディキャップを負った本土の聾者と違い、ヴィンヤード島の聾者は共同体のあらゆる仕事や遊びに加わった。結婚相手は健聴者からでも聾者からでも自由に選ぶことができた。納税記録によると、島の聾者は総じて平均かそれ以上の収入をあげており(何人かは裕福だった)、教会活動にも熱心にかかわっていた。この状況は1960年代に最初の聾者がティズベリーに定住したときから3世紀以上にわたって続いている。

    聾者が多くいるという状況に対して島民たちがどう応じたかといえば、聞こえないということをあっさり受け容れてしまったのである。

    ・つんぼだなんて気づきませんよ。あの辺りの住民はもう慣れていて、なんとも思っていなかったのです。
    ・それが当たり前でした。目の色が茶色か青かの違いと同じです。まあ、そこまではいかなくても足を引きずっているとか、手首がちょっとおかしいとか、そういうのと変わりません。
    ・あの人たちは他の人と同じでした。とくに気遣うこともありませんでした。そんなことをすると、かえって気を悪くするので、同じように扱っていました。
    以上は島に住んでいた健聴者の証言だ。よそから来た者がこの問題に関心を持つことに彼らは心底とまどったようだった。

    島の住人は自然に英語と手話の二言語を併用していた。
    島民は子供時代に手話を習得している。健聴の子供や聾の子供の手話習得法をたずねると、どのインフォーマントも、子供は英語を覚えるときと同じように、成長とともに自然に手話を覚えてしまうと答えた。家の中で聾者とくらしていると、「見よう見まねで手話を覚えてしまう」のだという。たとえば聾者を母に持つある女性はこんなふうにいう。
    「深く考えたことはないのです。自然に身についてしまいましたから」

    幼児期に手話と出会った聾の子供は、少なくとも健聴の子供が言葉を使い始めるのと同じ時期に手話を使い始めるという。なかには、手話の習得が口話の習得より先行した事例さえ存在する。

    身内に聾者がいない健聴の子どもは、親と雑用で近くの家や店に出かけると、そこでごくふつうに用いられている手話を見て自然に身に着けた。遊び友達の聾の子と話すために欠かせなかったのだ。

    住民は語る。
    「手話はどうしても身につける必要がありました。みんなが手話を知っていました......。手話を知らないでは、ここでやっていけなかったのです」

    聾者と健聴者が混じって会話することは当たり前であり、そういったときは口語と手話のハイブリッド、ないしは完全手話が用いられていた。

    手話の必要がない健聴者同士でもよく手話が用いられていた。おおっぴらには口にできない内緒話、聞こえないぐらい遠くの人との会話など、手話のほうが便利だと思えば、聾唖のものもそうでないものも、手話を使うのだ。


    3 島の社会
    島の全家族のほぼ98パーセントが、歩いて往き来できる距離に最低一人は近親者を持っていた。この定住パターンは非常に安定していた。家族の個々の構成員が独立しても、拡大家族の形態と一群の家族がかたまってくらす区域は、世代から世代へとまた世紀から世紀へと変わらずに引き継がれていった。
    このきわめて安定した人口こそ、聾の子供がうまく適応できた主因だった。すでに襲を経験ずみの共同体では、新たに聾の子供が生まれても特別の関心や当惑の対象とならなかった。さらに手話が周知のものとなっていたおかげで、聾の子供はごく早い時期から接するすべての人と意思を通じ合わせることができた。

    ヴィンヤード島の聾者は教育水準も高かった。1817年にアメリカで最初の聾学校であるコネティカット聾唖院が設立され、ヴィンヤード島の住人は一人を除く全員がここに通っていた。州政府から助成金が支給されていたからだ。ヴィンヤード島の聾者の教育程度は、多くの場合、健聴の隣人のそれよりも高く、健聴者に勉強を教えた者もいたという。

    ヴィンヤード島では、聾者が結婚するのになんの妨げもなかった。適齢期の聾者の80%が結婚したが、これは島の健聴者の結婚率とほぼ同じである。19世紀のアメリカ全体の聾者の結婚率は45%であったことを考えれば、その高さがわかる。
    経済的成功については、極貧層から富裕層までまちまちで、大半の聾者は広い範囲の中産階級に属していた。アメリカの聾者の平均所得が、健聴者のそれと比べて男性で30%低く、女性で40%低いことから考えても、恵まれていたことがうかがえる。

    また、島で集まりがあったときは、「みんな」が集まった。島のくらしの他の面で聾者と健聴者を区別する者がいなかったように、社交でも聾者と健聴者を区別する者はいなかった。どのインフォーマントも、聾者だけが参加した社会活動を一つもあげられなかった。各種の聾者のクラブや活動が多くの者の触れ合いの中心となっている本土と違い、ヴィンヤード島では聾者も健聴者も一緒に島内の活動に加わっていた。それは単に島の健聴者が聾者を自分たちの中に迎え入れたというだけではなく、聾者の側でも健聴の家族や友人や隣人から離れて活動を始めようとはしなかったということでもあるらしい。島の者のあいだにはかなり親密な友情があったが、聾者としか付き合わない人や付き合いの範囲がほぼ聾者に限られる人はいなかった。

    この島のコミュニティでは、聞こえない人は生活のあらゆる面にとけ込んでいて、聞こえる人と同じように大人になり、社交し、仕事をし、結婚し、子どもを持ち、政治に参加し、法的な義務と権利を負っていた。聞こえない人の中には、資産家もいれば、生活にかつかつという人もいて、それは、聞こえる人とほとんど変わらなかったのだ。


    4 ハンディキャップなどない
    ヴィンヤード島で見られた聾に対する適応には二つの要因が不可欠だったようである。
    第一の要因は、聾をもたらす遺伝的性質が個人や孤立した家族によってではなく、入植者の一群によって伝えられたということである。こうした理由から、またその遺伝的性質が(潜性であったので)一見、住民の中に無差別に発生するように思われたため、聾はどの家族にあらわれてもおかしくないと見なされることになった。実際、ある時点では島の家族の大半が発生していたほどだった。聾がこれほど頻繁にあらわれていなければ、先天性の聾者が受け容れられるということはなかったかもしれない。
    もう一つの同じくらい重要な要因は、この共同体が遺伝的性質とともに大西洋の彼方からもたらされたと思われる手話を使っていたということである。聾という事実を受け容れ、耳の聞こえない人に好意と気遣いを示すだけでは聾者は日常生活にとけ込むことができな い。ヴィンヤード島で最初の聾者がたやすく住民の中に入っていけたのは、かなり洗練された手話体系がすでに存在していたからだと思われる。

    ヴィンヤード島の経験は、ハンディキャップという概念が気まぐれな社会的カテゴリーであることをはっきりと示している。共同体が障害者を受け容れる努力をおしまなければ、障害者はその共同体の正規の有益な構成員になれる。社会は万人に適応するため、多少であれ自ら変わらなければならないのだ。

    島の聾の男女について最も心に残る事実は、誰も聾をハンディキャップだと受け取らなかったという意味で、聾者は障害者ではなかったということである。あ 女性はこんなふうに話している。
    「あの人たちが特別と思ったことはありません。あの人たちは他の人とまったく同じでした。そうだとしたら、この島ほど素晴らしい場所は、他になかったんじゃないでしょうか」

  • 祝文庫化!

    THE MAGAZINE | 『みんなが手話で話した島』 ノーラ・E・グロース著 佐野正信 訳 (2008.11.1)
    http://www.thesalon.jp/themagazine/culture/post.html

    Nora Ellen Groce, Ph.D. | CIRA
    https://cira.yale.edu/people/nora-ellen-groce-phd

    みんなが手話で話した島 | 築地書館
    http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN4-8067-2220-0.html

    みんなが手話で話した島 | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン
    https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015250/

  • アメリカの有名な避暑地マーサズ・ヴィンヤード島。ネットで検索してみると、いかにも風光明媚な光景が広がっている。しかし、この島ではかつて統計上あり得ないほど多くの遺伝性聾者が暮らし、健聴者も含めて島民は日常的に手話で会話をしていたという。著者が島に入ったとき、すでに島の最後の遺伝性聾者が亡くなってからずいぶんと時間が経っていたが、少ないながらその時代の島での暮らしを知る人々がまだ存命であった。本書は医療人類学社会である著者がフィールドワークをし、島のオーラルヒストリーを収集した貴重かつユニークな書籍である。
     
    本書の前半は、マーサズ・ヴィンヤード島の歴史がひもとかれ、島に遺伝性聾者が出現した由来が検証される。それによると、島にヨーロッパ人が入植を開始したのは1644年。この移民の集団の中に、聾の潜在性遺伝保有者がいたと推測される。島は大陸との交通の便がよくなく、1710年に移住が終了して以降、島外生活者との定期的な接触や結婚は激減した。ただでさえ当時は、友人や配偶者は近場の人で決めるという時代である。結果、限られた地域で、近縁の者同士の婚姻・出産が繰り返され、遺伝性聾者が高率で出現することとなった。

    19世紀アメリカ全土の遺伝性聾の出現率は5,728対1。一方、マーサズ・ヴィンヤード島は155対1 で、地区によっては何と4人に1人が遺伝性聾だったという。この数字だけで、ヴィンヤード島の特異さがよくわかる。

    島民自身は聾がどうして現れるのかを理解していなかったという。遺伝性であることや自分たちの生活様式に理由があるとも夢にも思わず、耳が聞こえない人たちのことを普通に受け容れていた。アメリカの他の地域の聾者の数もこんなものだと思っていたのである。

    実際、島の聾者たちは、健聴者と何も変わらずに生活をしていた。言葉は不自由しない。何せ島民は皆、手話が使えるのだ。むしろ聞かれたくない話をする際には役に立っていた。
    彼らの教育レベルは島の健聴者のそれよりも高いほどだった。聾学校で健聴者の倍の期間学ぶことができたのである。
    島では、アメリカの健聴者と同じ8割の聾者が結婚をしていた。聾者同士の結婚は少なく、健聴者と聾者、聾者と健聴者のカップルが多かった。出生率も健聴者と変わらない。ちなみにアメリカ全土の聾者の婚姻率は45%に過ぎなかった。

    島の聾者は、聾者とだけしか付き合わないという人はおらず、聾者同士のコミュニティも形成していなかったという。また聾者の全国的な組織にも加わっていなかった。彼らは自身を異なる社会集団とみなしてなかったのである。

    しかし、そんな島の暮らしも20世紀に入り変化する。マスコミや避暑客が、聾に関する新しい態度を持ち込んだ。また、新たに島に定住する人たちも増えてきて、外部の血が入り、1920年代には聾者の数も減って、若者は手話を覚えようとはしなくなった。1950年代以後、遺伝性聾者は島に生まれていない。

    アメリカだけでなく、聾者は半人前と見なされ、ひどい偏見や抑圧を受けてきたという。それは現代にも尾を引いている。本書を読み、障害学を学んだことのある人間なら、おそらくすぐに「障害の社会モデル」という言葉が出てくるだろう。障害は病ではなく、社会環境が作り出しているとする考え方だ。マーサズ・ヴィンヤード島は、まさにそれを地でいく地域だった。著者が聾者についてのインタビューを行うまで、聞かれた相手は知人が聾者であったことを忘れていたケースがいくつもあったという。

    島の古老が語った「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」という言葉には感動すら覚える。

  • アメリカ、ボストンの南に位置するマーサズ・ヴィンヤード島。20世紀の初めまで遺伝性の聾者が多く住んでいたこの島では、健聴者、聾者にかかわらず住民の誰もが当たり前のように手話を使って話していた。
    文化医療人類学者の著者が、残された資料や聴き取りによる調査から当時の島での共生社会の実態を解明する。

    本書はまず島の歴史を紐解き、次にヴィンヤード島の遺伝性聾者の起源、聾者がどのように分布していったのか、島で聾者と健聴者がどのように共生し暮らしていたのか、他の地域と比較して島の聾者の生活はどうであったのか、などについて述べる。

    現在は富裕層の別荘地となり観光客でにぎわうヴィンヤード島であるが(映画『ジョーズ』の撮影地でもあるらしい)、かつては大陸からの交通の便が悪く、特にチルマーク、ティズベリー、といった島西部の奥にあるタウンは隣町との行き来もままならないほどだった。
    島には17世紀ごろイギリスのケント州ウィールド地方から多くの者が移住した。彼らが小さく孤立したタウン内で婚姻を繰り返した結果、世代を重ねるごとに住民のほとんどが姻戚関係になった。もともとウィールド地方も孤立した集落で、先祖を遡ると一つにつながるほどであったこと、その中に聾の劣性遺伝を持つ者が少なからずいたことから、島の特に西部においては聾者がたびたび誕生するようになったという。その割合は、19世紀のアメリカ人全体が5728分の1だったのに対し、ヴィンヤード島では155分の1という高さで、チルマークやティズベリーではさらにその割合が高くなる。

    これほどの割合で聾者がいると、生まれてから聾者と触れ合うことのない人はまずいない。そのため、タウンでは健聴者でも幼いころから手話を自然に覚えることになる。
    健聴者、聾者入り混じって井戸端会議をするし、女性に聞かせたくない内緒話をする時や静かにしないといけない時は発語から手話に切り替えた。また、遠くにいる者同士で意思疎通をしなければならないときは手話の方が便利だったそうだ。

    印象深いエピソードだったのが、健聴者の住民が島の聾者の仕事ぶりなどを熱心に話してくれたあと、聾者だったかどうかを聞かれるまでそれを意識していなかったことだ。それほどタウン内では聾者が自然に暮らしていたといえる。また、島の老婦人が聾者のことを「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした。」と述べたというエピソードにもはっとさせられる。彼らは異なる言語文化のもとにいるが、決してハンディキャップを負っているわけではないのだ。

    私自身、聾者とは「聴くことができないため、意思疎通に不便が生じる人で、不足している能力を他人やなんらかのツールによって補わなければいけない人」だと思っていたところがある。けれど本書で描かれる島での聾者の生活は健聴者と全く同じで、教育レベルも変わらない。アメリカの他の地域や日本の聾者が苦労しているのは、彼らの言語を理解しようとする健聴者が少ないことがあるのだろう。

    一定の地域にまとまった集団で存在しないとマイノリティとして苦労するのは移民でも同じであり、ヴィンヤード島は特殊な環境であることは間違いないのだが、環境さえ整えば聾者が何の不都合もなく自然に暮らせるということは、きちんと認識しておくべきことだと本書を読んで感じた。

  • 論文を読んでいるかのよう。ヴィンヤード島の話を聞いていると、そもそもハンディキャップとは?と言葉そのものについて考えさせられる。島では手話は聾者のものではなく、健聴者も手話を操り当たり前の会話の手段として用いられている。それは、生まれた時からその環境にいたから聴こえようが聴こえまいが話題にもならない。知らないから不便や差別が生まれるのだと改めて思った。

  • マーサズ・ヴィンヤード島
    島では聾の人たちも健聴者の人たちも、なんら分けられることく暮らしていた。
    職業も、収入も他の地域とも違い両者の差が無い。

    「障害」というものは、なんなんだろう。
    「五体満足で他の大勢と同じようなことができる」ことを社会が要請してしまう。
    更に、その中で「より上手に」「より多く」生産するものがより高いものを得る。
    そのような社会構造そのものが、「障害」という概念を生み出してしまう。
    大勢よりも何かが不便であったり、苦手だったりする人を「障害者」としてしまう。
    そういう視座を与えてくれた。

  • ちょっと前から気になっていた本が折りよく文庫化されたのですぐに入手。

    しばらく積読になっていたが、年末年始に「目で見ることばで話をさせて」(←同じマーサズ・ヴィンヤード島についての、この本に書かれた知見にも基づいたフィクション。YA)を読み終え、その勢いで読み始める。この本は原作者の執筆の上でも訳者の翻訳の上でも重要な参考資料だったというが、読み始めてみると「あの人物のモデルはグラハム・ベル博士だったのかも?」などと改めてわくわくしながらどんどん読める。

    17世紀から20世紀にかけての二百年余り遺伝性の聾の割合が高かったマーサズ・ヴィンヤード島の当時を知る老人に聞きとり調査をし、島の歴史に関するあらゆる記録から聞こえない人も聞こえる人もごく自然に手話を使っていた島の暮らしぶりを検証した労作。聾が障害にも特性にもならない共生社会はいかにして成り立っていたのか、学ぶこと考えさせられることが多い。そんな(ある意味)理想郷があまりにあっというまに失われてしまったということまで含め示唆的。

  • 聴覚障害の多い集団での手話と話者。
    コミュニケーション言語を交わすだけではないことを思い知らされる。
    ジェスチャーゲームの言語認知科学の流れと照らすとこういう話こそが本来の言語かも。

  • 369.2

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