- Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
- / ISBN・EAN: 9784152100542
作品紹介・あらすじ
テック企業が注意関心を貨幣のように取引する現代社会への最大の抵抗、それは「何もしないこと」だ。スタンフォードで教える現代アーティストが、哲学者、芸術家、活動家、そして野鳥たちの世界を自由に渡り歩く、「抵抗する人々」のためのフィールド・ガイド
感想・レビュー・書評
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我々の日常生活は、SNSやウェブサービスにおいてレコメンデーションや評価により記事の閲覧や行動を促す仕組みによって取り囲まれている。
筆者が「注意経済」(アテンション・エコノミー)と呼んでいるこれらの仕組みによって、我々は起きている間つねに様々な方向から入って来る情報の間を次々と飛び回ることを強いられている。
この注意経済がもたらす情報は、コンテクストを欠き、更にそれに即座に反応すること(「いいね」を押したりそこからさらに次の情報のリンクへと飛んだり)を求める。またこれらの情報は、我々の注意を惹くために曖昧さを排除した形に加工されており、もともとの情報が持っていた豊かなコンテクストや多義性を許容する余白が消されている。
このような注意経済の浸透によって我々から失われるものは、何かにじっと耳を傾け、それによって受け止めた情報をもとに熟考し、より深いコミュニケーションを取る力である。
筆者は、このような注意経済の影響から我々自身を守るために、「何もしない」という姿勢の大切さを訴えている。
「何もしない」というのは、いわゆるデジタル・デトックスやマインドフルネスなどによって、「一旦リセットする」ということではない。また、テクノロジーの拒否や情報の拒否(隠遁)でもない。
それは「距離を取る」という戦略であると筆者は述べている。市中にありながら社会の価値観に組み込まれることを拒否する生き方を貫いたギリシアの哲学者ディオゲネスや、メルヴィルの小説に登場する「それはしない方がよいのです」という単純な言葉で上司の指示を拒絶し続けたバートルビーの例を挙げながら、筆者は社会のただ中にありながら注意経済の仕組みに組み込まれない、意志の姿勢を説明している。
このような姿勢は、個人がより深く考えることを可能にするだけでなく、周囲の人びととのより多様で多義的なコミュニケーションを通じて、より豊かな社会を築くことも可能にする。
そして、このような多義的なコミュニケーションが生む「余白」のある社会は、社会制度や注意経済によって固定化された価値によって弱い立場に追いやられた人たちを救う可能性を持っている。
例えば、黒人解放運動の多くは、当時の社会のルールとされてきた白人優位の制度に対する不服従を行動で示す人たちと、その「違和感」を感じ取りそれについて考えることを始めた周囲の人たちによって支えられていた。
このような形での人々の連携は、注意経済によって与えられた情報を処理しているだけの人間同士の間では生まれない。筆者は、このような連帯を生むためにも、我々は注意経済によって情報を与えられるだけの存在になってはいけないと考えている。
筆者はまた、このようなコンテクストを持った情報をやり取りする関係性は、空間的に近接した形でのコミュニケーションから生まれることが多いとも述べている。そのような具体例として、自宅、占拠した場所、教会、バー、カフェでの対面の集会などが挙げられている。
そして、中でも「公園」という空間を、非常に大切なものとして挙げている。公園は、何かをすることを求められる場ではなく、ただ時間を過ごし、周囲のさまざまな動きや音に目や耳を傾けるということができる空間である。また、経済力や政治的な立場などに関わらず、多くの人びとに解放された空間である。
このような空間でこそ、注意経済から距離を置き、我々の思考の基盤となる力を取り戻すことができ、公園は我々が何もまして優先的に守っていかなければいけない公共空間であると筆者は述べている点は印象的であった。
情報に追われるのではなく、情報を拒絶するのでもなく、情報空間の中にありながらそこから「距離を取る」という筆者のスタンスは、非常に斬新なものに思えた。
また、そのためにも境界が不確かで多義的な情報を受け止め、それを深く考えながらコミュニケーションをしていくことで、新たな共生の空間が生まれるということも、とても大切なことであると感じた。そのような関係性を通じて、より多様で包摂的な社会が形成されてくるのではないかと思う。 -
ファック・ザ・アテンションエコノミー!!
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FacebookやTwitterをはじめとするSNSの台頭で、時間は経済的な価値を生み、著者が主張する「注意経済」の中で我々は生きている。日常生活で洪水のような情報量に触れ、断片的に物事や他人を判断し、結果的に社会の分断を生み出していると著者は警報を鳴らす。
Amazonでは購入履歴から欲しいものリストがレコメンドされ、Netflixでもオススメコンテンツが並ぶように、身の回りの選択がすべて予測可能になってきた。しかし、著者が言うように、自分の望むものは全てサービス提供側が把握しているのは大変便利だが、自分の選択肢の外側を知らずに生きていくことと同じだ。そうして、完全に予測可能な世界で生きていくことが、楽しい人生と言えるのだろうか、と本書を読んで考えされた。
SNSのタイムラインに慣れ過ぎて、瞬時に情報を手に入る一方で、アイコンの向こう側の人も断片的に理解してしまう。当たり前だが、どんな人もタイミングや状況によって、考えや発言は変わるはずなのに、SNSではスナップショットのように投稿を見てしまうので、その一瞬の投稿がその人の全てに思えてしまう。
こうした、予測可能性、瞬時の情報提供といった注意経済から反抗するためにも、あえてゆっくりと時間を過ごすことが大事だと思った -
OPACへのリンク:https://op.lib.kobe-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/2002294719【推薦コメント:ストレスを感じて何もしたくなくなる日に、この本を読むことで、自分の力をだんだん取り戻すことができるかもしれません。】
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アテンションエコノミーに踊らされている時代で、そこから距離をおくということについては大いに賛成である。ただ本書に出てくる内容はあっちに行ったりこっちに行ったりで、ひとつのメッセージのためにグダグダ回りくどいことを挙げていると感じられた。思想的には養老孟司氏と近いものを感じたが、養老氏の著書の方がずっと分かりやすい。
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本書は何もしないことによって、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えるのではなく、現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかることを主張する図書。そのため思索的な内容であり、何もしないでいよう…という社会への拒絶の図書ではない。そんな本も面白いけど…。
生産的と認識されているものばかりに注意を向けるのではなく、別のことに注意を向けることによって、自分の社会、世界への接点は変わり得る。
何が有用かどうかなんてわかるもんか、立場、状況、環境によって変わり、有用かどうかの評価は不能という視点は確かにそうだけど、働いていると忘れちゃう…。注意をそらして抵抗したい。 -
attention economy を脱し、必要な社会参画を行うために取り組むべきことについて、『くらしのなかのアナキズム』に続き読んだ。メモ程度にレビューしておく。
attention economy に抗う行動は無意味であることに触れたのち、個人的な関心の持ち方について詳しく述べている。言っていることはいいのだけど、あくまで個人が社会に参画するにあたっての方法・態度の指針を述べているだけなので、社会がどう受け入れ動くべきなのかは改めて考えなければならないだろう。本書で触れているものの、解説が不足していて追いかけられない(社会派には常識かもしれないし、ggrksといわれるかもしれないけれども、私は米国社会に生きていないし、ggrに頼っちゃ元も子もない…)。自然と触れることで得られた経験の描写も、残念ながら米国の景観を知らない私にとっては全く参考にならず、描写が多いのはむしろストレスにしかならなず妙に疲れた、そういう点では邦訳の価値が感じられない。この本は、一人で読んで考えるのではなく人と一緒に読むか、著作を紹介する形で著された活動の解説、日本での取り組みの紹介をまとめた方が意義が出ると思う。
特に、第6章と「おわりに」が全体の総括としてつながらなかった。疲れるので他にヒントがない限り読み直すことはないだろう、と思いながら読了。 -
( ..)φメモメモ
人間の価値が生産性で決まる世界に生きている。成果ばかりに価値を置くシステム内では芸術が危うくなるという事実。それは文化に関わることでもある。