新装版 サンダカン八番娼館 (文春文庫) (文春文庫 や 4-8)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (438ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167147082

作品紹介・あらすじ

"からゆきさん"-戦前の日本で十歳に満たない少女たちが海外に身を売られ、南方の娼館で働かされていた。そうした女性たちの過酷な生活と無惨な境涯を、天草で出会ったおサキさんから詳細に聞き取り綴った、底辺女性史の名著新装版。東南アジアに散った女性たちの足跡をたどるルポルタージュ『サンダカンの墓』も収録。

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀後半以降、元号で言えば明治時代後半から昭和初期にかけて「からゆきさん」と呼ばれる女性たちがいた。
    「からゆきさん」はWikiでは下記の通り、説明されている。
    【引用】
    からゆきさん(唐行きさん)は九州で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことを指す。
    女性たちは長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身者が多く、海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。
    【引用終わり】
    日本が欧米列強に対抗して、アジア各地に帝国主義的に進出しようとしていた時代のこと。日本人の進出する先々に、売春宿を設えようとする者たちがいた。そこで働く女性たちは、多くは貧農の若い女性で、人身売買的に海外に連れていかれた人たちであった。
    本書は、筆者の山崎朋子が「底辺女性」研究のテーマとして「からゆきさん」を取り上げ、調査を行った記録である。彼女は、からゆきさんを多く出した天草地方に出かけ、偶然に、おサキさんと呼ばれる、元からゆきさんと知り合う。そして貧しい彼女の家に泊まり込み、3週間寝食を共にする中で、彼女から、からゆきさんとしての経験を聞き、本書にまとめた。題名の「サンダカン八番娼館」は、おサキさんが実際に住んでいたことのある売春宿の名前。「サンダカン」はマレーシアの都市の名前である。

    ネタバレになるので、おサキさんの話の内容には触れないが、「想像を絶する」内容である。言葉を失う。
    もう1つ、本書で心を動かされたのは、筆者とおサキさんの心の触れ合いだ。もともと赤の他人であった2人であるが、一緒に暮らしているうちに、実の親子のように心を通い合わせることとなる。おサキさんの経験談は悲惨な内容であるが、2人の交流には救われた気持ちになる。

  • 1975年6月刊行の『サンダカン八番娼館』に、1977年6月刊行の『サンダカンの墓』を併録されたものです。

    『サンダカン八番娼館』は著者いわく「エリート女性史への強力なアンチテーゼ」として、「からゆきさん」と呼ばれた一群の海外売春婦への取材を試みたものです。取材は1968年、多くの「からゆきさん」が存在したとされる天草にて行われ、何のつてもなく現地に渡った著者は偶然から元「からゆきさん」であるおサキさんと出会います。

    本書の肝は、筆者がおサキさんの口調を再現した独白に近い形で振り返る、現マレーシア・カリマンタン島での海外売春婦としての生活を中心としたおサキさんの生涯が綴られた「おサキさんの話――ある海外売春婦の生涯――」の章にあります。そこではわずか10歳足らずの幼かったおサキさん自身が海外売春婦としての洋行を決断せざるを得なかった幼時の貧窮生活、サンダカンへの道程、娼館での生活と実態、娼婦たちから慈母と慕われた女親方・木下クニのこと、英国人の妾としての暮らし、帰国後の日々が語られます。

    本書が際立っているのは、息子からも敬遠され、ひとりで畳にムカデが巣食い水道も電気もないあばら家で、当時としても極端に貧窮した老後生活を送りながらも、自分の食物を削ってでも九匹の捨て猫に分け与える、おサキさんという一個人そのものにあるのかもしれません。そんなおサキさんの元に身分を偽りながら長期にわたって寝食をともにしつつ彼女から「からゆきさん」としての来歴を知るために理由を明かさずに住み込んだ著者を受け入れたおサキさんの人柄と、別れを前にした二人のやり取りは印象に残ります。

    中心となるおサキさんの回顧のほかには、彼女と関わりの深かった人々の出生地やその後を探る短い旅、そして『サンダカン八番娼館』の反響を受けて刊行された後半の『サンダカンの墓』では、女親方・木下クニがサンダカンに建てた墓地、シンガポールやマレーシアにおける元「からゆきさん」への調査・聞き取りなどによって構成されています。

  • からゆきさんという生き方があって、その記録・調査研究。
    すでに100年位前、大正・昭和初期頃までか。生きるためには自分の身体を売る必要があった女性達がいた。という。裕福になったであろう、現代の日本からは想像することは難しい。
    からゆきさんの生活を、3週間共に生活して、取材してまとめたものである。本書全体から感じられるのは、おサキさんのたくましさと、人柄の良さ。生活は貧困だが、人間としての底辺にはなっていない。
    研究論文として読めば、作者はなんと自分勝手なのだろうと感じてしまう。それが記録を作るためには必要なのだろう。調査は、戸籍等も調べているようで、今の情報保護とは随分違う。女性の視点から、生活者の立場からは、良い著作と思われる。もう証言を得ることは出来ないし、貴重である。
    日本を考える良い機会となった。

    • nico314さん
      昨日(戦国時代)、今日(大河ドラマ)と時代劇をTVで見ながら、この時代に自分が生きていたら、根性も我慢もきかず、才覚があるわけでもない私は何...
      昨日(戦国時代)、今日(大河ドラマ)と時代劇をTVで見ながら、この時代に自分が生きていたら、根性も我慢もきかず、才覚があるわけでもない私は何も生み出すことが出来ず、長生きもできなかったろう・・と思ったのでした。
      たぶん、昭和30年代あたりまでは、誰もが勉強を続けるということは難しかっただろうし、やはり女性は自由を謳歌するのも大変だったろうと思うのです。
      そう思うと、現代は何かと問題はありますが、歴史上最も平和で、学び選択する自由も保障されていると感じます。
      2013/04/07
  • 古典とも言うべき女性史の作品。
    ともみさんから紹介を受けて読んだ。
    そして本当に読んでよかったと思っている。

    本作品に描かれていることは、私たちがほぼ知らないからゆきさんの人生である。
    からゆきさんとは、戦中に外国へ赴き、売春をしていた女性のこと。
    彼女たちは主に貧困のため、外国で性を売ることとなった。

    この作品はおサキさんと言う一人のからゆきさんを中心としている。おサキさんは、10才でボルネオに渡り、13歳から売春をしてきた。今は地元の天草で暮らすが、村人も寄り付かないような極貧の中で、自分に会いに来ない息子から来る生活保護以下のお金で生活をしている。しかし彼女は、人間として大きく広い心を持っており、さりげなく著者の研究の手伝いをしてくれている…

    この作品の意義は大きく分けて2つある。
    1:著者は典型的なフィールドワークの手法を用いて研究を行っており、それ(多分)余すとこなく正確に記述している。盗みを働く場面もあり、道徳的な議論は避けられないが、学術的な功績は多大であり、今でも評価されるべきものであろう。
    さらに、この作品を読めば、著者が研究を進める上でどのような考えを持ち、フィールドワークを行ったか追体験できる。今後フィールドワークする人の参考になるだろう。

    2:著者の指摘通り、性的に搾取されていた側の女性達は、男性研究者に心を開くことは簡単ではないだろう。ゆえに、女性の研究者が研究を行うこと自体に大きな意味がある。
    おサキさんにこれほど近づくことができたのは著者が女性であったことがおおきい。
    そして、その結果として得られた情報はかなり詳細で弱者の論理構造を知り、搾取された人が搾取されるに至った経緯がわかる。
    さらに、戦争により生まれる男女の差違の大きさと弊害を知ることができる。

    私たちは男女平等参画の世に生きているから、なかなか女性性、男性性というジェンダーを感じることがない。
    しかし、本来的に女性と男性のジェンダーには大きな差異がある。
    現代の強引なfeminismの運動は、初めから差異がないかのような論調で、女性の権利を強調している気がする。(私はほぼジェンダー論を知らないので、間違っていたら申し訳ない。)
    しかし、本当に女性の権利を守るなら、差異を認めた上でどのようにすべきかを議論して行く必要があると思う。

    この本自体も、様々な議論があり批判も色々あるらしいが、そのような議論が巻き起こることこそ、この作品意義が大きいことの証明である。

    とても有意義な作品なのに、ブクログ上でかなり登録者が少ないのは、今の社会の薄さを表しているようで、なんとも言えない気持ちになる。
    この本は古いが、普遍的な問を私たちに投げ掛けている。

  • おさきさんという、からゆきさんのかたりの形式からはじまる。悲惨な人生を送った人々のお話だけれど、気丈な心の持ち主の生き方が一本芯があり惹かれた。マレーシアにもそんな日本人達のお墓がある。

  • すごい本読んでしまった。底辺女性史って、からゆきさんの名前だけ聞いたことがあった。家族だってからゆきさんは知ってたけど、まさか騙されて連れていかれた少女たちとは知らなかった。それ全然違うし騙されて連れていかれたんだよ、10歳とかで!って言ったら絶句していた。からゆきさんたちは哀しくてたくさん辛い思いをして、たくさんたくさん死んでいったけど、サンダカンで日本軍が原地の人にしたこととか、慰安所のことについても書いてあるこの本を知らないふりして恥ずかしくないのかって人の名前も書いてあった。知っているのになかったことにしているひと。これは読まないといけない本です。

  • 東南アジアの日本人社会史に関心を持ち、この本に辿り着きました。

    取材の方法や個人情報の扱い方、用語(「底辺」など)について、(現在の視点では)疑問を感じる点があることは否めませんが、著者の着眼や強い使命感、問題意識無しにこの貴重な記録が世に残されることは無かった。その点に最も感銘を受けました。

    理不尽に、非道な方法でカラユキさんにさせられてしまった方々の経緯と、その背景に富国強兵や構造的な貧困と言った国策や社会的問題があることを本書を通じて知り、国家や社会は、その構成員を一人ひとりを守ることが一番大切という当たり前の目線を再確認しました。

    人の幸不幸は、歳をとるに連れ、心の内面の高潔さや人との親密な繋がりによる部分が大きくなってゆきますが、主人公のおサキさんは、人生の最後の時期は幸せに過ごされたように思います。著者は、その交流を通じて、どの程度かはわかりませんが、それに貢献されたのではないでしょうか。

  • マレーシアのサンダカンでからゆきさんと呼ばれる慰安婦として春を鬻ぐ必要のあった女性、おサキさんからの生の声を中心にその実態をありありと描いた名著。貧しさと無知であることが、元凶といえばそうだが、そのような時代、環境の中で生きぬいたおサキさんをはじめとするからゆきさんの逞しさから学ぶことは多い。

  • 納得の大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

    実に重たい作品でした。しかし、これは非常に貴重な作品であると感じました。


    ・・・
    なぜ重たいか。

    もちろん、いわゆる「からゆきさん」、つまり売春という性の話を取り扱っているからというのが当座の答えになります。ただし、時代背景を含めて考えるとその苦しさや悲惨さは想像を越えて余りあります。

    今でこそ、性に関するトピックはややライトに語られることが増えてきたと感じますが、「からゆきさん」の向き合う現実は相当に厳しいもの。まず、多くのケースで父母によって自分が売りに出される。しかも初潮も来ないうちに、つまり性のイロハも分からないままに娼館に入り(表紙の写真を見てください)、初潮が来ると客を取らされ、多い日には30人も客を取らされたという。休みもなく、望まぬ妊娠をしても出産直前まで客を取らされる。これはもう、機械、ですよね。人間として扱ってもらえていません。

    しかも娼館は海外であり、抜け出す・逃げ出すのは困難。加えてこうした「からゆきさん」らはそもそもが厳しい貧困を抱える家庭の出であり、多くが学校にも通わせてもらえなかった文盲であったとのこと。文字も読めなければ計算もできない、とくれば、女郎屋(親方)には「お前には借金がまだ残っている」と簡単に騙されてしまいます。

    更にはこうした過去の経歴があだとなり、まともな結婚も望めず、結婚できたとしても体に不調を来して子を設けることも稀だった様子。自ら命を絶つ方も多かったようです。

    教科書的にぼんやりと知っているからゆきさんという存在でしたが、改めて詳細に読むと胸に迫るものがあります。もし自分の娘・妻がそのような状況であったら、と考えるとこれほど恐ろしいことはありません。

    また子を売る親の気持ちはいかばかりだったか、その思いを知りたくなります。胸が割けんばかりの苦しさだったのか、あるいは自分のことで精いっぱいだったのか。いずれにせよ、子を売らざるを得ない親、親から売りに出される子という状況は悲惨な状況です。

    ・・・
    加えて、この作品が実に貴重であると思料します。
    本作が当事者である「からゆきさん」からの聞き書きに基づいているからです。

    著者が繰り返し述べる通り、「からゆきさん」について言及する書物はそれまでの多くが第三者の紀行文的な見聞に類するもので、男性が書いたものです。しかし筆者は、当事者である女性陣から当時の話を聞き、どう感じた(感じている)かを文字に残すことで、本作をより資料的価値が高いものにしていると思います。

    聞き取りが行われたのは1960年代と今から既に60年ほど前の話。「からゆきさん」本人らも自らの恥部を語りたくはなかろうし、多くの「からゆきさん」を輩出してしまった天草・島原のコミュニティもそのような聞き取りは喜ばない(地域の恥としてみなされる)。その中をおしてこれだけの収集を成し遂げた点は驚嘆に値すると思います。

    後段「サンダカンの墓」では、筆者の足はシンガポール、マレーシアはクアラルンプール、イポー、カジャン、インドネシアはメダンにまで足をのばして聞き取りを行っています。

    こうした記録は時代に翻弄された女性たちの苦しみの声の、ほんの氷山の一角であろうかと思うと胸がいっぱいになります。

    ・・・
    男性女性に関わらず、人が自立して生きていくためには、考える力・知識をもつことが大切であろうかと思います。換言すれば教育です。その点で義務教育の果たす役割は大きいことを読後改めて実感しました。

    手紙が書けない、文字が読めないというのは、人とのコニュニケーションに著しく支障をきたすはずです。ましてや苦境から脱するとき、フィジカルな会話だけしかできない「からゆきさん」達は、抜け出す望みすら自ら捨ててしまった可能性もあろうかと思います。

    もちろん、文字を知っていても、計算ができても、それでもダークサイドに陥ってしまう人間は一定数いるのだと思います。しかし、本作を読み「からゆきさん」の状況を知るにつけ、幼少期の教育の機会を奪われたツケは非常に高くつくと感じました。現状を打破する力はさることながら、料理や洗濯、裁縫といった技術までも学ぶ機会がなく、長じて以降はそうしたことを学ぶ気すらなくしてしまうのです。

    その点でいえば、「からゆきさん」の話は、昔は悲惨な女性がいたんだという歴史や社会科の話というだけではなく、教育制度の議論や国の方向性の話にもつながってゆくものだと感じました。

    ・・・
    ということで、山崎朋子さんの渾身の一作でした。

    悲しいとか、悲惨だとか、可哀そうとか、そう語るそばから自分の言葉が陳腐になってしまう程の、語りの強さ・重さでありました。何と表現すればよいか分かりませんが、言葉を越えて、胸にずしんと来るものがありました。

    筆者本人もあとがきで「<学問>としては<文学的な色彩>が濃く、<文学>としては<研究的な傾向>の強い表現方法」と呼ぶ通り、たしかに筆者の気持ちが前面に出た書きぶりであったと思います。個人的には、筆者の意図や気持ち(悲惨な境遇にあった女性たちへの強いシンパシー)がより身近に感じられ、好ましく感じました。

    女性史に興味のある方、近現代史に関心のある方、長崎や「からゆきさん」に興味がある方、マレーシアやシンガポールにお仕事等で関係されている方、等々にはお勧めできると思います。

    機会があれば私もサンダカン(マレーシア)、イポー(マレーシア)、シンガポール等に行き、本作に出てきた史跡等を巡ってみたいと思います。

  • おサキさんすごい 松男も黙ってくれてすごい

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著者プロフィール

山崎 朋子(やまざき ともこ)
1932年1月7日 - 2018年10月31日
長崎県佐世保生まれの女性史研究家、ノンフィクション作家。広島県で育つが、1945年広島市への原子爆弾投下前に母親の郷里福井県に移り終戦。福井で小学校教員を勤め、1954年女優を目指し上京するが、結婚・離婚、そして怪我が元で断念。1959年、児童文化研究者・上笙一郎と結婚。
女性史の研究を始め、社会の底辺に生きる女性達の姿を記録し、日本での第一人者となる。夫との共著『日本の幼稚園』は1966年毎日出版文化賞受賞。九州地方の「からゆきさん」の聞き書き『サンダカン八番娼館』で1973年大宅壮一ノンフィクション賞受賞、熊井啓監督により映画化されベストセラーとなる。
2018年10月31日、糖尿病で逝去。

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