ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析 (文春文庫 う 19-10)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (249ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167801250

作品紹介・あらすじ

この本の目的は、(中略)「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンやフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること」にあります。『エイリアン』と「フェミニズム」、『大脱走』と「父殺し」、「ヒッチコック」と「ラカン」etc.ハリウッド娯楽大作に隠されたメッセージを読み解く、著者の初期代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 西部劇映画で知るアメリカの分断 | 内田 樹 | 昭和大学リカレントカレッジ
    https://recurrent.showa-u.ac.jp/course/detail/83/

    文春文庫『ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析』内田樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167801250

  •  物語が物語として成立するためには、どうしてもそれだけは書き込まないといけないいくつかの「仕掛け」というものは間違いなく存在します。
     例えば「よい人」というキャラクターは自立的には存在しません。
    「よい人」が出てくる話には必ず「悪い人」も出てきます。それは「悪い人」の「悪さ」と対立的に描くことでしか「よい人」の「よさ」という性格的特性を際立たせることができないからです。
     仮にあなたが「よい人ばかり出てくる物語」というのを書こうと望んでも、それは不可能です。「世界中の人はみんないい人なんだ」ということをあなたが心底確信していて、そのメッセージを伝えようとしてどれほど汗だくになって書いても、それが物語である限り、「いい人だけ」しか出てこない物語は書けません。「悪い人」が出てきて、悪さをしない限り、「よい人」が「よい」ということが読む方にはどうしたって分からないからです。
    「悪い人」が出てこない場合は、「よい人」の心にふと兆した「邪悪な思念」や「いかがわしい欲望」というかたちで、「悪い人格」が分離されます(倉本聰の『北の国から』には悪人がみごとに一人も出てきませんが、その代わりに、人間の無垢さや脆弱さのうちに巣食う本能的な邪悪さは、非情なまでに描かれています)。
     同じように、あなたがジャーナリストであって、まったく価値中立的なしかたで、ある「国際紛争」を報道しようと望んでもそれは不可能です。
     例えば「パレスチナ」問題を報道するとき、どこかに「被害者」を、どこかに「加害者」を配すること抜きに、この問題を報道することはできません。
    「いや、パレスチナ人もイスラエル人も、どちらも被害者なのだ」というようなことを言う人がいるかも知れません。でも、被害者だけしかいない国際紛争というものを報道しようとして、読者が納得すると思いますか?
     そういう場合は、結局、「イギリス植民地主義の二枚舌外交」とか「アメリカ政府内のイスラエル・ロビー」とか、「国際社会の無関心」などに「加害者」の役割が押し付けられることになります。誰に「悪役」を振るのかが違うだけで、物語の枠組みには変化がありません。

     ウラジミール・プロップという学者は『昔話の形態学』という研究で、ロシアの民話を収集して、そのすべてについて構造分析を施したことがあります。その結果、登場人物のキャラクターは最大で七種類、物語の構成要素は最大で三十一という結論を得ました。
    「家族の誰かが行方不明になる」「主人公はその探索を命じられる」「贈与者が呪具を与える」「呪具を利用して移動する」「悪者と戦う」「主人公の偽物が現れる」……などなどです。
     これはロシアの民話の構造分析ですが、いまどきの子どもたちがやっているダンジョンズ&ドラゴンズ系のRPG(お城の地下でドラゴンを退治してお姫様を奪還する」の物語設定は今でもプロップが採集した民話とほとんど同一の構造を保っています。
     いささか興醒めなのですが、実は私たちが「面白い」と思ってどきどきするストーリーラインというのは、たいていの場合、昔からあるいくつかの「必勝」パターンをなぞっているにすぎないのです。ですから、物語の構造分析というのは、無数の物語が実は有限数の物語構造を反復しているにすぎないということ、ロラン・バルトの言葉を借りて言えば、「私たちの精神の本質的な貧しさ」をあらわにする作業でもあります。
     でも私たちはここから出発する他ありません。
     あらゆる物語には構造があり、その構造の数は限られています。それを使ってしか私たちは思考することができません。
     別にだからといって悲観的になる必要はありません。私たちは現にその有限の構造を組み合わせて無限の物語を作りだしているわけですから。

     人間は自分が他人を出し抜いて、ただ一人状況全体を俯瞰していると思い込んだときに、ある種の致命的な無知に罹患します。無知というのは「知りたくない」という欲望の効果です。
    「他人を出し抜いたと思い込んでいる人間」がいちばん知りたくないことは何でしょう。
    「自分だけがすべての事情を知っている」という現状認識が、実は自分の思い込みに過ぎないという疑念でしょうか。
     違います。他人を騙す程度に悪知恵の働く人間なら、主観的願望が情勢判断に紛れ込むことのリスクを勘定に入れるくらいの知性はあります。
     他人を騙す人間がいちばん知りたくないこと、それは、自分が他人を騙していることを「当の本人は知っている」ということです。
     無知は「自分は知っている」という思い上がりのことではありません。「『自分が無知である』ということを他人は知っている」ということを知りたくない、という欲望の効果なのです。
     ですから「自分は他人より賢明である」と思いたがっている人間はもっとも簡単にこの欲望の虜囚になります。

     では「お金を払ってでも読みたい映画評」とはどんなものでしょうか。僕は条件は二つに絞られると思います。
     一つは「この人以外誰もそんなことを言わないことを書く」ということ。もう一つは「まとめて読みたくなるもの」を書くこと。この両方が必要です。どれほどユニークな映画論でも「続けてまとめ読みしたい」と思っていただかないと、単行本は買っていただけない。どうしたって、読み出したら止まらない「文の勢い」というものが必要です。「これまで読んだことのないような奇妙な話」であり、かつ、「読み始めると読み止めることができない」というこの二つの条件をクリアーせねばならない。
     ずいぶんむずかしい条件です。でも、技術的には可能だと僕は思います。どういう技術が必要なのか。ちょっとその話をしていいですか。
     僕は長く武道を稽古してるので、経験的にわかるのですが、人間というのは「何をしているのか、よくわからない動き」に対しては、センサーの感度を上げて対応します。「センサーの感度が上がった状態」というのは、やや呼吸が短くなり、筋肉が少し緩んで微かに振動し、五感が敏感になって、どのような感覚入力にもすぐに対応できる臨機応変モード、ゆらゆらと揺らぐような未決状態を選択するのです。
     ものを書くときの骨法は、この「ゆらぎ」の状態に読者を導き入れるということです。心身のセンサーの感度を上げて、あらゆる「予想外の展開」に備えている状態の読者こそ、望みうる最良の読者だからです。
     

  • 映画が、見たくなりました。(実際借りてきました)
    分かんない言葉は調べつつ読みました。
    (なんとか解ったかもしれません)
    自分が普段ほとんどしないことをしたくなった、
    という意味でとても面白い本でした。

  • 全体を通して内田樹氏の映画に関する豊富な知識に感嘆するのみ。しかし、彼の意見に過ぎないような理論が散見されているようにも感じた。とはいえ、ハリウッド映画に通じた米国の女性嫌悪文化など、映画というレンズを介して見る現代社会の思想はとても興味深かった。

  • 解説:鈴木晶

  • "映画を構造的に分析、哲学的な解釈をしているのが本書。難しい部分もあるが、ものの捉え方にはいろいろあることが学べる。アメリカ映画の女性嫌いな視点、トラウマをどうやって言語化して形あるものとして、見つめていくか?などをマイケル・ダグラスの映画や「ゴーストバスターズ」から語ってくれる。
    映画作りを目指す人、物語を作りだす人などは、自然と意識せずに構造を構築しているのかもしれない。
    素晴らしい映画とそうでない映画の違いも比較している。"

  • 2011(底本2003)年刊。著者は神戸女学院大学名誉教授。精神分析の手法による映画の構造分析の書。素材は「エイリアン」「大脱走」「北北西に進路をとれ」等。◆著者の指摘のとおり、映画に限らず文芸作品は読み手の既有の知識・経験に従って、夫々の解釈が可能な媒体である。かかる多義的解釈が可能だからこそ面白い。本書はそういう楽しみの一面を見せてくれた感。確かに、解釈者の解釈内容への疑義は生まれるかもしれないが、それ自体が作品の重層化に寄与。まぁこういう読み方(解釈)もできるよ、という程度に読むと楽しいかも。

  • 新書文庫

  • 映画の構造分析

    内田樹13作目
    映画について話す前に、人は物語を作る動物であるということを述べる。あらゆることは物語として語られる。ニュースも物語であり、知るということも自分が納得できるような物語を作ることともいえる。
    知るということは今まで今がわからなかったことの意味が分かるということであり、意味が分かるということは、断片的なものがある物語の文脈に収まったということである。物語抜きの知は存在しないのである。
    そして、人間が作る物語には一定の構造がある。例えば、良い人を語るには悪い人(心のささやき)を語らなければならないということは構造的に不可避である。よって、人は限られた構造の中でしか思考することができないということである。
    映画についてバルトのテクスト論を援用すると、映画とは唯一の意味を発する語の連鎖ではなく、多次元的な無数の文化の発信地からなる引用の織物なのである。つまり、映画とは監督が解釈の正解を持っている固定化されたものではなく、観客の様々な解釈の中で生成されていく活動的なものなのである。解釈という作業の中で、作中で提示される意味は重要である。意味には二種類あり、「明確な意味」と「不明確な意味」がある。「明確な意味」は解釈可能性が低く、監督によって提示される解釈と観客による解釈が一致しやすいもの。「不明確な意味」は解釈可能性が無数にあるとともに、解釈可能性がない。どうも腑に落ちない意味である。文脈から明らかに孤立した意味にたいして、観客はうまく解釈することができないものである。バルトは、この「不明確な意味」の中に、一種の開放性と生産性を見出した。それはエンドマークに向かって直線的に収斂していく中央集権的、中枢的、予定調和的な物語の進行に混ざりこみ、それを挫折させようとする脱―中心的、非中枢的なものである。そして、バルトはむしろこの脱中心的なものに対して映画の本質を見出した。ヒッチコックのマクガフィンというものはそれに近い。マクガフィンとは、映画の中で、それが存在すること、それがなんであるかという同定を忌避することで物語の中枢を占め、物語を支配しているものである。マクガフィンは物語の中心ですべての登場人物を強力にコントロールする種は威力を持ちながら、それがなんであるかはわからない、むしろわかることに意味はないという機能する無意味なのである。まさしく「桐島、部活やめるってよ」の桐島はマクガフィンの典型であり、桐島は登場人物を支配しながら、最後まで姿を現さない中心的な無意味なのである。

    上記のことが印象に残った。

  • 「まえがき」によると、本書はハリウッド映画の解釈を通して、バルトやラカン、フーコーの現代フランス思想を解説した本ということですが、個人的には、精神分析的な観点からの映画の解釈として捉えています。

    これまでに読んだ著者の他の著作のなかで語られていた話題とかさなるものも多かったのですが、とくに退屈だとは感じませんでした。むしろ、著者の分析の鋭さの秘訣は、分析道具の豊富さによるのではなく、どちらかといえばすくない道具を自在にあやつるところにあるということに気づかせてくれたという意味で、おもしろく読めました。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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