機動戦士ガンダム 1: SF (ソノラマ文庫 82-A)

著者 :
  • 朝日ソノラマ
3.63
  • (2)
  • (2)
  • (3)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 32
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784257761440

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • TVアニメ版で監督を務めた富野喜幸氏の小説版ガンダムを40年ぶりに再読。
    アニメ版よりミリタリー色が強い。個々のキャクラターの性格付けや経歴も異なっている。あとアニメでは有名なギレン・ザビのガルマ追悼演説が、一部省かれている。それに対し、連邦軍のレビル将軍の「ジオンに兵なし」の演説。これが全文載っているのだ。これもかなりの名演説だと思う。

  • ■(無印 実質Ⅰ)
    本書の表紙を飾る著者名には富野喜幸とある。
    現在は富野由悠季として知られるテレビ・アニメーション監督であるが、1982年頃まではこの名前で活動していたと聞く。
    が、本記事においては、大いなる尊敬と一片の侮蔑を込めて御大と呼び習わしたい。
    一片の侮蔑というのは、決して悪しき意味にとどまらぬ。
    歴史に名を刻んだ偉人を思うとき、凡人には、彼我の差を埋めたいと願うのは、人の認識の常である。
    まして中年に至って、所謂ところの富野節に惹かれる者の、羞恥心を誤魔化すための、あえて持ち出した侮蔑という表現であり、御大という呼び方であり、文体の猿真似であると、本記事の読者諸兄には思われたい。
    そう、この文体については憶えがある。
    御大よりも先に、映画にとどまらずノベライズに手を伸ばすほど愛好した映画監督、黒沢清の小説「キュア」「回路」を読んだ際、評論も手掛ける該監督の、文筆業における「講談調」がここまで小説にそぐわないものであろうかと驚嘆したものであるが、映像作家が小説を書くとかくのごとくになるのは世の常であろうか。
    答えは否、である。
    例えば岩井俊二もまた、主に実写を手掛けるとはいえ、アニメーションにも近似する製作体制を採ることで、夙に知られている。
    岩井は実写を製作するに際して、絵コンテを用意することでも有名である。(同年代の庵野秀明や、少し年上の押井守と関連づけた作家性を探求さるべき監督である)
    この岩井が書いた「ラヴレター」「スワロウテイル」「ウォーレスの人魚」は、映画製作資金を募るプロデューサー陣を説得するためにものした成果物であると、あとがきにて読んだことがあるが、前述したところの「講談調」ではなく、小説として自立していた。
    に対し、御大や黒沢の小説は、事前に映像があってメディアミックスをした結果に過ぎぬ。
    著作の質を決定するのは、やはり文体、であろう。
    世の小説家が、唯一無二性やら作家性やらと言われようとも、作者本人が出しゃばらない自制心を以て文体を築き上げるのが最低限の所業であることを、逆説的に占める好例であるとも、言える。
    御大は伝説によれば、フリーのコンテ千本切りと呼ばれていた時期が、ある。
    コンテを描くことで稼いだ金銭で、赤いスポーツ・カーを購い、虫プロに乗りつけていたとも聞く。
    それが後に「赤い彗星」と自らを自嘲気味に戯画化する契機になったともいうが、それはまた別のお話である。
    アニメーションの絵コンテは有名作品に限り出版・販売されているが、一般の視聴者にはなかなか見る機会の得られない、また見たところで理解の及ばぬ専門用語が散見される、リテラシーの求められる著作物であることは論を俟たない。
    宮崎駿愛好者だからといって徳間書店の絵コンテ集を読み込むほどの物好きにまでは至らぬのが、世の消費者的マニアに過ぎぬ。
    その意味での消費者たる者の理解として、絵コンテの中でこそ許される文体、というものが、あろう。
    たとえば、ビームが発射された際には、ズキューン!
    あるいは実弾が着弾した際には、ババウ!
    など、絵ありきの音声表現がある。
    駿の逸った手癖にて、かくのごときSEを絵コンテに見た覚えが、確かにある。
    が、それを小説にそのまま移行したら……?
    稚拙な表現になるのは、最早自明の理である。
    本書はその轍を悪しき意味で踏んだ、未熟な文体で成り立つ小説作品であると、断じざるをえない。
    が、遅れてきたガンダム者としては、十全に、稚拙な文体と、同時に展開される、知性に裏打ちされた記述に、酔いしれたいものである。
    思えば御大は、漫画家、小説家といった著述家に憧れた挙句に、謂わば夢破れた形でアニメーション業界に参入した、異端児である。
    その異端児が当初の志望を全うすべく成した、肩肘張った著作であると思えば、この文体もまた愛おしむ材料になろう。
    あるいはこのⅠ巻が発表された段階で、3部作がすべて刊行される見込みは、立っていなかったのかもしれぬ。
    実際、原作たるアニメーションの、実に終盤たるララァとの対戦まで、1巻の終盤において描かれるのだから。
    果たしてこの違いが続刊以降、どう拡がっていくのか!?
    見所である。
    少なくとも小説化は小器用な他人に任せてもよし、としないだけの、御大ご自身の著作物への熱意を、享受しないという選択肢は、最早あるまい。



    005p ラルフ中尉、うぶ毛まである義手でビンタ。(ヤダミ)
    029p 何の布だろう? あれは腸だったのか……長いものなのだ。ちぎれもせずに伸びる事がある……。
    033p ドラム缶ほどの空薬莢。(この描写は小説においても大事)
    034p 靴がすべる。焼死体の背中の皮を一枚剥いだのだった。(本来書かずもがな、なグロ描写。)
    051p セイラにとって、軍を真似た体罰が徴用生たちにも加えられる事は許せなかった。体罰に事をよせたスパンキング愛好会の仲間入りのお誘いがかかったりするからだ。(SM好き富野)
    074p フラウ・ボウ、少しばかり内臓がとびだした人をみても平気。
    084p モビルスーツに蹴とばされたモビルスーツは、シャアのザクが初めてだろう。(実に絵的)
    107p ガルマ「君は、僕の参謀になる男だ。むざと死ぬなよ」(この言葉遣い)
    108p やや低音(アルト)だが艶のある声とその……要するに、アムロは、マチルダ・アジャンに一目惚れをした。(筆が走った感じ)
    130p フラウ「あてにしてていい?」→ああ、これは恋なのだ。(正面から青春小説!?)
    143p シャア「ニュータイプの性能というのは、処女か非処女かで異なるのかな?」(実にキモい作者)
    169p マ・クベ「奴は、男めかけだ。いい尻をしている」
    172p リュウ「痛くなくって、気持ちいいってよォ!」(ミライのビンタ)
    215p 人と、しかも女性との同体の官能があった、という実感はすでに性欲であろう。(実にキモい作者)
    242p シャア「アルテイシアに軍は似合わぬ。女は、いい女になればいいことだ。私は、今、ララァ・スンに心を奪われている」(とうとつ!)

  • 既読本

  • 昭和54年刊行。

     ”あなたがいるなんて、あたしは知らなかった!”
     それらは明瞭な思惟としてアムロの認識域の中に浸透してくる。言葉として交わされたわけではない。思惟が交わされてゆくにつれて意識外の認識が複合してゆく。断片的な言葉の積み重ねに見える交感が、他者の思惟を読み込んでいく……、”そうか!”ニュータイプはあり得るのだ。
     思惟の伝達の判り合いの中に、数百数千、数百万の認識が重なり合いつつ人類が偏見のない叡智を摑むことができるかも知れないのだ。

     テキサス・コロニーでの激闘の末、混濁する意識の中でアムロを何を思うのか?


     いわずと知れた機動戦士ガンダムの総監督の手による原作小説(というよりもノベライズ版)。3巻中1巻。

     原作といっても、キャラクターは重複するものの、ストーリーはかなり違う。
     ことに、少年アムロの成長物語の核を構成する要素として、ランバ・ラルとハモン夫妻との関わりを抜きにして語れないが、このノベライズ版ではそういう要素は乏しい。

全4件中 1 - 4件を表示

富野喜幸の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×