- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784272331031
感想・レビュー・書評
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差別はよくない、なんて当然のようだけど、本当にわかっているの?
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韓国の実態は日本と似ている。
パラサイトもそんな映画だった -
原題 :『선량한 차별주의자』(善良な差別主義者)
“自分には何の不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障壁(バリア)になる瞬間、私たちは自分が享受する特権を発見する。”(p.31)
“冗談に対して笑わない人たちがあらわれたとき、そのユーモアは消えていく。だれかを差別し嘲笑するような冗談に笑わないだけでも、「その行動は許されない」というメッセージを送れる。”(p.105)
“差別に敏感にも鈍感にもなりうる自分の位置を自覚し、慣れ親しんだ発言や行動、制度がときに差別になるかもしれないという認識をもって世の中を眺めることができるだろうか。自分の目には見えなかった差別をだれかに指摘されたとき、防御のために否定するのではなく、謙虚な姿勢で相手の話に耳をかたむけ、自己を省みることができるだろうか。”(p.201) -
世の中には差別が溢れている。見えない差別も溢れている。無自覚の差別にならないよう、何気ない一言にも気をつけていくという意識が必要だと思った。
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ときわ書房志津ステーションビル店
@tokiwashizu
「差別はいけない」とは当たり前のこと。
にもかかわらず、無頓着なのは何故なのか?
差別される側に立つことのない者と、立たされ続ける者の意識の差は天と地ほどに違う。その差を縮め無くす努力。その為に学ぶことは可能だ。
https://twitter.com/tokiwashizu/status/1430464630187458565
悪意なき差別主義者/相対的剝奪感/トークニズム/特権/損失回避バイアス/固定観念/架空の偏見/スティグマ/ステレオタイプ脅威/構造的差別/優越理論/偏見にもとづく規範理論/名指す権力/「些細な」差別/間接差別/能力主義のパラドックス/不公正な能力主義/承認の政治/差異の政治
好書好日(2021.11.6): https://book.asahi.com/article/14475694
東京新聞(2021.11.28): https://www.tokyo-np.co.jp/article/145061
好書好日(2022.2.3):著者インタビュー「無自覚に他人を踏みつけないためにできること」https://book.asahi.com/article/14532082 -
『あとがき』が1番ストンと理解出来て、全部のピースが当てはまったような気がした。
個性を推奨するような事をいいながら、個性が強いと批判する。これも『差別』なんやったやなぁとしみじみと感じた。
自分の価値観で物事を測るせいで、そこに当てはまらない人のことはどこか排除してしまう。昔、『世界を見るなら心の物差しを大きなものにしろ』と教えてくれた人の言葉がやっと理解出来た。
大切なことを改めて学べる本やった。 -
小論文対策推薦図書 社会学系
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・誰かが笑いの対象にされる、いじられることは、以前はよく見かけた気がする…。いじる側といじられる側には権力的な優劣の関係があり、いじることを「軽い冗談」とみなすこと自体が、強い権力を持っている側の横暴であると読んで、衝撃を受けた。いじられてなんぼ、じゃないのだ。「その冗談は面白くありません」というメッセージを発信しようと決めたのでした。(菊)
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出版社サイト(大月書店)
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b585887.html
目次・試し読み -
あらすじ(大月書店より)あらゆる差別はマジョリティには「見えない」。日常の中にありふれた 排除の芽に気づき、真の多様性と平等を考える思索エッセイ。(http://www.otsukishoten.co.jp/book/b585887.html)
これは素晴らしかった。私が研究してたこととかなり近いし、専門的な理論や概念が登場するわりに、とても読みやすい。(私が修論で書きたかったテーマも含まれてた!)
現代では過激な差別主義者は目立たないけど、誰しもが何となくの感情や、言葉、態度で私たちと他者を区別し、排除しているかもしれない。全ての人に配慮することは努力をしてもできないことかもしれないけれど、まずは気づくこと、そこから思考を放棄せずに考えることが大事だよね。
その人を表す様々な要素によって、人は排除する側にもされる側にもなりうることを忘れてはいけない。
以下、引用。(全ページ載せたいくらいだった!)
平等を総量が一定の権利の配分をめぐる競争だと考えると、だれかの平等が自分の不平等につながるように感じられてしまう。ほんとうは、相手にとって社会が平等になれば、自分にとっても平等になると考えるのが論理的な考え方のはずなのに。(p.38)
→アファーマティブアクションはじめ、マイノリティ支援に拒否感を示す人々にとってはこの考え方が一般的なのだろう。今現在の社会の仕組みがそもそも傾いている、歪んでいることを認識しないといけない。
自分が所属している「ウチ」は相対的に複雑かつ多様で、より人間的だと感じられる。一方「ソト」の人々は単調で均質で、人間的ではないと感じられる。ウチとソトの違いを誇張して考えることもある。そのようにして自分を中心に集団を分ける心の境界に沿って、「かれら」に対する固定観念と偏見が作られる。外国人に対する態度も、この心の境界によって変わってくる。(p.56)
→〇〇人はこうだもんな、とひとまとめに考えてしまっていないだろうか。
ユーモア、いたずら、冗談という名のもとに、他人を侮蔑することで人を笑わせようとするとき、「だれか」の役割を担うのは、「からかってもいい」とされる特定の人々で、かれらだけに同じようなことが集中してくりかえされる。私たちは、だれを踏みにじって笑っているのかと、真剣に問いかけるべきなのだ。(p.96)
→いまだに日本で繰り返されるブラックフェイスと、批判された後の「そんな意図はなかった」の流れを思い出した。
一方で、アメリカの事例は、絶対悪とされた恥ずべき人種隔離の歴史が、ほんの些細な「不快な感情」からはじまったということをあらためて認識させる。そして、その感情をどうあつかうかによって、歴史が変わることもあると教えてくれる。ある集団に対して抱く嫌悪感を、たんに仕方がないことだと思い、野放しにしておくと、さらに不平等が深まる。残念なことに、法律と規範なしに「個人の自発的な合意」を通じて平等が実現することを期待するのは難しい。不平等な体制を維持させる、私たちの感情の力を過小評価してはいけない。(p.136)
ひとつ明らかな教訓は、世の中でもっとも美しい言語も、それを使う人によって、ときにはだれかを傷つける残酷な意味に変わりうるという事実だ。一部の人にとって「多文化」はスティグマであり、差別と排除の用語となった。(p.142)