- Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309029689
感想・レビュー・書評
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世阿弥は72歳にして咎無くして佐渡に流されます。それは、後継者である元雅を客死させた直後のことで、配所にても喪失感は大きく心身ともに満身創痍であったことでしょう。そんな世阿弥の佐渡での日々は、穏やかな自然体で、島の人にも受け入れられ、一方で、芸事への思いも止みがたく、能楽を披露したり、小謡集「金島書」を綴ったりと精進の生活です。物語の基調としては、亡き息子に対する喪失感と親愛の情は止みがたく、実体と霊体が交錯する描写が続き、夢幻能を観ているようです。
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芸能とは、孤高では成り立たないものなのだな。
時の権力者に、一時は寵愛され、またその頂が変われば衰退もする。
佐渡に流されることになった、白秋の世阿弥に焦点を当てて描いていることが、とても良かった。
芸としては、既にある種の境地に在りながら、人としてはまだ悩み苦しみ、また慈しむような、生の動きに満ちている。
佐渡の人々が、世阿弥を慕い、流人ではない扱いへと変化していくことにも素直に頷ける。
そんな暮らしに破調をもたらすのは、やはり「能」のシーンだろう。
世阿弥の側にいる人々が、それぞれ相応しい役割を当てはめられながら、現世と異界を繋いでゆく。
ふと『ガラスの仮面』の紅天女の章を思い出した。
音と詞、節と界。
第十章「照応」の元雅の語りに、鳥肌立つ。
死者が語り手となり、我々読み手を書かれた舞台へと誘う。
その構図は、今自分がいる位置をどこか不安定なものにさせる。そのことがなんだか味わい深かった。 -
ナンチャンとオードリー若林の中で昔この本が流行ってたらしく、読んでみた。
舞台は佐渡。
著者は新潟市出身で、本書の中では流暢な新潟弁が披露されている。
自分も新潟市出身なので懐かしく読んでいたが、語尾の「だっちゃ」だけが引っかかった。
自分は聞いたことが無かった。
調べてみると佐渡弁なのだそうだ。
そういえばうる星やつらのラムちゃんも同じ語尾だし、作者の高橋留美子も新潟出身だったなと思いついた。
調べてみたのだが、ラムちゃんは仙台弁を参考にしたんだそうだ。残念!
海で発生した泡が花吹雪のように舞う「波の花」という自然現象も初めて知った。
この時代にもあったのかどうか分からないけれども西日本、東日本の文化あるあるがクスッとさせられる。
「その、馬鹿、言うのはやめてくれや。京の人間にはこたえるわ。」
アホならいいんだよねきっと。
ストーリーが重厚で悲劇的だけど、こういった小ネタやたつ丸の存在や、恋愛もちょっとあってとてもバランス取れてると思う。
また歳を重ねて再読したら感じ方が変わりそうな一冊。 -
お能に詳しくなくても、世阿弥の世界を堪能できた。
美しい物語。 -
小説でよく取り上げられる世阿弥だが
この作品の世阿弥はとてもリアル。
当時の能楽の雰囲気って
こんな感じだったのかも、と
思えるリアリティがあった。
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ぜひ、こちらの朗読とトークも。
https://www.youtube.com/watch?v=o5W1eSCtFj4 -
-2023.06.16読了
齢72にして佐渡島へ流謫の身となった世阿弥の晩年を
見事なまでに描ききった感動の長編小説――
その佐渡暮らしで、世阿弥が舞ったという「雨乞能」
さらには20年余の佐渡流謫の身のまま儚くも散った<順徳院>に捧げし創作能「黒木」
そして「‥‥老木は花もあはれなり、今いくたびか春に逢ふべき‥‥」
西行法師ゆかりの、幽玄能「西行桜」――
これら世阿弥演舞の伝説が、島の民たちに能楽が普及、
時代降って江戸期には、佐渡の村々二百村に総て能舞台があった、という。
その名残は今もなお、佐渡島には30棟余りの能舞台が健在している。 -
人物の心象に寄り添う表現
地の文も昔訛りの文で世界に入りやすい
ただ引っ掛けるためのひだのような棘のようながほしい