史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)
- 河出書房新社 (2016年10月5日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (444ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309414812
感想・レビュー・書評
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「史上最強の哲学 入門東洋の哲人たち」飲茶
あらゆる先入観を排除し、疑って疑って疑いつくして、厳密に確実に正しいと言えることを限界ギリギリまで追究するのが哲学。
「私」とは「赤や痛みなどを見たり感じたりする意識現象があること」である。
認識するものは認識できない。無限遡行
「私」とは「認識するものである」という定義を受け入れるならば、同時に「私は私自身を認識対象にできない」という論理的帰結も受け入れなくてはならない。
「私」とは「○○ではない」という否定的な言葉でしか記述できない特殊な存在である。
「私(アートマン)」については「に非らず、に非らず」としか言えない。それは捉えることができない。なぜなら捉えようがないから。それは破壊することができない。なぜなら破壊しようがないから。それは執着することができない。なぜなら執着しようがないから。それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。どうやって認識するものを認識するできるであろうか。不死とはこういうことである。この事実に気づいた瞬間、この世のあらゆる不幸は消え去り、自己は無敵の存在となる。
本当に知ったと言えるのは、本当がどうかを試した時。
知識として知っているだけの人と体験的に本当にわかった人は、言葉の上では全く同じことを話すが、本質的には全く違う。
古代インドで苦行が重視された理由は、苦しみに耐える事が、映画(鑑賞物)と観客(鑑賞者=私)は別物だという真理を悟り、無敵の境地に到達した事の客観的証明になると考えられていたから。
人生は苦しみだらけだが、その苦しみは執着という原因があり、それを無くせば苦しみを消す事ができる。
物理法則なんて人間が経験的慣習から「そういう絶対の法則性がある」と勝手に思い込んで信仰化しただけであり自明などではない。-ヒューム
言葉とは、なんらかの価値基準に従って世界に引いた、区別のための境界線。つまり言葉は区別そのもの。
無分別智とは、分別しないで物事を直感的に理解する事。真理とは無分別智でしか理解する事ができない。仏教はそこへ到達する方法論を提示する。
般若心経とは、物事が空(関係性の中で成り立っているだけの実体のないもの)であることを踏まえつつ、無分別智(智慧)の行を実践して真言を唱えながら、えいやと智の境地にいたりましょうというもの。
孔子から学ぶべきことは、戦国時代にたった一介の学士にすぎなかった男が、歴史を正気に戻そうと国家権力にも神秘的権威にも屈せずに立ち向かったという心意気にある。
「物はない」とするのが最高の境地であり、その次が「物はあるがそこには境界を設けない」という境地。その次は「物と物の境界があるが善悪などの価値判断による是非がない」という境地。価値判断による是非を行うことが道(タオ)が失われる原因。
論理を基盤とする西洋哲学は言語による伝達可能を前提とした体系。東洋哲学は論理ではなく体験によるものであり、伝達不可能。
言葉や論理でしか理解できない、それが「知る」為の唯一の方法なのだと思い込むと永遠に理解できない。外に出ること。
東洋哲学は、悟りの体験を引き起こす方法論の体系として発展していった。
戒律は欲望を止める為にあるのではなく、欲望を自覚させ、苦しめる為に存在する。
本当の問題は戒律の対象に特別な価値を見出していた自分自身の心の動き(分別)にある。
価値を作り出したのも自分、価値によって苦しんでいたのも自分。これがあらゆる不幸の正体。
戒律とはこのバカバカしさを体験させる為の一つの方便。
知識や説明を与えることが良い結果を生むわけではないので、東洋哲学の師匠は何も説明しない。
方便自体は重要ではなく、方便を通して得られる体験が重要。
東洋哲学の様々な方便は、体験的理解を引き起こす為、2500年かけて洗練され続けた人類の偉大な哲学体系。
悟りとは、分別で作られた虚像の世界から目を覚まして無分別の智慧を取り戻し、無我の真理を体験すること。
ウパニシャッド哲学を背景として始まったインド仏教が中国に伝播し、老荘思想と融合して成立したものが禅。
禅の語源は、サンスクリット語の「ディヤーナ」であり、これが中国で「禅那」に音写され、最後に省略された「禅」になった。ディヤーナとは瞑想の事。
世界では中国語の「チャン」ではなく「ZEN」として知られている、日本が誇るべき文化の一つ。
「不安」は脳が物理的な作用によって排出された化学物質の刺激情報にすぎない。その感覚に「不安」という名前(分別)を与え、それに「悪いもの」という価値を付与し、さらにはそれを「私自身(心)」だとして同化している。だが、そもそも心など存在しないのだからその心が不安になることもない。
どんなものでも問題にしてしまう「問題視」という日常的な癖を減らすこと。
思考で表現できないものを思考で表現してわかった気になる。
禅は問題を破壊し、革命し、飛び越える。問題を分析して解き明かすのではなく、問題から飛躍し、「答え」を直接体験する。
十牛図の10番目は、彼は市場へと出かける。仏教で禁止されている酒を飲み、魚を食べ、普通に楽しく暮らしていく。ときには昔の自分と同じように牛を探している別の牧童と会うこともあるだろう。しかし、だからと言って、悟りすました態度で教え導くのではなく、ただその出会いを楽しむ。彼はそういう境地を生きる。
起こるに任せる、身体が動くに任せる、脳が考えるに任せる。たとえどんな映画が上映されようと、それが観客を傷つけるものではないことをもう知っているから。
「それ」を知った人は、何が起ころうと起きたままに起きたものを感じ、「それ」を味わい尽くす。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
文句なしの五つ星。読んでいて著者の頭の良さが伝わる。東洋の哲学者をここまで一つのストーリーのように綺麗に説明する人は他にいないだろう。たとえもわかりやすく、言葉も少し荒いのがとても良かった。
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冒頭で、東洋と西洋の哲学の違いを明確に表してるのが秀逸。これを読むだけでも価値がある。
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ない、ない、ない。
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【★5】
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東洋哲学入門。東洋哲学は、悟りを開いた偉人が思考の経緯を省略して結論を展開する。そのため、解釈は受け取り手に委ねられる。解釈が大衆に広がった受け取り手がまた悟りを開く…。インドで始まった阿彌陀佛が中国へと由来、定着してから日本へ、東へ伝わった東洋哲学の経緯や著者の解釈がわかりやすい。
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私には西洋の哲学より、こちらの東洋の哲学の方が難しかった。理解しようとしているからかもしれない。ただ両方知れたことで、私の中の世界の和が広くなった気がした。
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ものすごくおもしろかったです。読んでよかった。
以前西洋編も読んだのですが、東洋編の方が段違いになじみやすく、スッと入ってくる感じがしました。
自分も東洋の文化の中で生きる者なのだなあと実感。
西洋の方は哲学と宗教が相容れないような関係値であったと記憶しているのですが、東洋では仏教というものが宗教であり東洋哲学そのものでもあるというのもおもしろかったです。
いろいろと感じたことがたくさんありましたが、それを言葉にしようとするのは無意味ですね。
なんにせよ、とてもおもしろいのでおすすめの一冊です。 -
表紙のせいで読まず嫌いをしていたが、もっと早く読めばよかった…と思うくらいいい本だった。
まずはこれを読んでからもっと本格的な本を読むのが良いですね。