ロッパ食談 完全版 (河出文庫)

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  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309419664

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  • 著者である喜劇役者 古川緑波は食通としても有名だが、この古川緑波が、雑誌『あまカラ』に1953年から1957年に連載した記事をまとめたもの。古川緑波の大作『古川ロッパ昭和日記』にも食べ物の話がよく出てくるが、戦前、戦中、戦後に食べられていた料理がよくわかり、とても興味深い。特に戦前には今と変わらないような豪華な食べ物がすでに存在しており驚かされる。地域性も面白い。

    「世界を廻ることはない、日本にいた方が、よっぽど食うことには恵まれている。日本こそは、食通の天国だ」p35
    「やはり日本にいて、朝は、クサヤと味噌汁、昼は、西洋料理、夜は天プラというような、食べものの「浮気」を続けることが、一番幸福なのだ」p37
    「アメリカ娘のフランス印象記」の中に、フランスでは、レストランで水を出さないとあって、「フランスで一番ほしくて得られなかったのが水、帰国して、やれやれありがたいと思ったのもプレーン・ウオーターでした」とあるのは、僕の如き「水飲み」は、うっかりフランスへは行けないぞ、と思った」p73
    「「いわゆる料理と名のつく様な場所では、高級料亭である程、それに正比例して、中身は益々少なく、容器は増々大きくなるようである(ジョージ・ルイカー)」という観察を、面白いと思った」p107
    「近頃、西洋料理を怖がっている人が、割に多いことに気がついた。西洋料理そのものが怖いんじゃない、その食べ方、作法が、判らないというのだ。こんなことは、戦争前には、よっぽど田舎へでも行かなければ、きいたことはない。都会育ちなら、洋食の食い方、作法、とまで行かなくっても、ナイフ・フォークの使い方は心得ていた筈である」p114
    「(すき焼きと牛鍋)関西風のすき焼を語ったのは、やがてこれが、関東へ進出して、ギュウ鍋軍と戦い、ついに勝って、東京もまた、すき焼の天下となるお話の序である」p130
    「関東大震災の後ぐらいからではあるまいか、東京にも、関西風すき焼が進出して来たのは。そして、大いにこれが勢力を得て、それから段々と、東京の店でも、牛鍋とは言わなくなり、もっぱら、すき焼と称するようになった。看板も、牛鍋という文字は、見られなくなって、すべて、すき焼となってしまった」p131
    「森永のキャラメルは、今のように紙製の箱に入ってはいず、ブリキ製の薄い缶に入っていたと覚えている。そして、キャラメルそのものも、今の如く、ミルク・キャラメルの飴色一色ではなく、チョコレート色や、オレンジ色のなど、いろいろ詰め合わせになっていた。味も、ぐっとよくて、これは、森永さんとしては、はじめは、高級な菓子として売り出したものではないかと思う。ブリキの缶には、もうその頃から、羽の生えた天使のマークが附いていた」p137
    「チュウインガムが流行り出したのも、明治末期のこと。それら(キャラメルや水無飴など)はみんな庶民的な、西洋駄菓子であって、贅沢なおやつには風月堂のケーキ、青木堂のビスケットなどが出たものである。風月堂の、御進物用の箱をもらった時の悦びを忘れない。上等なのは、桐の箱入りで、デコレーションの附いた、スポンジケーキが、ギッシリと詰まっていて、その上へ、ザーッと、小さな銀の粒や、小さな苺の形をしたキャンディーが掛けてあった」p138
    「マカロンが先ず第一の贅沢なもの」p138
    「本郷の赤門傍にも青木堂があって、その2階は喫茶部になっていた。そこで食ったシュウクリームの味、それに大きなコップに入ったココアの味を覚えている。戦争前は銀座のコロムバンのクッキーが、何と言ってもよかった」p139
    「自動ピアノというものが、各店に設備してあり、これも5銭入れると「ウイリアム・テル」だの「敷島行進曲」だのを奏するのであった。ともかくも、あの時代の、そういう喫茶店、菓子を食わせる店の、明るく、たのしかったことよ」p149
    「(『ヨーロッパ随筆』森田たま)「私はローマで、早く日本へ帰って、お茶漬けがたべたいでしょうねといわれ、いいえ日本へ帰ってビフテキが食べたいと答えて相手の人をあきれさせたが、肉も鶏も、日本の方が、おいしいと思うのは、自分一人ではないらしい」「日本の料理は、西洋料理でも外国のよりおいしいといったら、人は笑うだろうか。しかし私はそう信じている」」p184
    「(神戸センター街)知っているのは、センター街の角にある、ドンクというベーカリー。そこのパンを僕は絶賛するのである。ドンク(英字ではDONQ)のフランスパンは、日本中で一番うまいものではあるまいか。僕は、ここのパンを、取り寄せて食べている」p238
    「生田神社の西隣に、ユーハイムがある。歴史も古き、ユーハイムである。神戸といえば、洋菓子といえば、ユーハイム、と言ったくらい、古く売り込んだ店である。今回行って、コーヒーを飲み、その味、実によし、と思った。モカ系のコーヒーで、丁寧に淹れてあって、これは中々東京には無い味だった。そして、洋菓子も、流石に老舗を誇るだけに、良心的で、いいものばかりだった。ミートパイがあったので試みた。これも、今の時代では最高と言えるもので、しっとりとした、いい味であった」p238
    「平和楼の、ドロドロの、ふかひれ。これを思うと、僕は、わざわざ東京からそれだけのためにでも、神戸へ行きたくなるのである。その他の料理も皆、純中国流に作られていて、近頃の東京のように、洋食に近いような味でないのが、嬉しい」p240
    「エーワンの料理は、その頃にして、一人前5円以上かかるらしいので、到底その後、自前で食いに行くことは出来なかった。正直のところ、僕は、ああいう美味いものを毎日、思うさま食えるような身分になりたい。それには、どうしても千円の月収が無ければ駄目だぞ、よし!と発憤したものである。それから十年経って、僕は菊池寛先生の下を離れて、役者になり、どうやら千円の月収を約束されるようになった」p264
    「江戸っ子からいわせれば「うどんは病人の食い物」である」p272

  • エノケンこと榎本健一と並び戦前の喜劇界を席巻し食通としても知られていた古川ロッパが戦後、雑誌「あまカラ」に連載した食べ物に関するエッセイをまとめたもの。ロッパは映画雑誌の編集をしたり多才な人であったが、書いた物を読む限りインテリというよりもっと俗な人という印象で、それはこの本も変わらない。基本的にドコソコで喰った何やらが美味かったという話ばかりで蘊蓄めいたことはほとんどない。食通として知られてるが味覚は所謂子供舌で基本的に脂っこい肉が好きで魚は嫌い、とにかく色んな料理を沢山食べたいという人で食いしん坊といった方がぴったりくるような愛嬌がある。ロッパは戦中も食い物がない食い物がないと言いながらいろいろ伝手をつかって良いものを食い続けた人だけどそれが嫌みにならないのはその愛嬌ゆえだろう。このエッセイが書かれた1950年代はロッパ晩年の頃で持病の糖尿もあって体力的にはかなり衰えていた時期の筈だけどそれでも食べ物に対する執着が衰えていないのは大したものだと思う。

  • まさに名文、ですね。加藤弘之の孫なのですから当然と言えます。

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著者プロフィール

1903年東京生まれ。喜劇役者、エッセイスト。男爵家の六男に生まれ、編集者から喜劇役者に転身、「エノケン・ロッパ」の一時代を築いた。著書に『ロッパの悲食記』『古川ロッパ昭和日記』ほか。1961年逝去。

「2023年 『ロッパ食談 完全版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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