教育思想のフーコー

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  • 勁草書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (293ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326971671

感想・レビュー・書評

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  • 批判にかかわりつづけることは、人間が幸福になる可能性を否定することを意味していない

    ★★事態を変容させるために、何らかの真理を打ち立て、それによって民衆を教導する知識人になることを望まなかった。彼が、事態を変容させるためにとって方法は「喚起」。喚起の哲学者の望みは、詩人がときおり垣間見せてくれる驚異ーこの世にまだ新しい何かがあるという驚きーの感覚のために、思考の余地を残すこと。このなにかとは、すでに存在していたものではなく、説明も明記もなしえないもの
    →これをやりたいし、これは本でもできるなと、

    ★★人に先入観を捨てさせ、存在に心を開かせ、現実的なものと、前言語的なものとの接触を可能にすること、つまり人を、脱近代的な新しい道に誘い、新しい道を歩ませるが、目的地を明示せず、読む人に、自力で目的地をうつかませること

    →ここだな。言葉を書くにしても、教条的になりたくない。でもこれならできるかもしれない。

    ★★人に新しい道を黙示し、人を新しい道に誘うことは、もっとも深い意味で教育と呼べる。人が新し道をつくり歩むためには、何らかの音楽を聴いて、音楽の聴き方が変わるように、新しい道に臨む人自身が、自分自身の経験によって、自分自身を作り出さねばならない
    それは通常行われている、伝授、伝達の教育とは違い、人がそれぞれに遂げるべき自己形成、自己変容の教育。


    何ものにもおびえていない人、課題を解決する上でことさらに否定的感情を持ち込まず快活にふるまう人は、誰にも恐怖を与えないし、他者を馴致するこtもなければ、服従させることもない

    因習的な規範であれ、宗教的な規範であれ、また教育学的な規範であれ、何らかの規範を掲げる人は、その気範追随し、その規範により脅かされる

    私たちがが今のような私たちではなかったかもしれないという可能性を示すためにおこなわれる。私たちが、必然的に今のようであるのではなく、偶然的にこうなっていることを示すために行われる

    私たちの営みを意味付けている言葉、言説を、一定の歴史的情況を生きた人によってつくられたものとして扱い、また別の状況を生きた人によってさまざまに読み替えられたものとして扱うこと、いかなる意味も本来的に変異的であり、流動的であると理解すること

    ある事象が解決されるべき問題として再構成されることを、問題化という。問題化は、古い実践に対する懐疑であり批判だが、新しい実践を作り出す企図であり構築。
    思考はふだんさまざまな実践(有用性の営み)により隠されている。

    経験という可能性を超える次元。経験は、解決策ではなく、経験は人に満足をもたらさない、経験には価値もなければ、充足もない。経験とは、人間の可能性=能力のすべてを、すべての知識、沈黙、目的を、そして私たちが最後の真理を見出す「死にうること」を、その意味から解放すること

    フーコーの経験は、人の脱主体化をうながす契機。
    人は何かをする主体、何かを言う主体、何かを考える主体であることを避けられないが、そうした主体とうあり様から離脱するもできる。主体から主体自身をひきはがすという機能、主体を自分自身でなくすか、自分の無化、ないしは解消にむかわせるという機能をもっている、それは脱主体化の企て(溶解体験)
    →うちはまるっと、これだな。。脱主体化のための場所


    ★★★思考の可能性(=外の思考の可能性)を私たちが手に入れるのは、まさに思考を私たちのなじもの思考からそらし、言語の存在が消え去るところに連れ戻す言語活動においてではないか。つまり思考を、言語の存在が問われるような限界にまで連れ戻す言語活動
    →こういう「言語活動」を触発する「外」のための仕事をしていたい。それは啓蒙ではない。

    外の思考は、既存の言語活動から無関係に、唐突に生じるのではなく、既存の言語活動のなかで、その分厚い体積を突破する経験として生じる

    魅惑されることも外の思考。それは自分の主体性、有用性への志向は棚上げされること。それは、「自分が、どうしようもなく、自分の外部(である何か/だれか)の外にあるものを感じ取ってしまうこと」

    人を魅了する人は、その内面性を暗示するのではなく、その外を暗示している。その外がその本態をあらわにすることはけっしてない。その外は、無言のあいまいさであり、実際に示されるのは、まどべによりかかる女のしぐさ、半開きになったままの朽ち、遠くない未来に訪れる死に向けられたまなざし

    外の思考に必要なものは、いわゆるリテラシーではない。どんなに多くの知識を所有していても、それだけでは外の思考を営むことはできない。多くの知識、多くの文脈は、操作、管理、能力、技能、実利に結びついているが、外の思考は、そうした機能的な意味の外にあるものを語る営み
    →自分の役割というか、社会とかかわる回路はここなんだろな。この外と関りうる人間として、異者として何ができるか

    既存の言語活動に満ちているものが、主体的・実践的な可能性、つまり有用の能力であるなら、外の思考にみなぎるものは、脱主体的、経験的な可能性、つまり無為のちからである。有用の能力はなじみのもの、問題解決、社会秩序の再生産。科学的、合理的な知識技能。

    外の思考は、日常生活において隠されている、それは問題化を生み出す原動力、社会秩序を脱構築する原動力、革命の思考の生成

    侵犯:稲妻のような閃光、私の言語活動の中心に空いている闇を照らす光機。それは、いわば夜の稲妻、それは時の奥底から自分が否定するものを深い闇として存在させ、その闇を内側から徹底的に照らし出し、そうすることで、自分を鮮やかに輝かせ、また自分を極端に特殊化する

    真理の言説が主体性・有用性を前提にした言説なら、フーコーのそれは、無批判に主体性、有用性を前提にしていない。

    ★フーコーが真理を意思する理由は、心理そのもののもつ価値のためではない。フーコーは、自分の書いたものを真理の言説にするために真理を求めているのではなく、自分をふくめ、人々をより自由なものに向かわせるために真理を求めている

    書くことは、言葉を、私自身に結びつけているつながりを断ち切ること、、、またそれは言語活動をこの世界の有用性の流れから引き離すこと、言語活動を一つの機能に還元するものから解き放つこと
    →話すこと、対話も同じだなぁ、、、、。知らないままでいつづけるために書くということか、、。

    回復すべきものは、なんの力ももたないような他者との関係性のなかで営まれる言語活動。この無為の関係の中の、言語活動が語りかける人間は、所有したり、強制しやりするために語らない。

    権力のなかで、所定の機能的役割を遂行するような主体を形成すること、これを規律化という

    規律化ー内発的臣従性をつくること

    パノプティコンの常態化は、見えないもの、語りえないものが、看過されること。歓待、純粋贈与、陰徳など。無条件の気遣いなど、無常ケインの気遣いは、明証性を欠く営み

    人のかけがえのなさは、みずから思考し続け、生き続け、変わりゆくこと、また他者の声にこたえ、他者とかかわることと一体

    かけがえのなさの看過は、不可能性としての正義をめざさず、完全な他者として客体化できないものとして尊重し、固有性に敬意を払う営みではない

    私は教えるという言葉を拒否する。一般化可能な方法論を用いたり、一つの理論の妥当性を立証する体系的な書物は、教えることを含んでいるだろう。しかし、私の書いたものは、そうした価値をもっていない。私の書いたものは、むしろ何かへの招待であり、教えることができない何かとは、現状の息苦しさを突破するような多様な生成、変容の可能性である
    (→非知として作用するということかな。既存のそれに亀裂をいれるような文章としての「外」)

    ★私は明証性や普遍性を破壊する知識人を夢見ている、それは現在の無気力と束縛のなかにありつつ、力の方向、亀裂が走りそうなポイントを確認し、指摘する者、たえず自分の位置をずらし、今日のことに没頭するあまり、明日、自分がどこにいるのか、何を考えるのか、正確に知らない者である



    ★★★外への喚起。個人を位置づけている様態、地位、生き方、在り方などから離脱させること。であり、主体自身の存在様態に対する意図的な働きかけである。それは有用な知識技能を伝授し、人を外から操作的変える営み、すなわちeducare(教え込み)ではなく、既存の言説を脱構築し、人の自己変容をうんがす営み、すなわりeducere(外への導き)である。教育ではなく、外への喚起。

    必要なことは、思考が自分を閉じ込めていた、その繰り返し、すなわち起源を喪い、ふたたび発見するという物語の繰り返しから、思考そのものを開放すること

    いいかえるなら、経験的なもの/超越論的なものという区別は、思考できるもの/「思考できないものという期別。思考できるものは、生物学、経済学、言語学という経験的学問が語る生命、労働、言語であり、思考できないものは、超越論的主体、理性そのもの、神。

    人間の力は世界の外からやってくるが、それは生命、労働、言語などの経験的学問の有限性の力と結びつくことによって、人間という形態をつくりだしていく

    超越論的であることを可能にしているのは、主観が構成しえないような他者、この他者によって自明性を疑わざるをえない状況に追い込まれることが超越論的であるということ

    閉じているようにみえるものにうたれている開口、出食い。裂け目。理性が追い求める普遍性というドグマから理性が逃れるための、主体をただ前提にする現実を変えるための闘争が開始される拠点

    裂け目の向こうに見える外を、超越論的に思考できないものに回収せず、フーコーは裂け目のむこうにみえる理性の外は、超越論的に思考できないのではなく、アクチュアリテに開かれている。それは現在の状況という意味だけではなく、現実への関与という意味

    ★★★フーコーは自分の本が、他者へ呼びかける声、他者にこたえる声になることを望んでいた。私は自分の展開する議論に反するだろういくつかのことを無視したかもしれない。しかし、私の本は、人々の凶器の見方に影響を与えた。だからこそ、私の本や私の展開したテーゼは、今日の現実における一つの真実を含むことになる、、、私の本の真実は、未来のなかにあればいいと思う


    ★★アクチュアリテは、衝迫的に新しい言動を喚起するものである。私はいつも何かすることで、たとえそれが現実の本の小さなことでも変化させずには、つまり狂気にかんする本を書くことで、私たちの現実のほんの些細な部分を変形したり、人々の観念をかえたりせずにはーいられないのである。アクチュアリテはだれかによって問われているいまーここの状況、私を心情的に強く動かす状況、あたらしい<私>を生成する契機のこと
    →これだな、、、、これが教育だと思う、これをやっていたい


    →このアクチュアルを掻き立てる人間や場所でいたい。
    ★★新しいこと、興味をかきたてられること、それがアクチュアルなこと。それは私たちが今そうであるものにとどまることではなく、あらたに生成すること、私たちが今そうであるものにとどまることではなく、あらたに生成すること、つまり他なるものになること、他なるものに生成することである。反対に現在というのは、いまそうである状態、したがって、わたしたちがすでにそうであることを辞めている状態



    ★★★集蔵体(アーカイブ)は特権的領域を含む。私たちの身近にありつつも、私たちの言説から区別される私たちのアクチュアリティ。このアクチュアリティは、時間をふちどらせるもの、私たちの現在を取り巻く、その上に、現れ、他であるものを示すものである。それは、私たちの外、私たちを確定する界域の外である。収蔵体の記述は、この外にかかわることで、私たちがまだ所有していない言説から出発し、多様な可能性を拡大する
    →よくわかる。


    外と内の二者択一を捨て、その境界に立つ、そこは人がアクチュアルであるとき、他者の声に応答するときに生じる

    人が自由であることと、人が他者を歓待することは同じ

    私の自己同一性が他者という力の横溢によりゆらぐ

    自分を孤立させるものによって、私は人間と無視美ついている

    孤立は、強度につながる契機

    幸福を求めるのは、既存の社会構造を受け入れること、自分が否定している生き方におもねり、自分を裏切ることを意味する

    仲間、恋人、親密な友を求めるのは、道具、手段、能力としての人を求めることではなく、自分の知らない自分を照らし出し、自分の考える自己同一性を疑わせ、自分をあらたn作り出すこと、

    海は、他なるもの、法の外部、未知の世界、孤独と危険に満ちた強烈な経験につうじる広がり。航海は他なるものとの邂逅、自己の大いなる変容を意味している

    私たちは、陸を去り、船に乗った。自ら退路を断った。というよりいも、背後の陸地までも破壊した。さあ小舟よ。用心せよ。もう陸地はないのだ。

    どうすれば、たえず外に臨みながら、新しいよりより私を私に呼び迎えられるか。

    生きることをまなぶのは、自分一人でできることではない

    規範としての正義に対峙する、ケア。
    →個別性、かけがえなさに応答するのが、ケアということかな。

  • フーコー教育まわりでふつうのコメンタリーしているのがもはやあんまりアクセスしにくい状況だと思う。教育社会学系での需要のがはっきりしていたみたいな印象。

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著者プロフィール

東京大学大学院教育学研究科教授。1958年生まれ。東京学芸大学助教授、山梨学院大学教授等を経て現職。単著に『人格形成概念の誕生』(東信堂、2005年)、『教育思想のフーコー』(勁草書房、2009年)、『共存在の教育学』(出版会、2017年)、共著に『プロジェクト活動』(東京大学出版会、2012年)や『キーワード 現代の教育学』(共編、東京大学出版会、2009年)などのテキスト多数。また『デューイ著作集』の総監修をつとめる。

「2023年 『超越性の教育学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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