- Amazon.co.jp ・本 (359ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752408
作品紹介・あらすじ
溌剌とした知性を持つエリザベスと温和な姉ジェインは、近所に越してきた裕福で朗らかな青年紳士ビングリーとその友人ダーシーと知り合いになる。エリザベスは、ダーシーの高慢な態度に反感を抱き、彼が幼なじみにひどい仕打ちをしたと聞き及び、彼への嫌悪感を募らせるが…。
感想・レビュー・書評
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「独身の青年で莫大な財産があるといえば、これはもうぜひとも妻が必要だというのが、おしなべて世間の認める真実である」という有名な冒頭から始まる、英国文学の古典。彼の文豪 夏目漱石をして「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入るの点において、優に鬚眉の大家を凌ぐ。」と言わしめた、オースティンの手による作品である。
様々なカップルの結婚事情を織り交ぜつつ、才気煥発なエリザベスと大地主で容姿端麗なダーシーが、出会ってから結ばれるまでを描いた恋愛小説。僕の友人が半分冗談で「社会派少女マンガ」と評していたが、これが結構的を射ている。活発な女性が「王子様」から好意を抱かれて玉の輿に乗るお話、と身も蓋もなく単純化してしまえば、もろにベタな筋と言えるだろう(もちろん、今の少女マンガの方こそが、本書から大きな影響を受けているというのが正しい因果関係だろうが)。派手な事件は起きないものの、ユーモアに充ちた会話や人物描写の妙で読者を楽しませてくれる。華やかさは無くどちらかというと地味な物語で、正直なところ、読んでいるときはそれほど面白いとは思わなかった。しかし、最後まで読み終えて、文庫本二冊の分量を一気に読んでいたことにふと気づく。ストーリーテリングの巧さは流石だ。
イギリス上流社会独特の皮肉、ひねくれたセリフが印象に残る。例えば、友人のビングリーによって舞踏会に連れてこられたダーシーが、その場にいる人々を評して曰く、
「『若い連中はまことに楽しい集まりですなあ、ダーシー君! 舞踏ほどいいものはない。上品な上流社会のもっとも洗練された趣向と言えましょうな』
『たしかにそうですね―それにあまり上品とは言えない社会でもおおいに楽しめるという強みがありますね。どんな野蛮人でも踊れますから』(上巻p.47)」
といった具合である。登場人物だけでなく、作者が登場人物のことを描く筆も皮肉っぽい。
エリザベスは、自らの優れた知性を誇り、周りの人に独自の批評を下してどこか小馬鹿にし、ダーシーのことも「嫌なダーシー」とばかり思っている。だが、実はこのダーシーへの評価に関しては、彼との初対面で受けた悪印象と、悪意に満ちた嘘を信じてしまったことによる「偏見」だったことが明らかになる。ここに、笑いと皮肉たっぷりの本書の中でも一番の皮肉がある。一方のダーシーは、その裕福で高貴な出自から、付き合う価値無しと判断した人に対して無愛想な態度を隠しもしないが、それが元でエリザベスに(一旦は)手酷く振られたことによって自身の振る舞いの「高慢さ」に否応がなく気付かされる。本書は、二人の若者が恋のすれ違いの中で自身の欠点を自覚し、成長していく姿を描いた〈教養小説(ビルドゥングスロマン)〉でもあるのだ。また、解説によれば、古びた階級制度に反抗する若者が伝統的イングリッシュネスの美的価値を理解し、その良さを認めるに至るという〈教養小説〉だとも読めるという。つまり、エリザベス=階級制度からの解放を求める若者と、ダーシー=階級制度に従うことを要求する社会の力という対比である。この分析は自分の中にはない視点だったので、おぉーなるほど、と。これはエリザベスの立場から見た物語の分析だが、この視点を借りてダーシーの立場から見てみると、彼はエリザベスとの間の身分差にもかかわらず、恋を押し通して結ばれる道を選んだわけだ。すなわち、ダーシーが高貴な家の出だというのは彼の属性の一つに過ぎず、彼もやはり階級制度の外に出た若者の一人だったのだとも解釈できるのではないか。その意味で、エリザベスとダーシーが結婚するにあたっての最終的な障害が、ともに彼らの家族であることは興味深い。一方は切ろうとしても切れない厄介な血縁として、もう一方は家柄の誇りを守ることを迫る圧力としてだが。ここでは、エリザベス&ダーシーのカップルと彼らの家族という対比があるわけだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
最初は貴族らしい回りくどい言い方やミセスジェインの行動に好感が持てなくて読むのに苦労したが、読み進めるうちに面白いと思うようになり、下に続く最後のところにかけてがいちばん好きだった
大学の教授オススメの作品だが、恋愛小説だったので自分の好みであり、イギリスの生活の格式張っている感じが時代を感じられて読むのが楽しかった -
光文社の「高慢と偏見」は2011年。ちくま文庫の中野訳(2003年)より新しく、中公文庫の大島訳(2017年)よりは古い。
訳者の小尾芙沙は女性で、古くからのSFファンならおなじみの方。
アシモフ、ディック、ゼラズニイ等訳書は多数あるが、中でもアーシュラ・K・ル=グィンはこの方の翻訳でずいぶんお世になったので、安心して読むことができる。
丁寧で標準的な翻訳という感じです。 -
以前鴻巣訳で読んだ時と幾分印象が変わった。小尾さんの他の翻訳はどれも読みやすく自然だけれど、本書はわざと古めかしい雰囲気を醸し出すように書いているみたいだ。読み始めは少し違和感があったけど、慣れて来ると楽しく読み進められた。
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新訳を初めて読んだ。文字の大きさやほどよい改行もとても読みやすい。会話や描写も生き生きとしていて、時代も国も違うのに、まるで隣近所で起きたことのように楽しめた。以前文学全集で読んだときに感じた鹿爪らしさとはなんだったのか。 偏見とは自らバイヤスをかけて物事をみること。相手を必要以上に良く見てしまうのも偏見なのだ。
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お も し ろ い。
「100分de名著」で取り上げられていたため読みました。もともと数年前の映画や、かの「高慢と偏見とゾンビ」などからタイトル・あらすじなどは知っていたものの、まあ、面白いんだろうなーとは思っていたものの、私の「単なるロマンス小説」には手がなかなか伸びない悪癖が邪魔をしていてこんな時期に。
さて上巻。100分de名著の紹介と比較すると、ダーシーの嫌さ加減が、本っ当に嫌でした!(笑)
そしてマッハで恋に落ちていくさまにめちゃくちゃウケた。昔のツンデレ男はジェットコースター的にデレていくのが流行かなんかだったんでしょうか(ジェイン・エアの旦那様とか)。
ツンデレと言いましたが、これは完全に「キャラ小説」ですね。ブロンテ姉妹もキャラの濃さで話作ってそうなところがありますが、こちらは主人公やメインキャラもさることながら、周囲のキャラ性が濃いこと、濃いこと。そのあくの強さたるや、まるで派手な色の髪のキャラしか出てこないラノベのごとし。
内容としても、若者が喧嘩して恋愛して成長して収まるべきところに収まるっていう、三巻完結ぐらいの少女向けラノベっぽい筋立てでした。
恋愛関係の話は下巻の感想に譲るとして、気になったのが家族のキャラ立て。
すぐに感情的になっては家族をコントロールしようとする母親と、金銭以外のあらゆる問題から目を逸らそうとする父親。ニヒルになってみるスタンス自体は彼本人の防衛反応なんでしょうが、子を持つ大人としてやってはいけない、そして「よくある」父親の姿ですね。
その結果子供達が見事にスポイルされており、長女、四女、五女の振る舞いはそのまんまAC(アダルトサヴァイヴァー)っぽいですし、ヒロインエリザベス(次女)もまた。いや、長女と次女が母のカウンセラー務めながら妹の教育に苦心しなきゃなんないとか、ほんと機能不全家庭あるあるすぎて(笑)
エリザベスとお相手ダーシーの、高慢とか虚栄心って言われる奴も、自尊感情の低さだと思う。ダーシーも、ご両親が領主として優れた人だったかもしれなかったけど、育て方間違っているのは下巻で語られているわけだし。(だいたい、一緒に育てたあいつがああなってることからしても、相当教育ベタだったんじゃねーかと思うぞお父ちゃん)
んで、下巻の話ついでに、ダーシーが変わろうとできたのって、手ひどく指摘を受けたのが、エリザベスが誤解してた点と「彼自身、うっすら気づいていた直せる可能性のある欠点」だったからなのではないかと……もし突っ込まれたのが「自分がアイデンティティを感じていた部分」だったら受け容れられないと思う。いや、上巻ラストの時点ではまだ受け容れるところか大反発してるわけですけど。
そこを非難されたわけではなかったので、ちゃんと見てもらった上で振られたんじゃなきゃ、諦めて次に行けねえよ、みたいな。
つまりこの話を読んで連想した現代のヒット作は、「逃げるは恥だが役に立つ」だったのだ。
以下次号(下巻)。 -
やっぱり何度読んでも面白いのう。
詳しくは下巻にて! -
古きイギリスの世相がこの小説の幹となっている。現代との乖離がありすぎて,あまりピンと来ていない。下巻も読むつもりですが、のめり込んではいません。