忘れがたい場所がある 遠藤周作エッセイ選集II 旅と歴史 (知恵の森文庫)
- 光文社 (2006年10月5日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334784478
感想・レビュー・書評
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狐狸庵こと遠藤先生はスケベを装って人を騙す。やっぱり狐か狸だ。
ある廃墟を訪れ、「四百年前にも1人の人間の眼にこれと同じ風景が眼に入った時、なにを考えたかと思うだけで眩暈のするような興奮をおぼえる」
本書に収められている「廃墟の眼」に、そう書かれている。
その興奮は「出刃亀男」の覗きの快感と同じで、つい「ニタニタと」笑っちゃうとも記されている。かつて、先生の文学作品を知らず、軽妙な随筆ばかりを読んでいた高校生の頃の私もすっかり騙されていた。
純文学作家として追求している真理の深遠さと、目の前の読者の下世話さとはあまりに隔たりが大きい。その隔たりを埋める手段が「スケベ」や「おとぼけ爺さん」を装うことであったことを、近頃ようやくわかるようになった。
先生の熱烈なファンだという人に、シリアスな小説のうち最もお薦めなのは何か尋ねた。『沈黙』と『侍』でしょうというのが彼女の答えだった。
代表作といえる『沈黙』がなぜ書かれたのか。どのようにして書かれたのか。本書の中で、先生自身がヒントを語っている。
「私は踏み絵というものに彫られたキリストのくるしい哀しげな眼をかつて見たことがある」
「もし私があの時代に生まれたら、私はおそらく踏絵に足をかけていたでしょう。しかしその時、基督はこちらのつらさ、哀しさがよくわかっていた筈だ。
『ふみなさい。早く、ふみなさい』
と彼はそう言ったに違いないのである。彼の眼はその時、人間のみじめさを愛し、それに同化している眼だったのでしょう」
本書のように、著者の没後に再構成して出版された随筆集は多い。だが初出時の本より一段低く見られている。さらに、れっきとした純文学の作品群よりは劣るかのように誤解するむきもあるかもしれない。
しかし、旅と歴史についての随筆を集めた本書は、著者が数々の代表作の取材のために訪れた地での思いや、かつて描いた物語の地での追想がちりばめられている。得がたい好著である。
永らく取っ付けずにいた『沈黙』も、最早読まざるを得ない気分に追い込まれてしまった。
私の住所地の隣町は「支倉町」という、支倉常長にちなんだ町名だ。迂闊なことに、『侍』の主人公「侍」とは常長のことだと知らなかった。
彼は四百年も前に仙台からメキシコ、スペイン、ローマまで渡り、法王にも謁見して帰ってきたけど、戻ったときにはキリシタン禁令で居場所がなくなっちゃった悲劇の人。歴史の教科書にもそう記されている。
『侍』は80年の発行だが、著者は前の年にメキシコで取材している。その上で使節団の目的はローマ訪問ではなくて、メキシコとの通商開始であったと、大胆に推理している。
信仰と藩への忠節の矛盾、藩と幕府、日本と世界の相克、それらの中で悲運のうちに闇に葬られた「侍」常長、最早彼のことを避けて通ることはできない(なにしろ毎朝支倉町を通らなきゃ通勤できないしねえ、ってまた冒涜しちゃった)。
しばらくは『侍』と支倉常長にのめり込むことになりそうだ。 -
寝る前は小説よりもエッセイを好んで読む。人の話をただうなずいて聞いている感じに似ていていい。登場人物や話の展開を忘れてもいっこうにかまわない。ただこの本で忘れられないのは著者がアウシュヴィッツに訪れたときの衝撃とフランクル博士の証言を交えた述懐。一日300グラムのパンとスープ。それだけで強制労働を強いられできなければガス室送り。そんな状況の中でも最後のパンの一切れを病人に与えた人間がいたこと。死んだように疲れ果てた一日の労働のあと、ふとした夕暮れを見て「ああ、世界って、どうしてこう美しいんだ」と呟く囚人がいたこと。この人たちのお陰で私たちは人間がどんな状況下でも美しいものを求めていることを知り、自分がこれを口にしなければ死ぬかもしれぬ状況でも他人にそれを譲ることができる強さ。思いやり。その人たちのお陰で私たちは人間をまだ信じることができる。たまに眠気が一瞬で覚めるようなエッセイもある。。