- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784336060730
作品紹介・あらすじ
今まで誰も読んだことがない文学
誰も見たことがないアート
まったく新しい哲学
がここにある
窓と作りつけの暖炉のほかには何もない部屋、左上には2014年という数字。ページをめくると、1957・1942・2007……と様々な年代の同じ空間が現れ、さらに異なった年代の断片が共存・混在していく。そして紀元前30億50万年から22175年まで、ある家族の記憶の数々が地球の歴史と一体となって圧倒的なビジュアルで奏でられていく――リチャード・マグワイア『ヒア』はある部屋の一角の物語であり、地球の黎明期から遥かな未来まで、この空間で起こる無数の出来事の物語である。コミック形式の画期的なヴィジョンの完成形として、このジャンルの最大の発明家の一人が送りだす、まったく新しい文学、究極のグラフィック・ノヴェル/アート・ブック、そして深遠なる哲学の書にして驚異の書物がついに登場! *日本版特別附録:1989年オリジナル版・2000年版「ヒア」と、クリス・ウェアのエッセイなどを収録。
感想・レビュー・書評
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今、実際に本を手にして、確かにスゴイと私も思います。ただこのビジュアルは、コミック形式ではあるけれど、書物である必要があるのか?とも思ってしまいます。例えば、長い通路かトンネルに次から次に現れる映像であってはいけないのか?などと夢想してしまします。
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私がずっとここにいて、あらゆる時代を見つめ続けているような感じ。時代は飛び飛びであったりするものの、共鳴するかのように同じような事柄が展開することもある。解説が詳しいのでそちらに譲るとして、視点が固定なため、読んでいる自分が置き去りにされている感がすごい。
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ある一つの場所の定点観測をひたすら観続けるという不思議な読み物でした。ストーリーはそれほど無いような、ちょっとSFちっくになる部分でおっ!っと思ったり、何しろ読んだ事のない読後感。現実の部屋を使ってインスタレーション作品にしたら面白いのではと思ったりしました。
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ある場所(家)に宿る記憶を、定点的に時代を超えて眺めることができる。何度も読むと、人間の寿命を超えた遥かなる地球の時間の流れがもっと捉えられるかも。
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窓と暖炉がある部屋の一角をとらえた視点。そこから視点を動かさずにBC30億50万年~22175年という壮大な時間を体験させる刺激的な作品だ。大小様々なフレームがマルチウィンドウのように現れ、冒頭の家で生まれ死んでゆく家族の営みを、太古の昔から遠い未来までの土地の記憶の中に描くのだが、断片的で時代もバラバラなので、読み返すたび新しい発見がある。「ここ」にかつてあり、これから現れるであろう全ての事象、その過去/現在/未来を同時に眺めることができる「何か」。そんな超越的な存在に思いを巡らせてしまった。
ある歴史上の人物が「人生には韻を踏むような出来事が起こるものだな」(1766年)と孫に語るのだけれど、作品に現れる無数の断片的エピソードも、どこか韻を踏んでいるように思えた。(2014)
<メモ>「デジャヴだわ」(2014年)と言って顔を覆う女性が、指の間からこちらを、または視点の「主」を見ているように見えて意味深。 -
はるか過去からはるか未来までの時間軸で、同じ視点をきりとる。それをランダムに見せるビジュアルブック。表層的な出来事の奥底にある、なんだか神秘的な思考みたいなものが、伝わるような気が、するやらしないやら。なかなかおもしろい本でありました。【2019年2月5日読了】
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1つの視点から色んな時代の風景を眺めている。
一部分の風景を切り取って、異なった時間の風景を貼り付けることで同じ場所にいながら過去の時間軸で起こった出来事や、未来の出来事が同時に再生されていく。
まるで電車の窓から外を眺めているように、ページを進めるごとに移ろっていく風景や人々の会話を聞いていると、壮大なタイムトラベルをしているような感覚になれる。
イラスト集でもフォトアルバムでも漫画でもない斬新な表現のビジュアルブックとして、とても新鮮でした。 -
「ここ」はアメリカの郊外に建てられた住宅の一室。この本の各ページは,その場所で起きたことを言わば固定カメラ的にイラスト化(アメリカン・コミック化と言うべきか)し,西暦を付記しただけ。古くは紀元前30億年,新しくは紀元22175年の未来。時系列に並べられてはいない。フルカラー300ページ余。まだ原野だった時代,入植時代,家族の歴史(おそらく住人は途中で入れ替わっている),壁紙の変遷,時を経て変わるもの・変わらないもの。私が知る限り最もスパンの長い壮大な叙事詩。
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ポール・オースターの『オーギーレンのクリスマスストーリー』の中でブルックリンの街角をカメラで毎日同じ時間何十年も撮影し続けるという話があった。語り手はその撮影された大量の写真を丁寧にじっくりと観るのだけれど、それは観るというよりも読むという行為にとても似ているように感じられた。その一連の写真が意味するのは、歴史的連続性であり、経年変化であり、あるいはより適切な言い回しが許されるならば、それこそ物語というものだろう。つまり定点観測とは、自ずと物語自動生成機能を備えているといってもいいかもしれない。リチャードマグワイアが『HERE』で試みたこともこれに近い。グラフィックノベルという形態にしてはこの作品は非常に寡黙だが、一読してわかるように情報量はかなり多い。その夥しい情報量は、けれども決して難読を助長しているわけではなく、むしろ物語の豊穣さを意味しているようだ。舞台は一つの部屋であって、長大な時間の流れの中で、さまざまな時代の風景や人間模様が映し出される。そしてそこには読者が物語を読み取る自由が溢れかえっている。観るのではなく、読むという行為。さまざまな時代のさまざまな人々が同じような韻を踏みながら歴史は続き、無数の物語が紡がれていく。何かを許すわけでもなく、裁くわけでもなく、生成される物語はひたすら広大で深淵な自由に満ちている。