ジーコの個を活かして勝つ: メンバー一人ひとりの心の強さが組織を成長させる

著者 :
  • ごま書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784341171636

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  • ジーコは、素晴らしい!!!

    【印象に残った言葉】

    目標を限定することが大切。

    どうして、1つの目標を達成しただけで、気をゆるめていられようか。

    その名声を維持するための努力が必要となれば、チームのやる気が失せるなどということはあり得ない。

    スポーツに限らず、いくら過去に素晴らしい成績を上げても、次の勝負に勝たなければ、勝利者の称号はそこで失われてしまうのだ。負けてしまえば、そこでその人間の過去の栄光も忘れられ、罵倒されるだけである。
    戦いがある限り、勝ち続けなければならない。組織のリーダーとして、それが当たり前だと私は思っていた。

    私はリーダーとして、チームのメンバーに「いつも勝つんだ」という意識を植え付けるように努力している、もともと、人生にせよ、組織にせよ、目標に限界などないはずだ。

    日本でトップチームになるだけでは意味がない。

    世界最強を目指す鹿島アントラーズにとって、1つのタイトルは、新たなる挑戦への第一歩にしか過ぎない。

    しかし、近々トヨタカップとは別に、全世界にも門戸が開かれる世界クラブ選手権が実現されることになるという。そのときに、鹿島アントラーズがアジア最強・正解最高クラブの栄誉を勝ち取り、世界の注目を集めることができるよう、いまから備えているのである。

    鹿島の選手のモチベーションの高さは、目標の度合いが他チームとかけ離れて高い所にある。鹿島アントラーズの目は、つねに世界を見据えているのだ。

    自分の好きなこと、目標の定まっていることをやるときには、頭の回転や体の動きすら違ってくるということは、誰もが経験しているはずだ。リーダーは、部下に目的意識を持たせることによって、成果を手にすることができるのである。

    とくに初期の段階では、リーダーは、チーム全体が目指す大きな目標を掲げることが必要である。一番いいのは、「できるかどうかわからないが、できればすごい」と思えるような目標を設定することだ。できて当然の目標では、手も抜きたくなってしまう。

    目標設定について必要なことは、リーダーは具体的で明確な目標を提示するということだ。

    目標が曖昧であれば、そこに妥協が入り込む。

    目標は、できれば数字などではっきりと示した方が、部下たちも実行しやすい。鹿島アントラーズの究極の目標は、
    「鹿島の選手全員が日本代表に選ばれ、そして世界から注目され、尊敬されるクラブになること」だ。

    だが、難しいからといって、その目標を放棄するにはあたらない。

    1つの勝利はゴールではなく、さらなる勝利への扉にすぎない。

    チームとしていい成績を収めるためには、いい環境がなければならない。
    部下が仕事をしやすい環境を作ってやるのも、リーダーとしてのたいせつな任務の1つだ。

    もちろん環境がいくら整っていても、そこを使うリーダー、メンバーに目的意識がなければ文字どおり宝の持ち腐れだ。もし、チームにしっかりとした目的意識があるのなら、環境整備は、そんの組織が成功するための重要なファクターとなるはずである。

    多くの人に注目されているということは、組織が活気づくためのたいせつな要素である。
    もし人気を失えば、選手は勝つ気もなくなってくる。
    もしファンに強烈な応援をしてもらえば、勝たなければという義務感が生まれてくるし、大声援の中で負けても、選手は強い責任を感じるからより成長する。

    リーダーは、最強のチームとはどのようなチームなのか、そしてそのためにはいま、何が欠けていて、何が必要なのかを常に知っておく必要がある。

    優勝レースから離れていた二年間を有意義なものにすることができたのは、この期間にプロ意識を高め、成長し、さらに前進しようとする意識を身につけていたからである。
    選手各自が、まさに優勝者にふさわしいプロ意識を持っていた結果なのである。

    なかなか結果が出ないことのほうが多い。しかし、それは失敗したのではない。単に「まだ結果が出ていない」だけのことである。

    集団のモチベーション、目的意識を高めるためには、何が必要だろうか。
    自己実現と、最終結果の獲得が大きな要素。
    簡単にいえば、名誉。
    自らの実力で栄冠を勝ち取り、歴史を創るという崇高な思いがあれば、本当に大きなことができる。
    人生は、歴史である。
    私は、そのことをいつも頭に入れて努力してきたつもりだ。

    日本国内でのリーグ優勝は、その目標の過程の1つにすぎない。だから、優勝しても鹿島アントラーズはつねに上昇志向を持ち続けられるのである。

    プロ意識とは、24時間、サッカーの専門家になることである。
    生活のすべてが、サッカーーに最適なコンディションを保つためのものとしなければならない。つねに、勝利を求めて、試合に勝つために過ごす。それがプロだ。

    試合や練習のときだけではなく、プライベートの時間もプロとして過ごすべきだということ。

    日本に来る外国人選手は、皆きちんとした身なりをしている。そのようにして、いいイメージを持たれることは、プロ選手にとっての義務でもあり、また選手自信にとってのメリットでもある。

    プロとして何かを成し遂げるためには、それなりに犠牲を払わなければならない。

    休日は、楽しんでリラックスするのが目的。
    よって、あくまでも、サッカーのために、ストレスから解放されるためのものでなければならない。

    こうして、サッカー選手はトレーニングに満足して、楽しい気分で臨まなければならない。外から問題を抱えてトレーニング場に来るようではな、プロではない。だいいち、そんな状態でトレーニングしたところで、何も得るところはない。
    プロは、常に自分を向上させ、そしてベストの状態を保つのが義務である。もし、すでに得た栄光に満足し、それ以上のものを求めなくなったとしたら、それはもはやプロではないのである。多くの名選手たちが、惜しまれて引退するのは、本人がそのことを一番よく知っているからだ。

    個人コーチは、本人にやる気がなければ技術の進歩につながらない。

    私は、選手に対して、「君にはこういう長所がある。今度はこういうところをよくしていけば、もっといい選手になれる。」

    プロリーグに参加するからには目指すはただ一つ。優勝しかない。
    チーム全体の意識を、もっと高いところに引き上げなければならない。
    こういう思いが、痛切に私の胸をよぎった。

    もし、応援してくれる人がいなかったら、試合でゴールを決めても無意味になってしまう。

    プロのサッカー選手は、どんなにいいプレーヤーがいたとしても、観客がいなければ感動は生まれない。選手、サポーターが同化し、スタジアムが一体となって、はじめて奇跡は起こりうる。それを忘れたら、サッカーはつまらないスポーツになってしまう。

    チームワークとは、
    自分に与えられた仕事だけではなく、グループ全体の仕事のことを考え、必要ならば積極的に他人の仕事を手伝おうとする精神ではないかと思う。

    どのポジションの選手も、多くの能力、流動性が求められている。
    ならば、得意分野をふやしておくことが必要なのである。

    チームワークを保つには、これまで以上の能力を要求されるのだ。

    他の攻撃型選手がマークされて自由に動けない時、ノーマークの守備選手がどれだけ攻撃に化けられるか。それが大事。

    鹿島アントラーズでは、練習のときに、自分のポジション以外の練習もさせている。すると、今まで自分にできないと思っていたことが案外できることに気づいたりして、それが自信とさらなる向上心を生む。


    11人全員が背番号10である必要はない。むしろそうなったら、サッカーの試合は成立しない。先にもいったように、11人全員がチーム全体のことを考えながら、それぞれのポジションで最善を尽くした時、初めて良い結果が出るのだ。

    選手のよしあしというのは、どんなポジションについていようが、最善を尽くせるかどうかで決まる。そして
    何かの都合でその選手がいない状態で試合をすることになったとき、はじめてどれだけチームにとってたいせつな存在だったか、皆が理解するのだ。

    彼は、あらゆる場面でそのときどきで自分にできる最善を尽くして守り、責める。その結果、いつのまにか本田は鹿島アントラーズにとっていなくてはならない存在となった。

    いないときこそいい試合をして自分たちでちゃんとやれるようにしなくてはならない。

    どんな地味な役回りであっても、そこでの最善を尽くし、チームに貢献する部下はたいせつにしなければならない。最善を尽くすという姿勢は、ときとしてずば抜けた採用よりも多くの結果をもたらすことさえあるのだ。

    控え選手は、5分のあいだに、85分間試合に出ていた選手以上の活躍を要求されているのである。
    控え選手が起用されるということは、チームはそれなりにピンチに陥っているか、あるいは試合で重要な場面に差し掛かったときである。

    チームから必要とされたときはいつでも、最大の力を発揮できるようにという気持ちでいたからこそ、ここ一番というところで活躍することができたのだ。

    控えの選手は、試合の鍵を握るたいせつな存在であることを、
    リーダーは、つねに彼らに自覚させておかなければならない。
    いつも彼らに注目し、彼らがチームにとっていかに重要な存在であるかを説き続けなければならない。

    優れた組織というのは、中心人物だけが優秀なだけではなく、その周辺にいる者に力があり、いつでも活躍の場が与えられるものだ。

    私は10代のころから、実力主義で生きてきた。

    私は、何かを決断しなければならないとき、その結果がチームの勝利のためになるのかならないのかをつねに判断の基準にしている。

    過去の功績に報いるのであれば、ほかの方法を考えればいいことで、それは本人のためにもならないし、チームのためにもならない。

    たいせつなのは、活躍の機会は、ベテランにも若手にも平等に与えられることだといいたいのである。

    選手はチームに対して忠実でなければならないこと、つねに自己の野望よりチームのことを考えなければならない。

    これからJリーグに入ろうとする外国人は、単なる助っ人ではなく、日本人に何かを残せるプレーヤーでなければならないんだ。

    世界中のクラブで中心的に活躍している選手ばかりのため、現在ではブラジル代表に復帰するのはいささか難しいかもしれない。だが、その実力はいまでも世界でトップクラスなのである。
    だが、彼らとてJリーグで大活躍できる保証があるわけではない。それだけ難しい世界なのである。

    金が第一の目的で来日する選手や監督は、結果として日本のサッカーに良いものを残さない。

    しっかり話す。そうすれば来日して、カルチャーショックに悩むこともない。

    入ってくる人が、どのような目的を持っているかを見極めること。
    単に金目当てや自己のステイタスのためなら、まず、グループのためにはならない。やはり、本人がつねに実力を伸ばそうとし、グループのために仕事をする意欲のある人材を確保するように心がけることが組織活性化の秘訣である。この点を事前に確認し、優れた人材を集めるのも、リーダーの手前の1つだと私は思っている。

    私が鹿島アントラーズで実質的なチームリーダーを務めていた時、少々さびしい思いをしたことがある。それは選手たちが私に何の意見もだしてこないことだった。

    じつに模範的な生徒だった。だが、プロの選手の反応としては物足りないというのが私の本音だった。

    リーダーからアドバイスされたことを、自分の個性に合わせてアレンジしたり、監督からの指示を試合の流れに合わせて巧みに使い分けるといったことは、サッカー選手として当然のことなのである。言い換えれば、
    言われたことしかできない選手は、チームの命取りになる。

    ロドリゴなどは、「ブラジルの選手があれくらいまじめに練習すれば、もっと強くなるのに」と言っていたほどである。

    器用な日本人にとって、決められたことを覚えられるのは、さほど難しいことではない。
    難しいのは、学んだ技をどんな場面においても使いこなせるようにすることだ。

    日本人はショックに弱く、ちょっとしたことで緊張してしまい、精神的ダメージを受けやすい。

    人間の精神力の強さは、窮地に立った時によく現れる。

    不利な場面では、リーダーをはじめとしたグループの精神的な強さがものをいうのだ。
    それには、場馴れすることも必要なのかもしれない。

    試合でマリーシアを発揮するためには、ちょっとくらいのミスで、くよくよしていてはだめなのだ。失敗は失敗として、つねに目の前の試合展開に集中して最善を尽くす。そうした精神的なタフさがなければ、マリーシアは身に付かない。だから、
    いかに精神的に強靭になるかが、これからの日本人選手の課題ではないか。

    現場のもっともリアルな情報を持っているのは、監督ではなく現場の選手たちなのである。選手一人ひとりは、現場で得た情報をもとに自分なりのセオリーを持っており、どうしたら目標が達成できるかを考えたうえで行動しているはずだ。

    外されて喜ぶ選手はいないが、監督が交代を命じるときには、それなりの客観的な理由がある。この点を理解して、選手はその指示に従わなければならない。
    カズは、それを身をもって示したのだ。彼はまだ、強い心を失ってはいない。
    私は交代を命じられた選手が、不甲斐ないプレーをした自分自身に対し、悔しそうな表情でベンチに帰ってくる姿を見るのは嫌いではない。彼らは皆、やり場のない怒りの表情を浮かべているが、その怒りをバネにして、復活することができるだろう。その悔しさを忘れずに練習することが、明日の進歩につながるのだ。

    たいせつなのは、必要なときに最善を尽くしたプレーができるかどうかである。精神的な強さがたいせつ。

    監督はまだお前のことを認めていない。認めてもらえないから、不満だというのは最低だよ。認めざるを得ないくらい、いいプレーをすればいい。それだけの話しじゃないか。

    そもそも、プロ選手というものは、いい働きをするために給料をもらっている。プロとして求められる技量を出せないで、試合に出してくれというのはいささか虫がよすぎる。「参加するだけでは意義がない。」

    失敗から学ぶのであればいいが、失敗を恐れて動けなくなるようでは勝利はおぼつかない。
    失敗はしてもかまわない。というより、何か物事をやろうとすれば、失敗は避けて通れない。いろいろな試みをすれば、失敗するのは当然なことである。

    25年の選手生活で、審判から退場を命じられたのはこの一回限りだ。

    私はサッカーを愛しているからこそ、日本にもいいサッカーを広めたかった。どこの国でも、サッカーには政治的な裏取引がつきものだといわれるが、日本ではそのようなことになってほしくなかった。

    サッカーは、監督、選手、そしてサポーターが一丸となって勝利を求める組織戦だ。この原点を外したところに、真のプロリーグが根付くことはありえないし、サッカーのおもしろさもなくなってしまう。

    サッカーによって町づくりをするという、ビッグプロジェクトに参加することは、自分の人生の中でも最大のチャレンジだった。
    たいへんな苦労をすることは目に見えていたのだが、つねに前進しようという私の人生観にとって、この話を断る理由はなかった。

    単にチームのためだけではない。私たちを支えてくれるスポンサーや、応援してくれる地元の人々のために、鹿島アントラーズは勝たねばならない。

    組織にとって必要な条件が整ったいま、なすべきことは、選手たちの努力によって、この恐怖心を取り除くことだった。

    選手たちの成長を目の当たりにすることは、何よりの喜びだ。

    サッカーの選手の試合の目的は、サポーターに始まり、サポーターに終わるといっても過言ではない。

    サポーターが試合を見に来てくれるからこそ、ゴールをする価値も出てくるというものだ。
    勝っても負けてもチームを応援し、励ましてくれるサポーターは、チームを発展させてくれる最大の協力者なのだ。そのサポーターに対して、感謝の気持ちを表現するのは当然ではないか。
    プロは常に、サポーターに対するサービスを、何よりも優先させなければならない。

    ジョホールバルでは、多く外国人選手たちをも感動させた。全世界どこに行っても、日本チームには素晴らしいサポーターがついている。これこそが、私が日本に来た目的なのである。
    今度のフランス大会では、日本代表のサポーターたちは、世界のサポーターにお手本を示してくれるに違いない。

    総監督は、グランド外をおもに担当し、また、一歩引いたところからチームを冷静に見て、助言をするのが仕事である。


    いまのサッカーでは、実際のところ戦術面においてはどこのチームもそれほどの違いはない。南米のチームであろうと、ヨーロッパのチームであろうと、Jリーグのチームであろうと、やっていることは似たようなことである。
    にも関わらず、チームの優劣が出るのは、その戦術をどこまで効果的に、どこまで確実に実行できるかの差である。
    しっかりとした原因分析をもとに、戦術を確実に自分たちのものにしたチームが勝ち、未消化のチームが負けるのである。

    要するに、チームとしては、レオナルドがいなくなってからのほうが、成長しているのである。
    レオナルドはあくまで鹿島アントラーズの一部であって、鹿島アントラーズそのものでない。
    もちろん組織にとって個人の能力はたいせつである。
    しかし、それ以上に勝敗を分ける大きな要因となるのは、チームワークなのだ。高度な個人技を生かすためには、その力を発揮しやすい状況を創らなければならない。チームメートが協力して、そうした状況を作ってくれるからこそ、個人技もさえるのである。南米のチームの個人技が目立つのは、そのようなチームのアシストがあるからだ。
    チームは、1つの輪だ。どれか一つでもはずれてしまうと、輪が崩れてしまう。だから、みんなでガッチリと固まって輪にならなけでばならない。
    →ロッキーみたいだね。

    ところが日本のチームの場合、チームワークを重視すると、それが消極的なプレーにつながる傾向がある。
    チームワークを重視することは、けっして個を殺すことではない。
    チームのために自分の個性を十分に発揮できる選手が多いほど、そのチームは強くなる。
    そのために必要なのがチームワークなのだ。私は、そういうチーム作りを目指してきた。

    【チームワークを基本に置いた個性の発揮には、私は最大限の賛辞を与えている。】

    強固な鎖の輪を作りには、組織一人ひとりの意識を、同じレベルにまで引き上げておかなければならないということである。
    レギュラークラスの選手の意識を上げるのは比較的簡単だが、問題はリザーブの選手の意識を、レギュラークラスの選手と同じ程度に上げることができるかどうかなのだ。

    急にメンバーの変更をしなければならないときでも、リーダーがチームや選手に対してどういう認識をしているかがたいせつなポイントになる。
    選手を入れるとき、その選手はどのような特徴を持っているか、どのように変更するか、彼を使ってどのように試合をするか見極める目がリーダーにはとくに必要とされるのだ。

    私が低迷ではなく、成長の段階だというのは、このとき、鹿島アントラーズは静かなる前進を続けていたからである。

    【負けが続いた時、リーダーは何が原因かをしっかり分析しなければ、泥沼から脱出することはできない。あせりは、ぜったい禁物である。】
    冷静に、考えられるすべての条件を分析し、原因を究明し、それを取り除いていかなければ、チームは強くならない。

    どんな集団でも、リーダーと部下のあいだに、意見の食い違いが出てくることは避けられない。その食い違いを、いかに部下にな解くさせ、実行させるかもリーダーの器量にかかっている。
    私がつねに理由を述べながら、仕事をすることにしているのも、そのためだ。
    重要なのは、「なぜか」を見せることである。

    【私の選ぶ選手とは、チームになじみ、仕事を成し遂げる人である。】

    試合に出れるかどうかわからない選手でも、ゲームが始まる直前には、レギュラーと同じレベルまで、意識を高揚させておかなければ勝利はおぼつかない。

    組織の能力をフルに発揮するには、メンバーの能力に合った戦術を持たなければならない。戦術は、サッカーに限らず、あらゆる組織に欠かせない技術と言ってよい。

    要するに戦術とは、グラウンドで何をすべきかについての基本を選手たちに伝え、敵をもっとも効率のいい形で制圧することへの探求なのである。

    それぞれの選手の失敗が重なった結果が、戦術の失敗につながる。だからこそ、戦術を成功させるには、できるだけ個人のミスを減らすことがたいせつになるのだ。ミスを減らすことは、敵のチャンスを減らすことにもつながるからだ。

    つねに、素早い変化に順応し、自由にやりたいプレーができる精神状態でいることがポイントとなる。

    ブラジルをはじめ、南米の選手たちは、思い切ったことを平気でやる。
    それは、ほかの選手と違うことをしてもしかられないし、咎められることでもないと思っているからだ。
    リーダーは、自分だけでなく、選手たちにもクリエイティブな発想ができるように、環境を整える役割を担わなければならない。サッカーは、クリエイティブな頭脳が要求されるスポーツだから。

    だからといって、選手達の言い分を一方的に効いても駄目である。指導者は、だれよりも研究して、自信を持って指導しなければならない。

    リーダーの役割は、メンバー1人、ひとりの優れているところを、引き出すことに尽きるといっても過言ではない。

    日本には、才能のある選手は多いが、想像力のある選手は少ない。

    試合で活躍した選手が、それだけの評価を受けることは当たり前のことで、正当な評価はほかの選手たちの励みになる。

    リーダーは、チームの中でいかに各選手を輝いてみせられるかも仕事である。

    レオナルドは移籍後、「日本での経験は人生においても素晴らしいものだった」とフランスの報道陣に語った。
    これは、いかにレオナルドが鹿島アントラーズで真剣にプレイし、円満に移籍したかを物語っている。そして、現在、彼はみごとブラジル代表となり、私のシンボルの背番号10を背負っている。

    そのやり方になじまない方法を取り入れたら、すべての破綻につながってしまうに違いない。メンバーの能力を活かさない組織に、発展はありえないのだ。

    日本人がまだ備えていないクオリティーを、外国人選手で補っているのである。

    リーダーには、こういったプライベートな部分までも、選手の身になって考えることが求められている。いまの時代は、国際感覚を必要とされているのだから、リーダーは外国人の気持ち、考え方にまで精通していなければならないのは、サッカーの世界も同様なのである。


    鹿島アントラーズの現在のチーム力は、こうした過去の蓄積から生まれているのだ。
    組織というものは、その場しのぎの対策では、立ちいかなくなることもしばしばある。
    しかし、いかに厳しい時代があっても、そこで新しい力を育て、じっと次なるチャンスを待っていれば、時期がめぐってきたときに、大成功を収めることができるのだ。


    ミスをしたら、それを取り返せばいいだけの話だ。

    リーダーにたいせつなのは、選手がなぜミスを引き起こしたのか、どうすればそれを回避できたのか、また、今後同じミスをしないために、どのようにプレーすればいいのかを、詳しく説明し、理解させることではないだろうか。

    ミスを乗り越えたとき、その経験は、その選手にとって大きなプラスへと転換されるし、ひいてはチームにとっても利益をもたらす。リーダーはこういったことを理解しておかなければならない。

    【リーダーとして待たなければならない要素の一つに、情熱がある。】
    自分の実績や経験を下の世代に伝えるとき、サッカーに対する考え方、自己のサッカー哲学を伝えるとき、もっとも重要なのは情熱だ。

    情熱的ということは、いかに伝えにくいこと、飲み込みにくいことを、あきらめず何度も何度も根気よく指導することだと思う。
    選手を叱りつけるときも、「これは、この選手のためなのだ」と考えながら叱れば、相手は決して不平、不満は言わない。

    マラドーナは、最高の左足をさらに高めるために、右足を強化した。
    右足の鍛錬は、あくまでも左足という長所を伸ばすためのトレーニングなのだ。

    もっと積極的にチャレンジすることのほうが、組織全体の力をアップすることにつながる。

    いいプレーをしたり、目標としていたことを達成した選手をしっかりほめてやりたい。
    【そのときたいせつなのは、どうしていいプレーができたのか、なぜ目標が達成できたのかを考えさせることである。】
    【ただ褒めたとしても、それはチーダーにとっても、当の選手にとっても、一時の満足にしかならない。】
    「なぜ」を考えさせることによって、選手は、自分の中で経験を固めていく。だからこそ、次のプレーにもつながり、自信も自ずとついてくる。

    「抜群の才能を持つ」部下や、「10年に1人の逸材」を生かすも殺すも、リーダーの腕にかかっているといえる。

    戦友が新天地に向けて旅立つときは、快く送りたいものである。
    リーダーは、出ていく者に対して、感謝の気持ちを忘れてはならない。

    一度は同じ釜の飯を食った仲間である。
    彼が旅立つその瞬間まで、チームメイトのはずだ。
    私は今まで、そのようにチームメイトに対して接してきたつもりだ。また、リーダーとなってから部下に接するときも、基本的な姿勢は変らなかった。
    どんな選手とも、いっしょにプレーしてきたことを感謝し、快く送り出してきたつもりである。

    たとえ、選手がチームを離れることになったとしても、リーダーはその選手の功績を決して忘れてはならない。

    選手一人ひとりがゲームのすべて、全体像を把握する必要があるし、またグラウンドにいる選手各自がリーダーの考えを知り、意志を統一しなければならない。

    もっとも影響力のある選手に監督の意志を伝えることにしている。
    影響力の大きい選手にメッセージを伝えれば、グラウンドにいるすべての選手にそのメッセージが届く。

    【エドゥ時代の様々なポジションの経験がいまの成功に結び付いている。いろいろなポジションでプレーすることを要求され、そこで、チーム内で自分がなすべき仕事が何なのかを理解したのである。】

    一度、その能力が評価されない状態になったからといって、それだけを取り上げて問題視する必要はない。
    重要なのは、なぜできなくなったのかを分析して、その問題を取り除いてやることなのだ。
    一度低迷したからといって、それで終わりではない。

    さらには、選手たちに、「監督が指導したことを実行すれば、必ずいい結果が出る」と、信じさせる力も欠かせない。

    サッカーに限らず、強い組織を作るためには、根気よく、長い目で見ていかなければならないことを強調したい。
    私は幸いプロのサッカー選手として聖子うすることができた。
    そこで得たものを、次の世代の子供たちにできるだけ還元したいというのが、私の望みである。
    サッカークラブも、サッカースクールも、そのための布石となることを信じている。

    どこへ行くにしても、日本のことは忘れて、精神的にも現地に溶け込まなければ成功することはできない。

    やはり、日本に優れた外国人の指導者を招いた方が効率的だろう。
    1人の優秀な指導者が日本に来て、何百人もの若者を指導したならば、多くの若者がその教えを吸収し、優秀なプロ選手に育っていくに違いない。

    人間関係は言葉ではなく、同じ劇的な体験と価値観で結ばれる。

    コミュニケーションの基盤は、家族の上に成り立っている。

    50年代にレアル・マドリードで活躍していたステファン選手が、
    「70歳を超えた今でも、かつてのチームメイトと一緒に、家族ぐるみで食事に出かけたりして、温かい交流を続けているんだ。」と楽しげに語ってくれた。
    メンバー同士が、このような一生の友人づきあいができるというのは、同じグラウンドで戦った戦友の特権だと私は思っている。
    日本のいろいろな組織でも、このような密接なつきあいが広がっていくことを期待したい。

    トッププラスのプレーヤー。
    彼らの動き、技術、さらにはどのような生活態度で試合に挑んでいるがか、こういった細かい点まで観察し、取り入れられるところはどんどん取り入れていってほしいものだ。

    中田にとって、サッカーをすること自体がたいせつなのだ。
    中田選手は、日本を代表するためにサッカーをしているのではなく、
    日本代表に値するだけの実力を身につけたからこそ、日本代表に選ばれているのだ、と言いたかったのだろう。彼の純粋さに敬意を表したい。

    Jリーグにの勝ち負けより、
    ワールドカップのほうが大切だというような捉え方をする選手がいるならば、それは無意味な考え方だと指摘しておきたい。
    そのような考えは、自分1人の力で代表に選ばれたというそれこそ勝手な考え方だ。
    実際には、チームのほかの選手たちの努力のおかげもあって、選抜選手に選ばれたことを忘れてはいけない。
    このあたりの考え方も成熟させたとき、日本のサッカーは大きく飛躍する。
    【私はそれを信じて、できるだけのお手伝いをしたい。】

  • ジーコの本を読むのはこれで2冊目だ。日本人はテクニックはあるし,体力もあるのに,創造性がないという指摘があった。習ったパターンの時は対応できるが,経験していない局面になるとパニックになってしまう。基本練習は大切だ。その繰り返しの時,どんな局面でこれを使うのか,しっかり意識付けしながら,基本練習すれば少しはちがうのだろうか。前にラグビーの平尾さんがそんなことを書いていた。教育はどうだろう。基礎・基本を教えながら,「創造性」を養うにはどうしたらいいのだろうか。ちっとも見えてこない。ただ,自分で,自分たちでやらせてみて,それを受け止めてほめてやることは必要だと思う。創造にはイメージが必要である。やはり本物にふれることか・・・?

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ジーコの作品

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