- Amazon.co.jp ・本 (349ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344985865
作品紹介・あらすじ
一九七〇年。学生運動が終焉へと向かうなか、少女マンガの変革を目指した女性たちが東京練馬区の二軒長屋【にけんながや】にいた。中心は萩尾望都【もと】と竹宮惠子。後に「大泉【おおいずみ】サロン」と呼ばれ、マンガ家のタマゴたちが集ったこの場所で、二人は互いに刺激を受け合い、これまでタブーとされた少年愛やSFといった分野で先鋭的な作品を次々生み出し、少女に熱く支持される。だがその軌跡は決して平坦ではなかった――。『ポーの一族』『風と木の詩』等、名作誕生のプロセスを追いながら、二人の苦悩と友情、瓦解のドラマを描く意欲作。
感想・レビュー・書評
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本書を絶版にして欲しい。理由は2つ。
(1)本書は昨年3月に発行された。著者は、ずっと秘密にされていた萩尾望都「一度きりの大泉の話」の経緯は当然知らない。そのせいもあり、本書には幾つもの重大な誤認がある。もはや訂正では済まないし、済ませるわけにはいかない。
(2)2人の名前を書名に冠し、「大泉サロンの少女マンガ革命」と副題につけているが、その副題は本書に書かれている内容とかなり違う。私は、大いに異議がある。
以下、詳しく述べる。
先ずは(1)について。
貶す前に、良い所について。
まるで百科事典のように、時系列と人物・作品の整理が完璧。良い資料になる。
(a)それを別の言葉にすると、本の資料だけに頼っているということだ。増田法恵に少しインタビューを試みたようだが、ほとんど何も聞けていない(彼女は少し嘘もついているかもしれない。そもそも、こんな不十分な取材で大泉サロンをテーマに本を一冊書こうとする方がオカシイ)。萩尾望都からは断られたのかもしれないが、竹宮恵子からも取っていない。大切な所は竹宮からの一方的な大泉サロン告白書「少年の名はジルベール」から採っていて、「大泉サロンとは何だったのか」に、全然答えていない。
(b)「はじめに」で著者は、「大泉サロンが目指したのは『少女マンガの革命』だった」と断定しているが、それは竹宮と増田の意識であって(←「ジルベール」を基に書くからそうなる)他のメンバーの「自覚」ではない。なのに「その『少女マンガ革命』の先頭に立ち、中心に陣取り、頂点に達したのが、萩尾望都と竹宮恵子である」と、萩尾望都が大泉サロンを主導したかの如く書いている。こういう「風の噂」が、萩尾望都をして「一度きり」を書かせた要因になったのだろう。「ジルベール」にも責任はあるが、中川のこの本は一定影響力を持つ(「手塚治虫とトキワ荘」を上梓してる)し、断定しているので、責任はこちらの方が重いと思う。本書の存在そのものが、要らない害を振りまいている。
(c)大泉サロンを解体し、萩尾が下井草へ行き、そこで「事件」があって体調を崩して、埼玉に行ったのは73年の初夏のはずだ。本書では74年春になっている。その萩尾望都の「重大な1年間」についての著者の「調査」は、限界はあったかもしれないが、はなはだ不十分である。
(2)について。
(a)「少女マンガ革命」とは何だったのか?
それは「24年組」が開いたのだと断定する。24年組とは、1949年前後に生まれて少女マンガの変革を担った人たちのことである。著者も認めているが、自分たちで名乗ってもいないし、グループとして活動したわけでもない。評論家、ジャーナリストがそう呼んでいるだけだ。だからこそ著者は、大泉サロンは実態があるグループだとし、メンバーは固定できるから、それを中心にして本を書こうとしたのだろう。ところが、サロンは革命を目指したわけではない。メンバーの2人竹宮と萩尾がたまたま、変革に大きく力を果たしただけである。
(b)「革命とは何だったのか」。
著者は本の2/3を過ぎてやっと大泉サロンについて書き始め、最後の335pでやっと説明する。詳細は省略する。要はマンガの題材、テーマが広がり、表現技法も変化したということだ。その主体を著者はナント、竹宮や萩尾の他には、大島弓子、池田理代子、山岸涼子に求めている。全然大泉サロンじゃないじゃん!!!大きな変革は確かにあったと私も思う。しかし、本書では、それが起きた理由や主体者の詳しい解説は竹宮や萩尾以外はほとんど行われていない。
「大泉サロンの少女マンガ革命」というのは、大嘘の看板である。
以上が、本書を速やかに絶版にするべきだ、という私の主張の根拠である。トキワ荘について書をものした著者が、大泉サロンを第二のトキワ荘にしたいと勝手に目論んだのだろう。サブカル評論家の見栄の書である。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
少女漫画版「トキワ荘」として知る人ぞ知る「大泉サロン」については、確かこれまで完全な第三者による単著はないはずで、その点だけでも価値がある。ただし、「トキワ荘」と比較して資料が圧倒的に少なく、当事者のあいまいな記憶に依拠せざるをえないため、基本的な事実の確定すら覚束ない。同著者の『手塚治虫とトキワ荘』では徹底した史料批判で事実の確定に努めたが、依拠資料の少ない本書では、結局誰がいつ「サロン」に出入りしていたのかという問題すらはっきりしない。キーパーソンである増山法恵には取材したような記述はあるが、非協力的だったようで、他の関係者には改めて取材はしていないようなのも、叙述の精度を落とす結果となっている(本書の著者はノンフィクション作家でもジャーナリストでもないので、既存の文献だけに依拠するその手法自体は「平常運転」なのだが)。また『手塚治虫とトキワ荘』では編集サイドの動向にも紙幅を割き、出版文化史全体の流れのなかで俯瞰する視点があったが、本書ではそうした傾向は希薄である。これも重要な編集者らがまとまった証言を残さないまますでに鬼籍に入っているからだが、改めて記録を残すという営為の重要性を考えさせられる。「サロン」の解体については、竹宮と萩尾の増山を挟んだ「確執」「三角関係」にまで踏み込んでいるが、この問題は竹宮の自伝(萩尾に対する強烈なコンプレックスを告白して人々を面食らわせた)の一方的な見方を前提としており、事がセンシティブなだけにより慎重な扱いが必要だったと思われる。いずれにせよ、「大泉サロン」以外の「24年組」の動向も含め、追究が不十分な論点も多く(例えば女性漫画家の原稿料等の差別待遇問題)、将来の増補を望みたい。
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竹宮惠子と萩尾望都という二人の少女マンガ家の人生を軸に、昭和30年代から昭和50年頃までの日本のマンガ界全般の黎明期と発展期をまとめた本。トキワ荘の話、手塚商事の話、大泉サロンに到るまでの話はかなり面白かったのだが、肝心の大泉サロン以降の話が、あまり本質的な所まで踏み込んでないように感じたのが、少しもったいない。特に後半は竹宮恵子の自伝「少年の名はジルベール」に視点・内容共にかなり引きずられている気がした。
でも、この本を読んで思ったのは、竹宮惠子は人と一緒でないと生きられない(もしくは人の評価に影響を受けやすい)人で、萩尾望都は一人でも生きていける人だからこそ、二人の作風はかなり違い、その後の人生も違ったのだろうな、ということ。私が竹宮作品がそこまで好きになれなかったのは、きっとその「構ってほしい」精神が自分的にはあまり合わなかったのだろう、とも思った。彼女が大学の先生になったことで、マンガ界へ優秀な人材を送り出したことは、彼女にとっても良かったのではないか、とも。 -
萩尾望都、竹宮恵子を中心に70年代における「少女マンガ革命」を時系列にたどる本。萩尾望都、竹宮恵子ともに存命なのに本人への直接的な取材がないのが残念。単なる事実の羅列だけでなく、萩尾望都、竹宮恵子、増山法恵の3人の関係性や確執について憶測を交えて語るのであればなおさら。
とわいえ、戦後の少女マンガを通史として知るには良い内容の本だと思う。 -
前半はともかく、『一度きりの~』が出たあとに書かれていたら、副題にある大泉サロンについてはずいぶん違った内容になっていたんだろうなあ、と。
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面白い。戦後の日本の歩みと漫画の歴史を俯瞰して書いている。
名前の出てくる漫画家がスター級ばかり。大物列伝の歩みや、盛衰が描かれているが、その中でも少女漫画の大御所、萩尾望都と竹宮惠子の人間関係を書いた…が、そこは書かないほうが良かった。
漫画に夢や反体制の意味づけがされた時代や、その後など、群像劇としては素晴らしく面白いのに、人間関係になるといきなり下世話になる。
一つの漫画を取り上げて、変な深読みした挙句、日本の革命は二十代の女性が起こす、とか、おっさんな結論。
有名税とはいえ、ここまで勘繰っていろいろ詮索されるのは苦痛だろうと、萩尾望都と竹宮惠子に同情した。そもそも
傑作を描いたのはこの2人だけではない。
戦後の群像劇、社会の変革期の躍動感、そんな雰囲気はいきいきと伝わってくるので、本としては面白かった。 -
いわゆる「二十四年組」を代表する二人のマンガ家である萩尾望都と竹宮惠子が、1970年秋から2年間にわたって共同生活をおこなった「大泉サロン」に焦点をあてて、彼女たちが成し遂げた「少女マンガ革命」について論じた本です。
著者がかなりおおざっぱな解釈の図式をもち込んだためにある種の愛好家たちの憤激を招いた例は、すでに『歌舞伎―家と血と藝』(講談社現代新書)がありますが、本書もさまざまな毀誉褒貶を呼び起こしているようです。
著者のいう「少女マンガ革命」は、直接には増山法恵のことばにもとづいているようですが、手塚治虫や石ノ森章太郎らの影響を受けた新しい世代の作家たちが、旧来の少女マンガの硬直したスタイルを脱したというおおざっぱなものです。ただ、増山の発言から「意識革命」ということばを引用していることを見ると、大きな時代の動きのようなものを前提に、少女マンガという世界における「革命」を理解しようとしているように思われます。こうした解釈の図式は、陳腐という批判はありえるでしょうが、著者に特殊な見かたというわけではないでしょう。
また著者は、竹宮の『ホットミルクはいかが?』や『ロンド・カプリチオーソ』といった作品の内容から、その「作者」についての解釈を引き出しています。これは、本書が「大泉サロン」での事実を策定することをめざしたノン・フィクション作品ではなく、作品の解釈から「少女マンガ革命」のなかで二人のマンガ家が演じた役割について解釈をおこなう評論であることを証明しているとみなすことができます。本書に記されているのは、こうした観点から語られた著者の意見であり、当然のことながら批判に対して開かれているものです。
なお、本書刊行後に一方の当事者である萩尾の『一度きりの大泉の話』(河出書房新社)が刊行されました。これによって著者の意見が変化するのか、あるいはそれにもかかわらず変化しないのかわかりませんが、著者の他の本と同様に文庫化の際に増補がなされることを望んでいます。 -
『一度きりの大泉の話』を読む前の準備運動として。
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少女マンガ大泉サロン関連本著者は
「手塚治虫とトキワ荘」「松田聖子と中森明菜」
など対比する新書を得意に数多く出されている方らしい
手塚治虫「リボンの騎士」石ノ森章太郎から
1970年前後少女マンガ黎明期を経てその後
一気に開花する少女マンガの流れがとてもわかりやすい。本作は萩尾望都さんの最新刊本前2020年3月
発刊されており核心部分は残念なことになっています。