- Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
- / ISBN・EAN: 9784389411237
感想・レビュー・書評
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ポストモダンを理解するために読んだ本。この本は「ドゥルーズの経歴」「アンチエディプス」「ドゥルーズ主義の哲学」の3つの章に分かれ、だいたいの流れは5月の出来事、ガタリとの共著アンチ・エディプス、差異の哲学、表現の世界をざっと紹介するものだった。
最初の章で投げられた問い「なにをなすべきか?」は各章の説明と読者の実際のテキストへの道筋に託したようで最終章のむすびとおわりはあっさりざっと終わる。とはいえ、大体分かったような(?)気にもなるし、よく単行本でまとめたなあと感心した。難解で読むのは大変だったが『アンチ・オディプス』を少し理解するのに大いに助けになったし、5月革命との関わりも興味深い。特にスキゾ分析の部分に興味を持ったので、また他の本でも挑戦してみたい。
患者の神経症を性的な、近代的な父性主義に倣った「パパーママーぼく」の葛藤、望ませる、オディプス化させることによって、治療は成り立ったという。ドゥールズとガタリは、画一的な「エディプス化」を批判し、精神分裂病をエディプス化への抵抗と捉える。人間の経験は多様で画定しがたいのに、責任ある個人、理性的主体という単位に作り上げてしまうという。
アンチ・オディプスはその世界観―神話を否定し、核家族を否定し、父性主義とファシズム、再生産される権力・抑圧を言及し、核家族の批判に向かう。オディプス神話批判はあの5月の出来事を中心とした、時代の要請であったのだろう。モダンモデルを破壊しよういう試み、多様性の実践、反権力の意思は今にも続いている。
欲望と知性、欲望する機械、器官なき身体、欲望の論理学、スキゾ……難解な文章ではあるが、多様性の時代に向けての哲学は色々と考えさせられる。欲望万能論も理性万能論も、個人主義も全体主義も、欲望する機械の上で転がされているか逃避しているに過ぎないのか。欲望について見かたがかなり変わった、というより薄々気になっていた事をドゥールス氏が文章にしてくれた。理性というものも、もしかすると欲望と同じ、もしくは同列のものではないか?という問いを。
理性か欲望かという話ではない。理性の良識と欲望の力を分析した上で、近代の理性が欲望に含まれる肝腎の部分を取りのがし抑圧してしまう危惧を問い直しているのだろう。幻想が現実と結びつき現実を変えうる世界がそこにはある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この船木享という著者を私はわりと信頼しているのだけれど、この本については、うーん、どうだろう。判断保留せざるを得ない。
他の解説書と読み比べる中で、
解説と解釈の分離の不可能さ、ドゥルーズ像の多様さを思い知らされる。 -
船木先生の現代思想の講義をラジオ講座で聴いていたが、スピーディーに問いを畳みかけてゆくスタイルが新鮮だった。思想を語るにはスタイルが重要なのである。
この本を読んで『アンチ・オイディプス』をわかったような気になってはいけない、ちゃんと読みなさいというのがメッセージである。 -
ドゥルーズの入門書。比較的詳細に説明されているのは『アンチ・オイディプス』の内容だが、最終章で、ドゥルーズのヒューム、ニーチェ、ベルクソン解釈と、哲学史に対するドゥルーズ独自のスタンス、さらに『意味と論理学』『差異と反復』に見られるドゥルーズの基本的な考えが説明されている。
ドゥルーズ=ガタリは、生物のあらゆる水準を、集積度の異なった機械の複合体として捉え、「欲望する機械」と呼ぶことで、自然と文化ないし社会の二元論を乗り越えようとした。そして、無限の欲望が抑圧されている「胚珠的過流」の状態から、欲望する機械が完全に展開され尽くして欲望するものとそれを抑圧するものとの配置が完全に無差別となる「器官なき身体」の状態の間に、野生時代から資本主義時代に至るまでの社会機構の変遷があると考えた。
ところが、フロイトからラカンに至る精神分析学は、こうした欲望を、資本主義の基本的な公理系であるエディプス関係の中に封じ込めることで、父の去勢する力によって成立する社会的「個人」の確立へと人びとを向かわせている。ドゥルーズ=ガタリはこうした資本主義社会体制から欲望が漏出する可能性がある「逃走線」を引き続けることで、「個人」であることからの脱出をめざした。こうした戦略がノマディズムにほかならない。
こうしたスタンスは、ドゥルーズの哲学史的な仕事においても一貫して見られる。彼は、ヒュームとニーチェが人間心理を主体に内属するものとしてではなく、自然と歴史の中でそれらとともに生成してくるものとして捉えなおしていたことに注目する。こうした生成の論理の手前に主体性は存在しない。ベルクソンもまた、私の同一性に基づいて未来の可能性を描くことに反対し、現実の本性的差異を維持しつつ、そこに走る潜在的な方向性を見いだすことで、現にある生き方を乗り越えることを説いたのだとドゥルーズは解釈する。哲学的実践もそうした可能性を開く「倫理」的な営みだというのが、ドゥルーズに一貫して見られる哲学的スタンスだということができる。