日本人と中国人――なぜ、あの国とまともに付き合えないのか (祥伝社新書 486)

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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784396114862

感想・レビュー・書評

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  • 本書は日本人論です。エリアとしての中国と漢民族の文化を体現する中国があり、日本人が中国として受け入れているのは後者です。情緒的な民族である日本人は理性的には振る舞えません。唯一持つ思想は尊王です。今の天皇の権威は、江戸時代に中国の政治思想をもとに作り出されたものを明治維新で実現させたものといいます。しかも、この思想は漢民族の文化のコピーです。このことを踏まえないと、南京事件ひいては日支事変の不可解さを理解することはできないとしています。ちなみに、沖縄の領有に決着をつけていない日本は禍根を残しているという指摘は的確ですね。

  • 陳舜臣著の同名著作と同時復刻!というような広告を見て惹かれたが、思い切り出版社のマーケティングにひっかかってしまったかもしれない。内容は、日本人と中国人、いわゆる文化比較論かと思いきや、日本人論であった。あまり中国人は関係なく、中国思想と日本人といった所か。過去から現在にかけて日本人がいかに中国を見てきたか、実際の中国に即したものではなく、自分達の中で作り上げた中国像がいかに影響を与えてきたかという論考を尊皇に絡めて論じている。
    一次資料を出来るだけ載せようという意図があるのか、様々な書からの抜粋があり、またなかなか難解ではある。正直、知識・認識不足、個人的に尊王やら天皇論に興味がないことから、理解できない箇所が多分にあった。とはいえ、非常に高度なことが書かれているような感もあるので、いずれまた機会があれば手に取って読んでみたいと思う。

    しかし朝鮮との貿易を中継していた対馬で文書を改ざんしていた事件というのは興味深い。
    朝鮮国王への返書として日本国 源某(徳川)に、朝鮮から対等な相手は国王じゃないといかんと言われて勝手に王を付け加えていたらしい。あと秀吉が北京に天皇を送ろうとしていたというエピソードも興味深い。日本は特に外交が内政の延長だった的なことが度々文中で繰り返されるが、それこそ今の中国のまんまだったんだなと思わせる・・。まあどこの国もその二つを全く別物とは扱えないわけだが。

    P.12
    「歴史は繰り返す」「いや繰りかえさない」という議論は繰りかえす。ということは、この議論の歴史はくりかえされている、ということだろう。(中略)この問題は、非常に単純に考えれば、次のようなことがあるかもしれないーー人の一生にも民族の生涯にも繰りかえしはない。しかしある人の生涯を回顧した場合、その人の生涯が、ある行動の型の繰りかえしにように見えることもまた事実であるように、民族の生涯が、ある行動の型の繰りかえしのように見えることもまた事実である。

    P.19(戦争の原因について)
    探求すべきものはあくまでもまず「当時の世界の常識」であって、現在の判断ではない。この二つは絶対に混同してはならないもので、過去のことをいきなり現在までの基準で判断すれば、かえって何もわからなくなってしまう。わからなくして、ひとを煙にまくにはこれが最も良い方法であることは事実だが、それは「歴史」ではない。もう一度いうが、当時の事態ととうじのその事態への判断と、両者への現在の判断とは峻別されねばならない。したがって当時の判断を記すにあたって、現代の基準、特にいわゆる倫理的基準に基づく判断は、絶対に加えてはならない。これをすると「歴史」が「黙示文学」になってしまう。
    黙示文学の定義は複雑だが、ここでは、一応「自己の時代を理解しようと、一定の宗教的法則性に基づいて、歴史を同時代化した文学」としておこう。

    P.25
    昭和十年十月、日本政府は、日中提携三原則を中国に提案した。すなわち排日停止、満洲国承認、赤化防止の3ヵ条を提案した。(中略)日本は満洲国は独立国であり、民族運動の結果成立した国であると主張している。従って満洲国と日本国は別個の国のはずである。それならば満洲国承認は、あくまでも中国政府と満洲国政府との間の問題であって、日本国政府は何ら関係がないはずである。従って秘密交渉ならともかく、公然とこの主張をかかげることは、その後も一貫して日本政府は、一心不乱に、「満洲国とは日本傀儡政権であります」と、たのまれもしないのに、世界に向かって宣伝していたわけである。この辺もまた、まことに支離滅裂で面白いし、この点は今も同じだが、先へ進もう。

    P.39
    戦前の日本に、はたして軍国主義(ミリタリズム)があったのだろうか。少なくとも軍国主義者は、軍事力しか信じないから、彼我の軍事力への冷静な判断と緻密な計算があるはずである。
    確かにナチス・ドイツは、ソビエトの軍事力への判断を計算を誤った。しかし計算を誤ったことは、計算がなかったことではない。(中略)日本はどうであったか。中国の軍事力を正確に計算したであろうか。そして正確に計算したつもりで誤算をしたのであろうか。(中略)私の調べた限りでは、こういう計算は、はじめから全く無いのである。否、南京攻撃直後の情勢への見通しすら何一つないのである。否、何のために南京を総攻撃するかという理由すら、だれ一人として、明確に意識していないのである。これが軍国主義(ミリタリズム)といえるだろうか。いえない。それは軍国主義以下だともいいうる何か別のものである。恐ろしいものは、実はこの「何か」なのである。(中略)
    確かに大本営は十二月一日に南京総攻撃の許可を現地軍に与えていた。しかし許可は命令ではない。さらに十二月八日に、広田外相が中国政府による日本の提案の受諾を天皇に奏上している。奏上は当時の日本での最終決定事項である。(中略)政府が、中国による提案受諾とこれに基づく停戦を発表したのに、軍がこれを無視して総攻撃したのなら、これは軍の横暴といいうるし世界もそう解釈する。
    しかし、日本政府が、中国の提案受諾を受けとってそれを了承しておきながら、総攻撃へと向かう日本軍をそのまま放置しておいたのなら、これは日本政府の中国政府への裏切りであっても、軍部の横暴という言い訳は通らない。(中略)当時の資料、新聞、そのほかを徹底的に分析しても、この驚くべき事件の真の原因は、何一つ出てこない。(中略)「提案を受諾しかつ総攻撃を開始せよ」という最も重大でかつ日本の運命を決定した決断を下した者は、実は、どこにもいないという驚くべき事実に逢着するのである。そしてその内容は、実は「市民感情が条約に優先した」のであった。「市民感情が許さないから、契約は無視された。感情が批准しない条約は無効であった」。

    P.60
    人が人を殺すというのは、実は「思想が殺す」のであって、武器が殺すのではない。たとえば、日本兵は武器をもっていても、その日本兵が日本兵を殺すことはない。ということは「日本兵は殺してはならない。中国兵は殺してよい」という思想があるからであって、この思想の有無は武器の有無には関係ない。

    P.63(秀吉の朝鮮出兵について)
    彼の起こした「朝鮮の役」は、いわば「小東亜戦争」である。従って三百五十年後(一五九〇年代→千九百四十年代)の日本人同様、国内が破産・混乱状態になりそうになれば、やめてしまった。戦争とは通常「生存」のために戦われるものだが、日本人ではこれが逆になり、常に「生存」のために戦争をやめるのである。

    P.73
    ここで「鎖国」という言葉を少し考えてみよう。この言葉が非常に強烈なので、何か日本が全世界と絶好していたような印象を与えるが、この印象は誤りであろう。実態はむしろ「宗経分離に基づく対西欧実質的断行」「政経分離による対中国実質的国交回復」の時代と見るべきである。
    中国船30艘、オランダ船二艘という白石の建議は、単に両者の関係が一五対一であったということではない。このことも確かに象徴的だが、それ以上に重要なことは「宗」を思想と解するならば、対中国は「宗経分離」ではなかったということである。(中略)「思想」の輸入先は中国だけとなり、これが国内の安定とあいまって、日本における「民族のレベル」まで達する「中国化」となり、一種の「中国ブーム」が起こる時代が始まるわけである。もちろんこの場合の「中国化」とは、正確には「擬似中国化」ではあろうー思想の輸入とは、常にそういったものだからんである。

    P.94
    竹内式部京都追放事件というのが、調べてみると、少々こっけいな一面させかんじさせる奇妙な事件である。
    彼は新潟の医師の子、いわば一介の市井の人だが、京都に出て儒学と蘭学と神道を学び、系統的にいえば、山崎闇斎(一六一八ー八二)の孫弟子にあたる。そして塾を開いた。といっても今の言葉でいえば「読書会」「学習会」程度であり、弟子は公家の若者たちであった。そしてそのテキストの中に前述のベストセラー、中国人語録兼言行禄ともいうべき「靖献遺言」が入っていた。(中略)「靖献遺言」のような一種の殉教者列伝というものは、非常に直接的な刺激を与えるのである。今でも「何々に学べ」式の殉教記録ともいうべきものは、一種の扇動文書として広く活用されているのを見ても、これの効果は明らかである。
    式部の弟子は、前述のように公家の若者たちだが、青年がこういう書に接すれば結果は明らかで、たちまちそこに「ゼンガクレン」的なムードが盛り上がり、いわば「公家連」ともいうべきものが出来て、明けても暮れても、大議論に熱中するという有様になってしまった。
    するとその中に、まずは予定通りに「過激派グループ」が生まれ、軍事優先の「軍学グループ」がそれから生まれ、そこから超過激派が生まれて、「鉄砲から政権が生まれる」とばかりに、弓よ馬術よ、剣術よと熱中し出し、ついには禁中で剣術の立合いをするほどにエスカレートしてしまった。
    こうなると「大学の自治」ならぬ「朝廷の自治」に汲々たる上層部は心配でたまらない。所司代(幕府の京都所司代)が禁中に機動隊でも入れるような事態になったら天下騒然としてくるし、自分の責任問題にもなるし、朝廷の自治を犯されるのは由々しき問題になるから、早々に処置してしまおうと考えた。そこで関白一乗道香は内々に竹内式部のことを調べた上、密かにこれを所司代に告発した。(中略)
    ところが、告発をうけとった所司代松平照高にしてみれれば、たかが一介の「ただの市民」の「学習会」を所司代が取り調べるなどということは、まことにばかばかしい話なのである。そこで、自分が乗り出すまでもあるまいと考え、京都の町奉行に、「ま、一応取り調べだけはしておけ」と命じておいた。いわば所轄の警察署に一応は調べさせたということであろう。
    町奉行も一応調べたものの、「日本書紀」にしろ「保険大紀」にしろ「靖献遺言」にしろ、別に禁書でもないし、明白な罪跡があるわけでなし、何という問題もありそうもないので、そのまま釈放した。一七五六年のことである。(中略)
    問題の元兇を警察に通報したのに警察が取り合わない。すると「公家連」は何やらわけのわからなうスローガンをかかげて、ますます暴れる。それに便乗して、警察通報の責任糾弾するものもあれば、これを派閥争いに利用する者、地位獲得や反対派追い落としに利用する者等々が現れ、それが全員「大義名分」をかかげてやるから、後でその経過を追ってみても、さっぱりわからない。(中略)
    いずれにしろ結局は「正常化運動」派の勝利になって、一条道香にかわって関白になった近衛内前が、「公家連」一派を全員処分してしまった。だが「公家連」はそれでよいとしても、火元である竹内式部は朝廷の人間ではないから、これは処分できない。これでこまった近衛内前は、どうか式部を京都から追放してほしいと、またまた所司代に頼み込んだ。(中略)所司代にしてみれば、こううるさく頼み込まれては、何とかしなければならない。そこでまた京都町奉行に命じて式部を取り調べさせた。
    このときただ一人、決断所にたった式部の位置は非常に興味深い。彼は全くの孤立無援の人であった。山崎闇斎の孫弟子とはいえ、闇斎自身が一介の民間人にすぎず、しかも彼は、彼の直接の師である松岡仲良とは意見を異にして波紋されている。そして朝廷からは逆に告発されている。幕府はもちろん彼に好意をもっているわけでなく、不問にすることはあっても庇護することはありえない。あらゆる権力に見捨てられ、しかも彼自身は、当時の社会において何の権利もみとめられないに等しい一介の町医の子である。従って彼の身を守るものがあるとすれば、それはただ一つ、だれ触れ得ない一つの「思想の権威」だけであった。
    町奉行の尋問の細かい部分は除く。ようやくすれば、いかなる誘導尋問を試みても、結局は彼を罪人として追放することはできないことが、明白になってくるだけである。奉行が適用しようとしたのは、今でいえば「騒擾罪」であろう。(中略)結局、式部は京都から追放される。しかしその罪状は、奉行の自白を裏書きしているにすぎない。すなわち(一)神書を講ずると称して「靖献遺言」などをも講じたこと、(二)公家の青年と酒を飲んだこと、の二つである。(一)は全く理由にならない。彼は堂々と儒学を講ずると言明しているからである。(二)はさらに理由にならない。公家の青年と酒を飲んではならないなどという法律は、当時の日本のどこを探しても見当たらない。

    P.113
    日本が中国に対等であろうとするとき、そこにdてくるのは常に中国からの文化的独立という姿勢なのである。といっても、中国の影響力は余りに決定的なので、中国文化を否定すれば自己を否定することになってしまう。こういう場合、結局は他の国々がやったと同じように、中国の隣接諸国への文化的支配の形態をそのまま自国に移入して、これで中国に対抗するという形にならざるを得ないのである。
    一つの政治体制の確立には、必ず内部的要因があるが、日本において常に見落とされているのが、天皇制成立を外部的要因としての中国の影響、いわば「対中国」という意識が、常に天皇制保持の要因の一つであったという事実である。

    P.129
    中国の影響を圧倒的に受けると、当然それへの反発も生ずる。一方、現実の中国は「満洲族国」になっている。従って満洲族国を中国と認めずという朱舜水的考え方を一方的に変形すると、中国への反発が満洲族国へと移転して、「あれは夷であって中国ではなく、日本こそ本当の中国だ」という考え方が出てきても不思議ではない。
    この考え方は実に根強く、第二次大戦まで残っており、日本が中国に居すわりを続けた一因にすらなっている。日本=中国論者の一人は山鹿遡行(一六二二ー八五年)で、彼は日本を、というよりむしろ天皇家を中心に再構成した過去の日本を「中朝」と呼び、「中朝事実」という本を書き、また次のように記している。

    P.134(宋から天皇へ贈り物があり、「賜日本国王物色」と書かれていたことに関して)
    いずれの国民であれ、国内問題の処理と外交問題の処理は、ほぼ同一の原則によっている。(中略)この場合古代天皇制は、中国式政治形態模倣政権だから、公家の人びとは、文化的権威と政治権力は一体不可分だという中国式の考え方に立っている。(中略)武家という政治権力の基本的な考え方、「二つの中国」を平等に認める、ただし、両者の自己に対する政治的権力は共に一切認めない、だが文化的権威だけは共に認める、という考え方の原型ともいえるであろう。(中略)すなわち幕府国は独立国であり、その政体も政権も、基本的に自ら創出し自ら樹立したものであるから、だれの指示を受ける必要もなり。従って一切の「内政干渉」は拒否するが、天皇家であれ、中国であれ、それに文化的権威があるならば、あるという事実は、共に認めよう、という態度である。(中略)公家にはこの考え方が全くないから、文化的権威を認めることは政治的従属であると考え、そこで「賜」という一字が大問題になってしまう。ところがこの公家的な考え方事態が実は中国の考え方のそのままの模倣なのだから、こういう考え方で中国に対した人びと、そして強行意見を吐いた人びとは、一見「対中国強硬派・対等派」のように見えて、実は、完全な「中国的思想従属派」なのである。

    P.262
    琉球は「両属の国」である。しかし日本は廃藩置県と同時に、これを一方的に鹿児島県へ編入した。そして翌年、琉球王尚泰を琉球藩主として華族にし、十二年(一八七九年)、琉球藩を沖縄県とした。明治四年というと深刻は長髪賊の乱のときであるから、いささか相手国のどさくさにまぎれて、既成事実をつくってしまった感がある。
    十二年の置県と同時に清国から抗議が来て、いわゆるグラントの仲裁となった。これによって十三年(一八八〇年)に出来上がった協定は「沖縄分裂案」で、それでは宮古・八重山両群島は中国領であって日本領ではない。
    日本側はこれを承認し、中国側は拒否した。従って中国側に関する限り、沖縄の帰属は今なお法的には未確定の問題である。また日本側に関する限り、宮古・八重山両群島は日本領ではない。従って将来情勢の変化とともに、中国が、沖縄全島もしくは宮古・八重山両群島を中国領だと主張しだすことがあっても、別に驚くにあたらないし、根拠のないことではない。
    そしてこういう問題を、何らかの機会に法的に決着をつけておかないのは、日本の「悪しき伝統」の一つかもしれない。

    P.281
    尊皇思想は(中略)、朝廷とは関係なく、「内なる中国」の絶対化から「内なる天皇」の絶対化へと進んだ。(中略)「尊中」「尊皇」においては、「外なる中国」や「外なる天皇」が、自らの意思で自分たちに対立することは、ありえないはずで、あると仮定すれば「尊」という思想は成り立たないのである。
    従って、このありえないことが現実になったとき、彼らは常に、二つの態度しかとりえない。すなわち「外なる中国」「外なる天皇」の意思を、絶対者なる自らの「内なる中国」「内なる天皇」の意思として、進んでこれに土下座し、相手の意思通りに「内なるイメージ」を改変すべくひたすら「反省」し、誤れるイメージを抱いていたことを懺悔して、相手の言葉をそのまま自らの言葉として悟るか、または、「内なる中国」「内なる天皇」をあくまでも絶対者として、その中国、その天皇のために「外なる中国」「外なる天皇」排除するか、もしくは自己のイメージに合一するように作り替えるか、という二者択一しかない。

    P.294
    アジアの国々は日本を”先進国”として見ているのでなく、”西欧化の先進国”と規定しているのである。この二つははっきり別である。先進国に学ぶのなら、直接西欧に学べばよい。だが「西欧化」は西欧に学ぶことは出来ない。

  • 勤王思想というのは実は輸入品であり、その思想の産物である天皇も、かつての絹同様に、実は輸入品なのである。

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