- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784396316822
感想・レビュー・書評
-
本能寺の変。
信長を弑逆したのは秀吉です。
これホントの話です。
元ネタは八切止夫の本ですね。そこから更に考証と想像を重ねて主張してます。
信じるか否かは読者次第。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
第2回(テーマフリー)
-
戦国時代の事件において、私が追いかけていたいものが3つありますが、関ヶ原・桶狭間と、この本のテーマの「本能寺の変」です。
本能寺の変は、明智光秀が単独で引き起こして、その敵を、秀吉(当時は羽柴秀吉)が討ったことになっていますが、果たしてそうなのでしょうか。かつてテレビ番組で、霊能師が明智光秀の霊と交信して、光秀は「大変残念に思っている」と伝えてきたことを記憶しています。このとき、誰かに騙されたのだろうと思いました。
それ以来、何冊かの陰謀論を説明した本を読んできました。この本では、明智光秀が事件を引き起こした様に見せかけるように陰で意図を引っ張ていたのは、秀吉という結論です。楽しく読ませてもらいました。
以下は気になったポイントです。
・本能寺の変は、黒幕の指示によって光秀が行ったわけではない。実行犯は、秀吉が組織した明智軍を名乗る疑似軍団が、織田信長父子を弑逆した、つまり、1)光秀は完全な冤罪、2)秀吉が仕組んだことで、実行犯は秀吉が組織した軍団(p17)
・光秀には本来、1万三千の兵はない。坂本21万石、亀山5万石、福知山3万石で、光秀直轄は6千人弱、各歴戦での消耗を考えると正味五千。1万三千の兵とは、50万石クラスの軍勢(p22)
・大雨後の昼なお暗い丹波街道を、1万3千の大軍での夜中行軍、三百近い騎馬団のまったく月明りのない闇夜の山越えは無理である。(p23)
・実証史学で結論付けると、1)明智光秀には、「一万三千の兵」があり得ない、2)そうだとしても、亀山から京までの夜中行軍は不可能(p25)
・信長の約50回の上洛中、天正年間の「本能寺泊」は、たったの2回、通常は妙覚寺の20回、誠人親王に献上する前の二条御所が14回、相国寺泊が6回等(p32)
・秀吉の、大工事による高松城の水攻めは、実は行われていない(p37)
・表向きは信長と毛利との起請文に見えるが、中には(第二条)紛れもなく、秀吉と毛利家(輝元・吉川元春・小早川隆景)に対する保全がある。豊臣政権下では、毛利6万石だった隆景は、63万石となり五大老の一人となった(p59)
・以下のような状況下であれば、秀吉麾下の兵士たちは過酷な負担がかかる中国大返しは不要であった。1)秀吉は本能寺の変を予め予測していた、2)小早川隆景との間で、事変勃発後も秀吉軍の東上を合意していた(p66)
・天正4年(1576)の石山本願寺攻めにおいて窮地に陥った光秀軍を、信長は自ら戦陣の戦闘に立って、門徒勢を打ち破って救出した。信長は足に鉄砲傷を受けたほど(p75)
・光秀の坂本城を長菱形の扇の要として据え、安土城・長浜城・大溝城(信行の子、信澄)により、信長の最重要拠点を形成していた(p79)
・秀吉には、弟・秀長、姉(秀次母)や妹(旭姫)以外にも、弟妹がいたが、名乗り出た彼らの首は冷酷で残忍にも切られた。すでに関白に成り上がっていた自分の出生の賤しさと、母の(男関係の)恥部を消すために犠牲になった(p86)
・信雄(次男)、信孝(三男)を後目に、自分の養子である秀勝(信長4男)を主に仕立て、秀吉はさながら葬儀委員長を務め、信長の葬儀を、天正10年10月に行った。秀吉が信長の後継者であることを天下に知らしめた(p98)
・吉田兼倶が政治手腕を発揮して、出雲大社のような大社以外の地方神社は、事実上すべてが吉田神社の支配下に入ることになったが、中央圏ではあと一歩の段階であった(p140)
・吉田兼見、細川藤孝、里村紹芭の三人は、秀吉の陰謀による「本能寺の変」が起こるべくして起きること、「山崎の合戦」が起こり得ることをターゲットとして、チームワークよろしく暗躍していた(p174)
・山崎の合戦の翌日、6月14日、織田信孝と秀吉は、塔の森にて、正親町天皇の勅使として、権中納言・勧修寺晴豊、誠仁親王の御使いとして権中納言・広橋兼勝の両公卿から、太刀を下賜された。これにより、信孝は兄の信雄よりも、秀吉は同僚の重臣よりも天下盗りへ大きく抜きんでた(p212)
・安土城炎上の実行犯は、明智秀満はもとより論外であり、通説上の織田信雄でもないとすると、実行犯は蒲生氏郷しかない。織田信長時代、日野4万石の氏郷が秀吉天下でなぜ破格の92万石となったのか、実弟秀長の100万石、丹羽長秀の140万石につぐ大身である(p226)
・本能寺急襲した実行隊の隊長は、秀吉の正室ねねの伯父である杉原家次で、羽柴秀長・蜂須賀正勝・川並衆から選りすぐった精鋭部隊、計二千有余の、ほぼ身内で固めた特殊軍団である。さらには細川藤孝、蒲生氏郷等の地元誘導班の数百名(p227)
・明智光秀討伐に成功すると、蒲生氏郷と応援隊は、速やかに安土城を炎上させる。足止めされていた織田信雄が安土城に駆け付けた時には、灰燼に帰していた(p230)
2016年5月22日作成