放射能問題に立ち向かう哲学 (筑摩選書 59)

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  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480015648

作品紹介・あらすじ

3.11後の放射能問題は依然として暗い影を投げ続ける。不要な被曝をしてしまった不快と不安、不信などの「不の感覚」が蔓延し、それが復興の妨げにすらなっている。一方で「正しい」と思われる行為が他方で他者を苦しめる。「道徳のディレンマ」と呼ぶべきこの不条理を、超克することはできるのか-。一哲学者が、自問反復しながら徹底して理性で問い詰め、事態の混沌に明るみをもたらそうと格闘した思考の軌跡。

感想・レビュー・書評

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  • 原発事故から2年で上梓された本。放射能への態度はどうあるべきだったのか、誤解を怖れず真摯に書かれている。哲学者が今これを思考しなくてどうするという高い職業意識が感じられる。長期低線量被爆のリスクと長期避難のリスクがちゃんと比較検証されていないというのは全くその通りだ。自分は脱原発派にしてかつ農産物忌避や西日本への避難という態度にも疑問を感じていたので同感である。

    [more]<blockquote>P013 「原発の是非」と「放射能の健康影響」の問題はなぜか結びつけられてしまう傾向があるが、事柄として別個で独立である。校内暴力が発生して怪我をした生徒を診る校医が怪我の程度を重症だとか軽度だとか診断することが、校内暴力の容認如何とは関係ないのと全く同様である。

    P015 津波震災で亡くなった犠牲者の方々の、そして津波震災/原発事故によって避難生活を強いられている方々の被害性は、原発事故の放射能による被害よりも、その緊急性、実態に照らしてはるかに甚大であるという理解をまず押さえたい。

    P031 放射線による被害≠放射線を避けることによる被害
    二つの被害性は同じどころか、むしろ反対であると見てよい。一方の被害を被ることは他方の被害を免れる可能性をもたらすのである。(ストレスや物資の供給等での被害はあるので厳密に排反なわけではないが、自宅に留まることと避難所暮らしの本質的相違はけっして無視できない)

    P042 実験哲学を主導しているジョシュア・ノーブの実験
    人がなした功績は軽視されがちであり、責任帰属や非難は重視されがちなのである。「信頼の非対称性原理」とよばれる現象と似ている。

    P084 どうにもやるせない事態である。不安を感じている一般の人々よりも放射線について時間を費やして専門的な研究をして来た専門家が、いくら安全だと言っても却って不安を煽ってしまうのである。「危険だ」と言ってもらいたい、というのである。学者とか研究というのはいったいなんなのだろう。いったい何が人々の心に起こっているのだろう。【中略】専門家の「安全」の評価と消費者の「安心」が乖離し、かくして「安全」は「安心」に結びつかなくなってしまった。

    P126 誠に因果関係というのは手強い。しかしこれなしで私たちの世界理解はありえないし、責任帰属も成り立たない。というより実は「原因」と「責任」はもともと同じなのである。(日本語の「○○のせい」)

    P159 予防原則により規制しようとするリスク(目標リスク)に対し、予防原則そのものが原因となって予期しないリスク(対抗リスク)を生じさせるかもしれない(標 宣男)

    P172 福島原発事故に対して「予防原則」をダイレクトに当てはめ続けて被爆リスクを避ける、という方針を実行したり、そういう方針を実行すべきと論じたり、あるいはその実行を示唆したりすることが、逆に少なからぬ人々を死に至らしめるような、重篤な被害性を発生させるという点である。

    P188 実際私たちは、借金するかしないかという白か黒かの二分法では考えない。「どれくらい」の額の借金なのかが重要なのである。【中略】もちろん私たちは、いつでもリスク・ベネフィットの定量的判断を正しく行なえるわけではないし、確率の算定は難しい。さらに専門的知見のない事柄について短時間に判断しなければならない場合は、信頼できそうな人の意見に従うとか、好感情を抱いた専門家の意見に従うとかいわゆる「感情ヒューリスティック」とよばれるショートカットのやり方をとりがちである。しかしここが考えどころである。

    P212 最も物議をかもしているのは、直線しきい値なし仮説である。【中略】「確定的影響」に関しては、それぞれの症状に関して「しきい値」即ちそれより低線量ならばその症状は出ないがそれを超えると症状が出るという線量値があると考えられている。しかし発ガンやガン死についての「確率的影響」に関しては、果たしてしきい値があるのかどうか確実なことはわかっておらず、安全側に立ってLNT仮説がしばしば採用されているわけである。

    P243 程度の問題という様相をしっかりと飲み込んだ上で「より正しい」シナリオを模索するべきなのである。

    P248 安全や健康を論じるというのは、いつも「死」を論じるということと背中合わせなのである。【中略】「死すべき者(mortal)」である私たち人間、そしてすべての生物の生き様について、沈潜して思考していく機会である。</blockquote>

  • 原発の問題に対しては何となく違和感があった。原発は人間には手におえないシロモノで、私自身は、即刻すべての原子力による発電をやめるべきだ、と20年以上前から考えている。デモや何やと反対運動が盛り上がるのは悪いことではない。お祭り騒ぎでも、今まで何も考えていなかった人が考えるきっかけになるのはよい。しかし、放射線に対する恐怖感のようなものが、何か違っているような気がする。医療による放射線はもちろん、それ以外でもこの自然界に生きている限りは何らかの放射線を常にあびている。そして、たとえばガンになるということが、放射線が原因なのかどうかなんとも言えない場合が多い。タバコの煙は目にも見えるし、自分が好んで吸っている人自身はともかく、まわりの人間にも影響があるので、ほかに人がいるところでタバコを吸うのは良くないと思う。タバコ自体の害については、何らかの影響があるのは確かだろうが、タバコをやめることでかえってストレスがたまり、早死にしそうだと言いながら、ヘビースモーカーであることをやめないまま、結局大やけどが原因でこの世を去ってしまった人もいる。(森先生ならこの放射線の問題はどう考えただろう。)電磁波の問題だって、放射線と似たり寄ったりでわからないことが多い。携帯電話は大丈夫なのか、電磁調理器は、パソコンは・・・。もうここまで来てしまうと、それらにおびえて、何もない自然の世界で生活するということもしづらいし、ほとんどの人は思考停止のまま生活をしていくのだろう。本書を読む中で、はっきりとした答えは出せないのだ、ということが論理的に間違っているわけではない、ということが確信できた。モヤッとした感じだけれど、スキッとした。考えなければいけない問題は、強制的に避難させられて、生活環境が変わったことが原因で、死期が早まったりする人がいるということだろう。年寄りであれば、仮に今回の事故による放射線が原因でガンを発症したとしても(そんなこと分かりっこないのだが)、10年以上生き続けられる可能性も高い。同じ地域の住民は一律同じように退避させるというのではなく、年齢や個人の条件によって選ぶことができる、そういうゆるやかな施策が必要なのだろうと思う。

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著者プロフィール

1957年生まれ。東京大学大学院哲学専攻博士課程修了。博士(文学)。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。和辻哲郎文化賞、中村元賞受賞。著書に、『人格知識論の生成』(東京大学出版会、1997)、『原因と結果の迷宮』(勁草書房、2001)、『死の所有』(東京大学出版会、2011)、『確率と曖昧性の哲学』(岩波書店、2011)など。

「2020年 『人間知性研究〈普及版〉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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