- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480036902
作品紹介・あらすじ
あまりにも多くの人たちが日本の古典とは遠いところにいると気づかされた著者は、『枕草子』『源氏物語』などの古典の現代語訳をはじめた。「古典とはこんなに面白い」「古典はけっして裏切らない」ことを知ってほしいのだ。どうすれば古典が「わかる」ようになるかを具体例を挙げ、独特な語り口で興味深く教授する最良の入門書。
感想・レビュー・書評
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よくわかる、というよりは、古典に対する敷居の高さをぐっと低くするための好著。
古典のよみにくさのカギとなるのは、どう書かれていたかだと筆者は説く。漢文・ひらがなのみ・漢字×カタカナの書き下し文から、漢字×ひらがなの和漢混淆文へ至る文体の変遷を追うことで、上代から鎌倉後期までの文学史が辿れるというわけで。
著者の語り口が巧みだ…と思ったのは『徒然草』について語る第6章。有名だが訳しづらいフレーズ「おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざなれば…」を「思っていることを言わないと腹がふくれる=欲求不満になる」と解きほぐす。で、その"思っていること"が何か、つまり引用箇所の直前に何が書かれているかは章の後半で紹介されるのだが、それにくすりとさせられ、兼好法師と私の距離感がぐぐっと縮まる。うわあ古典おもしろ! となるのはある程度もとからこういうのが好きだからかもしれないが、でも人に勧めたくなる本なのは確か。 -
著者のファンである。
この人のくどい解釈がそのしつこさが、わかりやすさと言うものを追求を伴って、本題にある結論に行き着く作りが良い。
古典は体で覚えることであり、きれいだと思う月や空と言う景色に感情とともに増えることであると思い起こさせてくれる。
それが日本語である。
そう思わせてくれる平安時代及び鎌倉時代の代表的古典に触れることで、話し言葉の重要性を説いている。
暗記が苦手な人が、暗記したくなる古典と言う解釈に行き着くであろう良書。 -
これは良い本。古典に苦手意識を持ってる子にすすめてあげたい。
和漢混淆文の成立を軸に、日本語の文字や文体の歴史、古典作品との向き合い方を教えてくれる。
文法的には授業で教えるのと少し違う説明をしている部分もあるけど、そういう細かいところはどんまい。全体像が見えるようになるのが大事。 -
難しいことを分かりやすく書く天才の本。実に参考になります、そこだけでも
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職場の大先輩からの頂き物。
これで古典(との向き合い方)がよくわかる、といった趣きの良書。
古単語のゴロ合わせやら助動詞の働きやらを萌え絵やマンガで解説する参考書の類を何十冊読むよりも、この本で「なぜ古文はわからないのか」をレクチャーされた方が、よっぽど「生きた」古典への理解が深まりましょう。
とは云えコレだけでいきなりセンター古文で満点取れるようになったりはしないので、まだ時間がある高校1・2年生、その指導者、もう受験の必要がなくなった大人向け?
「古典は、体で覚えるもの」とか超納得。
私も中学生時代、『枕草子』『平家物語』『奥の細道』の冒頭文を暗唱させられたものですが、20年経ってもまだ諳んじること出来ますもんね。一度身体に叩き込まれたことってなかなか忘れないもんです。どんなに学習指導要領が変わっても、中学古典名物「冒頭文の暗唱」だけはやめないでいただきたい。
そしてせっかく覚えた文章(なり和歌なり)に血を通わせるためには、「”きれい”ということ」をわからなきゃ!ってもう眼からウロコでした。
桜の美しさに感動しまくった人が詠んだ歌を「意味わかんね」で片付けてしまう人は、じゃあってんで「意味」を教えてもやっぱり「全然わかんね」って顔してることが多いかも。まあ私の教え方がマズかったんじゃないかというのはこの際置いておいて、そもそもその人自身が桜の美しさに感動したことがないという可能性は大いにあり得るような。桜の美しさに心打たれていれば、和歌そのものの「意味(現代語訳)」を正確には知らなくても、なんかイイ気分で口ずさめるような気がするんですよね私の場合。
そんな事を考えながら読んでいたら、ただでさえ山のように積みあがっている「読みたい本」の中に、古典文学まで加わってしまいました。 -
世界価値観調査によると、日本人の世俗性は世界トップクラスです。
世俗性というのは、言い換えると、ミーハー(新しいモノ好き、古いものはダサいと思う)で、
また、物事に対して、損か得かの判断をとても重視するということです。
この特性からいうと、古典を学ぼう、学びなおそうという人は、
確実に少数派になります。
それでもなぜ学ぶのか?
①試験・受験に必要だから
②面白いから
③強制的に学ばされているから
毎年、何万点も書籍は出版されていますが、
その中で10年後、価値あると言われる本は1%もありません。
20年後、30年後になると、0.01%以下になります。
古典と呼ばれるものになると100年の経年数は余裕でありますから、
出版された出版物の中からすると、何千分の一の確率で生き残っているということになります。
つまり奇跡に近いものです。
では、1000年前になると、どうか?
本が生き残る条件は何か?
それは、不特定多数の人が、その本に価値を認めたことになります。
自分が面白いと思っても、他人が面白くないと思ったら、
残らない可能性が高い。
また学術的価値が高いとか、芸術性とか、いろんな判断基準で、価値を測りますが、
古典というのは、「偉い」というのは間違いありません。
ただ、この「偉い」は、権威的にならざるを得ない宿命にあるのか、
わかりませんが、日本人は、特に権威を嫌います。
古典を忌避する理由の一つが、この権威性かもしれません。
また、「わからない」ということが、非常に怖く思ってしまう人が多い。
オトナになると、ますます、わからない、知らない、できないを、
認めたくならないように、なります。
著者の論の進め方は、非常に丁寧です。
古典を怖がらないでくださいと言っています。
古典=わからないもの、難しいものであることを認めた上で、
現在の私たちが、わかるもの(箇所)もたくさんあるとして、
多くの例を挙げてます。多くが、古典で出だしの部分です。
著者は、枕草子から、源氏物語、平家物語の逐語訳の名手です。
氏ほど、日本の古典から現代的な意味での知恵を引き出した人はいません。
それは、古代人も、現代人も、共通するものは、たくさんあるし、
また、新鮮味があるとしています。
日本人は、どこまでもいっても世俗的ですが、
新しいモノを、すぐに取り入れることに長けています。
ただ、今はその新しいモノが欠乏しています。
もう取り入れるモノがない、飽和状態になっています。
その時に、過去から学ぶことは、誰でも思いつくことですが、
できる人は、ほとんどいません。
しかし、やろうとしている人は、豊かな人生を手に入れたものと、
同義と言えるかもしれません。
著者は、既に故人となりました。
非常に残念ですが、膨大な量の書籍を私たちに残してくれました。
おそらく一生かかっても、著者の見識には到達できません、
現在の混迷な時代を生き抜く上で、著者の作品は、自分たちに、
多大なるヒントを与えてくれるのは、間違いないと思います。 -
橋本治節ッはこうでなくちゃヾ(≧∀≦*)ノ〃
壮大な知識人をまた一人見送らなくてはならない悔しさというか、無念さ…
溢れ出んばかりの想いと知識及び独特な見解がこの一冊に詰まっている。
とっても贅沢な作品。
橋本先生を感じることができる作品。
だから紙の本は止められない(笑)
古典好きにはたまらない一冊(*≧ω≦) -
*日本語の歴史。
文字はないけど言葉はあったところに、漢字がやって来る。漢文の時代。英語にカタカナでルビをふるように、レ点をわきにふって読む。(古事記、日本書紀)
→漢字の読みだけを拝借した万葉仮名。(万葉集)
→漢字を崩して読みだけを拝借したひらがな。(竹取物語)
→ひらがなで、より複雑な内容も書き表すようになる。(源氏物語、枕草子)
→書き下し文方式で漢字+カタカナの和漢混淆文。(方丈記)
→漢字+ひらがなの和漢混淆文。やっと現代文の原型といえる形。(徒然草)
↑こうした変化が大体100~200年周期で起こった。という話。
*昔の人たちもその時代の現代人。今の私たちと一緒だよ、という話。源実朝は都会に憧れる、田舎の中小企業社長の息子でオタク青年の元祖だとか、兼好法師はパッとしないサラリーマンだったが会社が倒産して、でもそこそこ豊かな家の子だったから再就職せずぶらぶらして、そのまま物書きになったとか。
*古文がわかるようになるには、辞書なんかひかなくていいから古文を浴びるように読んで口ずさみ暗唱し、とにかく慣れることだ、という話。
*「大江戸歌舞伎はこんなもの」という別の本を読んだときも思ったが、橋本治さんのものの言い方はわりと強引で、理屈と例証と裏付けと文章の巧さによってスマートに納得させる、というよりは、俺はこう思う、こう理解してる、そうするとわかるぜ、な!という力業。それも、(どうせ古文も歴史も正解なんてわからないんだし)とっかかりにはこういうのこそ大事なんだ!という確信犯。好みは別れるところで、正直、私は好きですと言い切れるほど好きでもないのだが、確かにとっかかりには良いと思う。 -
難しそうなイメージで今まで手付かずの分野。古典の楽しみ方を知っている人の視点を知りたくて興味を持った本。