サブカル・ニッポンの新自由主義: 既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書 747)

著者 :
  • 筑摩書房
3.26
  • (7)
  • (23)
  • (57)
  • (8)
  • (2)
本棚登録 : 398
感想 : 32
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480064547

作品紹介・あらすじ

生き方のルールが変わった。個人の「能力」が評価軸の中心となった。だがそれは激しい競争へと私たちを駆り立て、マッチョであることを要求する。こうした新自由主義のモードが「サブカル社会ニッポン」を覆い、さまざまな「ねじれ」を生んでいる。ネット先進国たる韓国、米国の事例をも取り上げ、新自由主義がいかなるルーツを持っているのか、これに対抗しうる拠点はないのか、サブカルの可能性を見据えつつ、深く鋭く迫る。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  いわゆる「新自由主義」を批判した本。テーマ自体は有り触れているが、ネットやメディア上の動きを扱う視点は面白い。

     「新自由主義」というと小泉内閣の郵政や道路公団の民営化に見られるような規制緩和・小さな政府路線のことと取られがちだが、この本では同内閣の採った「あいつらは不当に利益を貪っている」という「既得権批判」が新自由主義的な考え方として採り上げられている。

     その「既得権」というのは人によって変わります。高級官僚の天下りが既得権とされることはよくありますが、高齢者や障碍者、在日外国人などが「差別」を俎上に載せて「弱者利権=既得権」を貪っているとされることもある。その是非は別として、特に後者はネット上でバッシングの対象になることが多い。この流れも著者の見解に従えば新自由主義的と言えるものだろう。

     著者の考える新自由主義の大きな問題点は、「こうせざるを得ない」と宿命的に考えてしまうというもの。追い詰められた者は時に犯罪など、取り返しの付かないことをしてしまう場合も多い。

     「苦しい」と声を挙げられる環境を作ることが、追い詰められることで犯罪に走る人を減らし、私たちが「ほんとうに幸せ」になるための一歩になるというのには賛同できた。

  • サブカル民主主義
    対抗文化としてのサブカルが消費社会に馴化し、批評性を失い、民主主義自体すらサブカル化

    利益指向仮説 村上泰亮

  • 社会

  • <blockquote>だが誰にとっても重要なのは、ゲームのルールは変ってしまったということなのだ。私たちは、二人三脚のように肩を組んでそろってゴールすることを求める社会から、足を組んでいたロープを解かれ、ばらばらに走り出すことを求める社会に放り込まれてしまった。(P.75)</blockquote>
    <blockquote>ここで求められている新しいゲームのプレーヤーが持つべき能力とは、端的に言って【クリエイティブ(創造的)】であることだ。(P.78)</blockquote>
    <blockquote>おそらくいま生じている正社員モデルへの回帰は、「あなたらしい生き方」なるものの「虚構性」を目の当たりにした人々の、「実」を求める心性の表れであろう。(P.66)</blockquote>
    セーフティーネットがセーフティーネットとして機能するかどうかは"落ちて"みないと分からない。そして、そのことは省みられていない。その精神的不安がいまの社会の焦燥感、閉塞感に繋がっているのではないか。

  • 社会・経済思想における特定の立場としてのネオリベラリズムを批判するのではなく、ネオリベラリズムの言説とその対抗言説のカップリングがその上で成り立っているような社会状況の、共時的な構造を分析した本として捉えることができるように思います。

    かつて多くの人が手にすることのできた安定した地位が失われた結果、一方では、既得権批判という仕方で資源の再分配を要求する言説が生まれ、他方では、そうした流動化が進んだ社会の中で不遇な立場に立たされる者たちによって、社会の流動化を推し進めるネオリベラリズムに批判的な言説が生まれることになります。本書の考察が向かうのは、こうしたネオリベラリズムをめぐる言説の布置を成り立たせている社会状況の分析です。

    ただ、ちょっと引っかかったのは、本書の最後で「既得権批判」をおこなう個人の動機にまで分析のメスを入れて、その実存的な構造に迫ろうとしているところです。著者はそうした実存的な切実さが、社会科学的な分析以前のところで、人びとを動かす動機となっていることを認めているようです。「なぜ、「苦しい」ということを言うために、わざわざ社会科学的な根拠を持ち出さなければならないのか」という著者の問いかけは、理解できるものではあります(著者の学問上の師である宮台真司の、システム論的な思考の限界を乗り越えようとする意図を、そこに見ることができるかもしれません)。ただ、そうした実存的な根拠を、私たちが暮らす社会を構築するための根拠とすることができるのかという疑問を感じてしまいます。もっとも、著者は本書の最後でそのような展望を示唆しているだけで、具体的な議論をおこなっているわけではないのですが、より具体的な議論を展開していくに際して、実存としての私たちが、実存としての資格において、社会について発言することができるのか、という問いを避けることはできないような気がします。

  • <まとめ>
    新自由主義を若者の視点で論じる。
    インターネットにより多様な生き方が並列され、理想の自由さ、幸福さを求めるが、自己責任からは逃れられない。韓国、1968年代の状況から評論水平展開・垂直展開し、若者にとっての新自由主義を考察する。

    <感想>
    自分も同じような年代のため、共感できることもあり、共感できるからこそ、不安を覚えることもありました。TBSラジオのライフリスナーのため、鈴木謙介さんの本を一度は読みたいと思い、読みました。
    若者とは言えない年齢ですが、10年後にその時代と比較しながら、再読したいと思います。

  •  新自由主義と現在日本をどう考えるべきか、若き社会学者が語る。

     今の日本に蔓延している若者のこんなはずじゃなかった感。それは上の世代のせいだ!などの既得権批判を生む。そこで新たな体制として競争社会へ行くのか、それとも助け合いの理想郷を目指すか、右派と左派は複雑に絡み合う。
     提言、結論としては分かりづらいが、巡る思考の中で様々な興味を感じ、さらに読みたい参考文献も多かった。
     現代社会を深く考える羅針盤となる一冊。

  • 『「疎外された自己」と「獲得された自己」との往復を、「カーニヴァル」と呼んでいる。』

  • ロストジェネレーション以降の社会動向や若者動向を、新自由主義という切り口から分析する本。

    社会現象を論理的に解析しつつ議論を組み立てていくため、正直のところ読み易くない本です。
    ですが、90年代以降の若者論がともすればステレオタイプ的に解釈されがちであるからこそ、あえてこのように慎重かつ丁寧に分析することも求められているのではないかとも思います。

    高度経済成長の終焉に伴い、市場の弱肉強食的な価値観が強化される時代であるからこそ、そこにとらわれない承認関係に基づく人間らしさが求められる…とまとめておくのが、本の論旨に比較的近いといえるのではないでしょうか。

    「ウェブ社会の思想」とはうって変わり(?)、サブカルはそこまで言及されていないので、サブカル論として読むと肩すかしかな…?とは思います。
    ただ、サブカル畑の人間には共有しやすい問題提起とは思うので、読んで損はないと思います。

  • 言葉が合わなかったのでぼんやり読んだ

  • 内容が難しくて何を言ってるのかよくわからなかった…。

  • なんというか消化にすごく時間がかかるし、読み終わった今でも全部理解できたのかと言われれば全然そんなことはない。けれども社会にでる一歩前、大学生の自分としては、そこで論じられている既得権やら労働における疎外の感情やらを自分とは他なるものとしてとらえることになった。それがいいとか悪いとかではなく、ただ今の時期に自分の幸せとか幸せに生きるとか、そういうことについて少しでも考える時間を得られたという点で読めて満足。

  • 世代論の本だったと思う。もう一度読み直したい。

  • 唸るー最終章というか結論としておっしゃっていることは多分理解できて同意というか同じこと考えてあるなー雲泥の差の出来だけども、なるほど!と思えたのですが、そこに至るまでの論がなかなか消化不良というかわかりませんせんせいいここわかりませんの連続でした。
    明言や断言を避けてとにかく掘り下げて行くという態度に平伏。確かにならではの深さがありました。でもわからない…抽象的すぎたか専門用語というか文脈が高度すぎて私などではついていけなかったところがばしばし。
    最終的に私は、自由とはなにか、ということをみっちり考えさせられるにいたりました。サブカル、と表題に出てくるのは効果的なのかということも考えました。少なくとも私は違う構え方をしてしまってたなー…最終的に確かにサブカルの話になるんですけど、サブカルに興味なくても絶対に面白い、社会や文化へお示唆に富みまくった一冊だと思います。
    とりま早急に読み直したい。
    鈴木氏は地方出身というファクターが、視線に膨らみと、私にとっての近さや理解の手助けを生み出しているかも、とも改めて。好きです。

  • 今仕事をやっていられるのは実力でそうなったと単に思い込んでいるだけ?ロストジェネレーション世代がそこから抜け出せないのはそう思い込まされているだけなのか?時代の空気で当たり前と思っていることに疑問を持つことに気づかせてくれた本。ただ、ロストジェネレーションの考え方はやはり難しい。

  • 新自由主義な日本で、どういう立場におかれた人間どんな論理で既得権批判を行っているのかを分析して、我々が取れる選択肢を提示している本。
    三行で解説すると、新自由主義な世の中では労働の能力を基本に評価されるから、そんな世の中で自己正当化するには絶え間ない努力か諦めが必要。そんなのは嫌だから、終身雇用とかの古いルールを引っ張り出す(がそんなものはもう無い)。新自由主義がイケテナイのは労働の能力だけで評価が決定してしまうからだが、だからと言って努力と成長を否定してあるべき姿だけで生きようとするのも考えものだし、酷薄な潰し合いに終始するのもいかがなものか。だとすると、自由主義的に成長する人間らしさと、足場とする共同体に承認される(本来の)人間らしさと、負けた際に保障される人間らしさが必要ではないか、という話でまとまる。
    個人的にはカリフォルニアン・イデオロギーについての話が面白かった。ヒッピーとハッカーの文化は、反権力・自由の尊重という共通点があるけれど、ヒッピーは人が本来あるように生きることを主張するのに対して、ハッカーは能力主義を主張するという差異がある。これが一緒くたになっているのがカリフォルニアン・イデオロギーらしい。ヒッピーはアナーキズムに、ハッカーはリバタリアニズムに通じる。ちなみに、自分は曲がりなりにもハッカー文化の中で生きていたので後者。
    本書によると、ハッカー文化は辛い労働をする日である金曜日を日曜日のように働く文化ということだが、まさにその通りだと思う。自分にとっては楽しくて、自由で、能力主義で、となると言うことはないのだけど、こうやって定義されると多分そういう仕事の仕方を望んでいない人は世の中にたくさんいるのだろうと想像できる。自分も好きでもない仕事で「ほら、能力主義だよ」とか言われてもそれはそれで困る。
    もしやりたいことがない人がいるとすれば、新自由主義な世の中って生きづらいのだろうと思う。そんなわけで、成長する人間らしさ以外のものも多分必要なんだろうな、と考えた一冊。

  • 著者が前に、新書の朝生化が起こっている、つまり単純な論理のトピックスで言い争うことで、明らかに違うことを主張する論者でも大きなカテゴリーに含まれてしまうということ、を危惧していたが、まさに本書は誤解を生みやすいような難しい論理展開のため、とても朝生では語れないだろう。

    自己を承認し合うシステムが必要だが、それが新自由主義を補完するようなカーニヴァルなものではいけない、という主張は最近話題のマイケル・サンデルの著者にも共通するものが見出せるが、これが書かれたのは2008年。流石気鋭の社会学者だと感じた。

  • [ 内容 ]
    生き方のルールが変わった。
    個人の「能力」が評価軸の中心となった。
    だがそれは激しい競争へと私たちを駆り立て、マッチョであることを要求する。
    こうした新自由主義のモードが「サブカル社会ニッポン」を覆い、さまざまな「ねじれ」を生んでいる。
    ネット先進国たる韓国、米国の事例をも取り上げ、新自由主義がいかなるルーツを持っているのか、これに対抗しうる拠点はないのか、サブカルの可能性を見据えつつ、深く鋭く迫る。

    [ 目次 ]
    第1章 既得権批判?流動化と安定の狭間で(サブカル・ニッポンの不安な世代 約束の土地、終身雇用 自己啓発する宿命論者)
    第2章 インターネットと反権威主義(改革の末路 理想としての「情報社会」 ハッカーとヒッピーの六八年)
    第3章 サブカル・ニッポンの新自由主義(新自由主義の本質とは何か 競合する「人間らしさ」へ向けて 「見られること」から「見ること」へ)

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 最初の既得権に関してはなるほどなと思った。

  • 持たざるものによる持てるもの=幸福なヤツ=既得権への怨嗟。その感情とどう向き合うかを、理屈(政治、経済、思想など)だけでなく感情の側面からも論じている。後者、特に他者に対する否定的な感情の高まりを沈めるための試論として筆者が提示する、「見られること」(=「本当の」しあわせを求めること)から「見ること」(=「本当に」しあわせになること)への転換(p.221〜)は、終わりなき/可能性に乏しい日常を生きるよりも、終わりある/可能性に溢れた日常を生きることを勧める宇野常寛『ゼロ年代の想像力』とも重なる主張だ。新自由主義、ネオリベラリズムといった語のあいまいな使用について考えるにも最適な一冊。ただし、茫漠と「生きづらい」と感じているような人間にとってはやや(かなり)ハードルの高い、抽象的な議論と思われる。

  • <目次>
    まえがき

    第1章 既得権批判―流動化と安定の狭間で
    1 サブカル・ニッポンの不安な世代
    2 約束の土地、終身雇用
    3 自己啓発する宿命論者

    第2章 インターネットと反権威主義
    1 改革の末路
    2 理想としての「情報社会」
    3 ハッカーとヒッピーの六八年

    第3章 サブカル・ニッポンの新自由主義
    1 新自由主義の本質とは何か
    2 競合する「人間らしさ」へ向けて
    3 「見られること」から「見ること」へ

    あとがき

  • ヒッピーとハッカーの相同性について

    興味深く読みました

    おもしろかったです

  • 2009/01/28

  • 宮台真司の弟子の本
    前半から中盤にかけては面白いが終盤はちょっと冗長かもしれない
    サブカルというものが社会的包摂を確保する場になる
    とうのは当たり前だが大事な結論だと思う

  •  

  • 2008/10/11 購入
    2008/10/21 読了 ★★★
    2009/10/09 読了

全32件中 1 - 30件を表示

著者プロフィール

関西学院大学准教授。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター客員研究員。専攻は理論社会学。ソーシャルメディアやIoT、VRなど、情報化社会の最新の事例研究と、政治哲学を中心とした理論的研究を架橋させながら、独自の社会理論を展開している。
著書に『カーニヴァル化する社会』(講談社、2005年)、『ウェブ社会のゆくえ─〈多孔化〉した現実のなかで』(NHK出版、2013年)、『未来を生きるスキル』(KADOKAWA、2019年)ほか多数。

「2022年 『グローバリゼーションとモビリティ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鈴木謙介の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×