勘定奉行の江戸時代 (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 11
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480071132

感想・レビュー・書評

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  • 勘定奉行というと荻原重秀が代表的かもですが
    地味に遠山景晋という学問吟味で見いだされた
    英才が印象深いです・・・元々勘定という武士
    にとって特殊技能は、家柄重視と思われる江戸
    時代においても実力本位であり、歴代の勘定奉
    行の中には後家人あがりで末端実務方から内部
    昇進を果たし奉行になったものが続出、更には
    「百姓と胡麻の油は搾るほど…」で有名な神尾
    春央に至っては伊豆の百姓で、代官の不当な裁
    判判決に不満を持ち、発奮して御家人株を買い
    成り上がったとまで言われる・・・実務優先の
    面白い幕府機構がありました(´・ω・`)

  • 叩き上げから就任した者を含めて勘定奉行達が、財政運営に限らず諸政策に深く関与していく様が興味深かった。

  • 江戸時代を通じて勘定奉行・勘定所がいかに重要な役職・役所であったか、また幕府経済がどのように破綻していったのかがわかる一冊

  • 江戸時代の勘定奉行を話の枕とした江戸幕府財政史を述べたのが本書である。勘定奉行は、道中奉行も兼任しており、江戸幕府の最高裁判機関に当る評定所は、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行により構成されていた。勘定奉行の権限は財政だけでなく、交通と司法も管轄していた。江戸時代中期以降には、老中から重要案件について諮問を受けて、三奉行の一員として幕府の重要政策の意思決定(主に対外政策)にも関わっていた。

    幕臣の役職について。旗本が出世できる幕府役職の格式は、駿府城代、留守居、大目付、町奉行、勘定奉行、作事奉行、普請奉行の順であり、幕臣にとっては、幕府役職の格式は、駿府城代、留守居、大目付が頂点だったが、職務上の権限は勘定奉行の方が上であった。「実質的に幕臣の役職の頂点に位置していた」(P.28)

    幕臣が勘定奉行に成りあがる出世コースには、番方役職から目付、長崎奉行を経て勘定奉行になる<目付コース>と勘定所内昇進、それ以外からの役人から昇進する<叩き上げコース>があった。前者がキャリアコース、後者はノンキャリアコースである。歴代の勘定奉行213名のうち、<目付コース>が108名で50.7%、内部昇進の叩き上げコースが23名で10%近くだった。10%という数字は小さいように見えるが、町奉行に成れる内部昇進がゼロだった江戸町奉行所と比べると内部昇進の機会がとても多かった。また御家人からの勘定奉行になったケースや隠密である御庭番から昇進した例もあるので、勘定所は実力主義であったと言えるだろう。

    幕府財政史について。江戸時代前期では、幕府直轄領からの年貢収入、金銀鉱山からの収益、外国貿易による収入があって、幕府の財政は黒字だった。その後に各地の鉱山の鉱脈が枯渇、とくに主要な輸出品かつ貿易通貨だった銀の産出量が激減したので、長崎貿易に制限額をつけざるを得なかった。鉱山と海外貿易からの年貢外収入が激減した。また、明暦の大火で江戸の城下再開発、さらに綱吉政権下での作事方の経費増大、具体的には寺社の普請・修復(寛永寺、増上寺、護国寺、湯島聖堂)、将軍の衣服・調度の経費の増大により、幕府は財政赤字に転落した。

    それらを時代背景として、元禄八年(1695年)に荻原重秀が主導して元禄の貨幣改鋳が行なわれる。大石慎三郎は『元禄時代』(岩波新書,1970年)などで、増大する当時の社会の貨幣需要に応えたとするマネタリーな要素を貨幣改鋳の主目的だったと主張しているが、貨幣改鋳による出目(所謂、マネタリーシニョリッジ)獲得による財政ファイナンスが主目的であって、貨幣量増大を狙ったマネタリー政策は副次的なものだったとしている。「元禄の貨幣改鋳とは、出目とよばれた改鋳金により財政収入を増やし、財政の好転を図ることが一番の目的だった。」(P.58)

    元禄の貨幣改鋳では、改鋳後の十一年間の名目米価上昇率は33%, 年率換算で3%のマイルドなインフレだったとする説に対しては肯定しているが、宝永の貨幣改鋳に触れられていないことにある。元禄の貨幣改鋳から十一年後の宝永の貨幣改鋳以降は、銀貨が主流だった「銀遣い地域(上方地域)」で物価高騰を招いてしまったとされる。「慶長金銀貨に比べて、また元禄丁銀・豆板銀と比較しても、まさに劣悪な貨幣と言わざるを得ない。」 (P.61) と手厳しい。

    荻原重秀の言葉とされる、「貨幣は国家が造る所、瓦礫をもってこれに代えるといえども、まさに行うべし、今、鋳するところの銅銭、悪銭といえども、なお紙鈔に勝る、これ遂行すべし」が載っているのは「三王外記」だが、三王外記は、将軍綱吉・家宣・家継の治世とその時代の風評を集めた書で、完全なゴシップ本である。筆者によれば、「なお『三王外記』には信憑性の薄い風聞も多く載せられているので、扱いには注意が必要である」(P.64)との事である。

    徳川吉宗による享保の改革では、財政危機により幕臣の俸禄支給さえできない状態であった。享保の改革では、倹約による徹底的な緊縮策と年貢収納を増やす政策、財政増を狙った新田開発が行なわれた。財源確保のために、勘定所の権限が大幅に拡大されたのがこの頃である。勘定所はここから単なる税収を扱う一機関ではなく、「さまざまな財政・経済政策を立案して実行する政策官庁」となった。(P.87) 吉宗政権下では、勘定奉行である神尾春央の主導で定免法と有毛検見法といった年貢徴収法の改革が行なわれた。これは実質的な増税であった。

    新田開発により、享保の改革中の1730年代には、江戸時代を通じて幕府領石高のピークを迎えた。米価は長期的には17世紀後半から18世紀前半にかけての米の生産量増大、短期的には新田開発や年貢増微により、米が他の商品に対して下がり続ける米の独歩安になった。これに対して幕府はさまざまな米価浮揚策を取った。その一つが元文の貨幣改鋳である。元文元年から貨幣改鋳が開始されるが、元禄の貨幣改鋳とは違い、元文金銀と正徳金銀の交換に割増をつけたので、幕府に発行益(出目)は生じなかった。つまり、財政ファイナンスではなく、純粋な貨幣流通量増大策であると言える。筆者は、「純粋な貨幣流通量増大を目指した政策はこの時だけである。」(P.103)と述べている。

    田沼時代について。一般には田沼意次は積極財政論者だと思われているが、実際に田沼意次が実行した政策は、享保の改革での政策を引き継いだ緊縮財政と増税である。田沼政権では、多角的な支出抑制策と年貢以外からの増税策、米価下落による大坂米市場の信用不安の鎮静化、印旛沼干拓工事に代表される各種の開発政策が志向された。

    緊縮策については、田沼政権下では各種の緊縮策が行なわれており、例えば天明三年の倹約令では、江戸幕府が財政支援のために、大名・旗本などに無利子に貸与した金銭である拝借金が廃止されてしまった。また朝廷への予算も削減されている。この頃には、商品生産の発展、農村工業の発達しており、商品生産と流通の活発化は金融の発達も促した。田沼政権では、財源確保のためにあらゆる商品に運上・冥和(雑税)が掛けられて増税が行なわれている。

    当時の大坂堂島米市場においては、米切手が多く流通していた。諸藩は財政難のために、現物の米の裏付けのない空米切手を乱発しており、それは信用不安を引き起こしていた。幕府は米価引き上げと藩財政救済のために、全国御用法令を出して、広く民間から徴税、その御用金を原資として大名に貸し付ける貸金会所を設置しようと試みたが、失敗に終わっている。結局のところ、田沼政権は、享保の改革での財政緊縮策を引き継いで財政支出削減と年貢増微増以外の増税策を行ったのが実情である。(P.151)

    文政・天保期以降では、引き続き財政支出の抑制が行なわれ、それを補填するために貨幣改鋳が頻繁に行われた。天保八年から十三年の間では、幕府財政収入の35%近くが貨幣改鋳益金に依存していた。(P.181) 貨幣改鋳に依存した財政運営は幕末まで続けられたと筆者による貨幣改鋳に対する評価は厳しい。

    「江戸時代の勘定奉行」という題名であるが、勘定奉行の話題は最初だけで、実質的には幕府財政史に関する本である。江戸時代に行われた貨幣改鋳の評価は、際限のない財政ファイナンスであったと手厳しいが、もう少し好意的に評価してもいいと感じられた。近世史の泰斗であって、内容はしっかりとしたものであり、文章はとても読み易く、おもしろかった。幕府財政史を知るには手軽に手に入れることができるので、大変お薦めです。

    評点 8.5点 / 10点

  • 身分制度ガチガチと思われる江戸時代において、実力者を登用していた勘定奉行。現在の財務省だけでなくて国土交通省や司法組織も兼ねていたスーパー組織だったのね。

  • <目次>
    第1章  勘定奉行は幕府の最重要役人
    第2章  御家人でも勘定奉行になれる
    第3章  財政危機の始まり
    第4章  行財政改革の取組み
    第5章  新たな経済政策の模索
    第6章  深まる財政危機
    第7章  財政破綻

    <内容>
    タイトルは”勘定奉行”だが、江戸時代中~晩期の経済史にもなっている。驚きは、勘定奉行は三奉行の一つなのに、ここだけ世襲の江戸時代において、実務官僚ゆえに、御家人からでも出世できた(いやいや一般の町人クラスからでも)唯一の役職だったということ。
    江戸時代の経済の基本は年貢=米だったので、貨幣経済の発達により、早晩破綻する流れだったのだが、勘定奉行はそれに抗うように様々な政策を出したが、抵抗勢力も多く、早急な結果が求められたこともあり、上手くはいかなかった。
    新書なので、かなり駆け足な内容だが、ざっくりとはわかる。高校生には厳しいかもしれないが、指導する側の教師が読んで損はないだろう。

  • どんな人が勘定奉行になったのか,勘定奉行へのキャリアパスはどのようなものであったのか,また勘定所の仕組みや役割などはどのようであったのいかについて前半で解説されている。後半は,実際に彼ら勘定奉行が何をおこなったのかについて,財政・金融政策を中心に述べられている。

    平易でわかりやすい叙述であるが,最新の研究成果も取り入れつつ,江戸時代の経済政策史がうまくまとめられていて,勉強になった。

  • 江戸時代、経済成長とその拡大から生じた米価の低迷・諸物価の高騰という難問に対処したのが勘定所。本書は幕府のお財布事情を通して江戸時代二百六十年余りを俯瞰したものだ。

    幕府の直轄地(天領)経営とそこから得た年貢米を中心とした収入を元に、将軍家の台所の遣り繰りから幕府財政全般を担うに至った勘定所は、計数に明るく実務に裏付けされた「仕事が出来る人」を必要とし、末端の吏僚からトップの奉行に上り詰める道が拓かれていた。
    それは家格によって江戸城中での席順・役職の振り出しからその上がりまで決まっていた幕府の組織の中で、極めて例外的な実力本位の部署だったと云える。そのことは勘定所に関わった面々を見れば明らかだろう。

    金さんの父親・遠山景晋のような典型的エリート旗本から、「国家が造る貨幣、国家が発行する信用貨幣は瓦礫でもよい、紙鈔に勝る(意訳)」と言い残したとされる荻原重秀、有名な「胡麻の油と百姓は…」の神尾春央に大型公共事業を推し進めた松本秀持、江戸開城の日に幕府に殉じた叩き上げの能吏・川路聖謨に至るまで、その出自と個性・キャリアパス、そして勘定所官僚として打ち出した政策も実に様々だ。

    その最期には外交・軍事案件にもコミットするようになったものの、大局を見据えた対応能力に限界があった、との著者の厳しい指摘に頷きつつ、「でもそれは政治家である幕府首脳の責任やないんかなー」という些か判官贔屓的な感想も抱いたりしましたが(まあ、これは個人的な感傷にすぎない)、江戸時代の経済を知るには有難い一冊。

  • 難しい!金の鋳造比率や重さを長々と数字を並べられてもよくわからない。
    結局勘定奉行は同時に何人かいたのか?
    年代を元号だけで西暦は時々しか出てこないので、時間の前後がわかりにくいのも難しい。
    最後も突然終わったという感じで全般的に読みにくい。

  • 東2法経図・開架 B1/7/1309/K

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著者プロフィール

東京大学名誉教授

「2022年 『もういちど読みとおす 山川 新日本史 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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