- Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480082442
作品紹介・あらすじ
たとえば、このドレスはわたしの身体を覆っているのだろうか。逆に晒しているとはいえないだろうか。たとえば、衣服は何をひたすら隠しているのだろうか。いやむしろ、何もないからこそ、あれほど飾りたてているのではないだろうか。ファッションは、自ら創出すると同時に裏切り、設定すると同時に瓦解させ、たえずおのれを超えてゆこうとする運動体である。そんなファッションを相反する動性に引き裂かれた状態、つまりディスプロポーションとしてとらえること、そしてそれを通じて、"わたし"の存在がまさにそれであるような、根源的ディスプロポーションのなかに分け入ってゆくこと、それが問題だ。サントリー学芸賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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一読しただけでは充分に理解できたとは言えませんが、かなり興味深い本でした。衣服と私の関係、私と私の関係、私と他者の関係、その間にあるもの、そこに揺れ動いてるものの正体……。衣服は本当に身体を覆い、隠すためにあるのだろうか?と著者は問う。衣服は肌を隠し、また逆に素肌を強調するものでもある。あるいは身体の輪郭をぼかしたり、明確に際立たせたりもする。見せる/隠すという相反する二つの運動を交叉させることで他者の視線を引き寄せる。髪を整え、化粧を施し、服を纏い、アクセサリーをも身につける。服を着ること、自己の装飾はそのまま身体の変容、突き詰めてゆくと自己の消失へと繋がっていく。一方でファッションは自己表現とも言われる。このパラドクスは何とも不思議である。まだまだ読み込みが浅いので再読したい。巻末の引用文献も面白そう。探して読んでみたいものばかり。
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現在イタリア在住なのですが、イタリアに来てから思うことは、女性のファッションセンスが違う!!ってかみんなセクシー!!(低俗な表現でごめんなさい)
なんでこんなスタイルやモードの違いがあるのだろうか? 『モードの迷宮』は、ファッション、化粧、整形手術などにおける露出や身体の変形を、美的感覚や合理性ではなく、セクシャリティーの観点、特に、他者(異性)から眼差しを受けること、それに応えることという観点から切り込むところにその真骨頂がある。
私は日本人で海外在住経験者が日本のファッションや化粧文化、見た目の文化に対していろいろと批判するのを聞くのが好きだ。その語りからその人それぞれのストーリーや文化的な揺らぎが見える気がするし、共感できることも多い。装い方はその人の生き方なのかもしれない。この『モードの迷宮』も様々なモードの見方や捉え方を考えさせられるという点で面白かった。
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ファッションは人に見られることで初めてファッションとして成り立つ。そして、人に見られることは、その眼差しを鏡として利用して、自分を見ることと同じだと思った。
ちぐはぐな体を読んでからの、コレは中々にハードルが高かった……文字だけ追いかけて頭に内容がまるで入ってない、、また再読したい、そのときには、理解できているようになっていたい、、
引用が多くて、哲学をほとんど知らない人間には、リテラシー不足すぎて 本当に分からないことが多かった無知だ〜〜
ただ、モードは、社会の空気を反映させてできるものだとわかってよかった -
阪大(大阪大学)を昔訪れたことがあって、本好きであった私は生協の書籍部も覗いてみようという気になった。鷲田先生は当時は助教授であったと記憶しているが、生協での鷲田先生の著作の揃いっぷりにやはり人気で花形の先生なんだろうな、という思いがした。そしてその後鷲田先生は阪大の総長にまでなられます。そんな鷲田先生の出世作(?たぶん) 本を整理していたら積読になっていた本書が出てきたので最近現象学に興味あることもあって読もうと思った。
「身体」と「衣服」についての諸考察が続く。例えばヴィクトリア朝時代の女性のコルセットについて触れ、それが命を脅かすような事態を招くことになろうとも、結局のところ周囲に蔓延する道徳観という縛りによってコルセットを付けるのをやめることができない、というような現象を引き合いにして、身体、もしくは「見る/見られる」ことについて文章が展開されていく。ロラン・バルトやメルロ=ポンティといった思想家の言葉も巧みに引用されていく。さすがに哲学とあって晦渋な表現も散見されるが、全体的に鮮やかな印象だった。
自分としては衣服の機能性についての考察がもっと深く掘り下げられるのかなと思っていたが、そのあたりは読む前の期待とは異なり、衣服よりはそれを着る「わたし」に対する考察がより巡らされているという印象だった。さすがに「じぶん・この不思議な存在」とか「普通をだれも教えてくれない」といった著作がある鷲田先生だなと思ったりした。
自分が知らないうちに何に縛られているのかを知ることはやはり何かから自由になるための一つの手段なんだろう。わかればあとはそこから逸脱するもよし、愉しく縛られるのもよし、なんだと思う。 -
3年たっても半分も読み進めない本、鷲田 清一の「モードの迷宮」。
エスプリ効いた言い回しでほのかにフランス文学の香りがするのはいいんだけど、私の頭があまり良くないのもあり、まぁ読みにくい
先日古本屋で見つけた同じく鷲田清一の「ちぐはぐな身体」、これおおよそモードの迷宮と似たような内容でめちゃくちゃ読みやすい
絶対こっちから読むべきだわ
これである程度理解してからモードの迷宮に再挑戦しようと思います -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/738613 -
鷲田清一といえば高校の現代文で学んだ記号論・身体論。この本でも繰り返し〈わたし〉の境界線はどこか、衣服は〈わたし〉を隠しているのか露わにしているのか(両義性)、といったことが訥々と論ぜられていて、懐かしの鷲田節。最初から最後まで一文読み進めるごとに新しい視座を与えてくれる。
数年前に読んだときは難解だなと思ったけど、再読したみたらすんなり読めた。 -
鷲田さんが40歳くらいの時に出された本か。。今の僕とほぼ同い年だけど、ここまでの感性でモノを書けるかな。。鷲田さんはこの時からすごく繊細なんだなぁ。ファッション、それはエロスを隠蔽しつつしかし欲望をかきたてるもの。相反するようなベクトルが働く場。
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難しかったし、読みにくい。全然理解できなかったけど、また読んでちゃんと体に染み込ませたい。ファッションというより、身体の知覚とか"わたし"の定義とかが語られている分、タイトルはなるほどという感じ。著者が哲学科の教授だったと聞いて納得。
ずっと読んでみたいなーとAmazonのカートに入れっぱなして数年(十数年かも)の本の著者でもあることを知って、改めて挑まねばならないなと感じた。 -
これはファッション誌「マリ・クレール」に掲載されたコラムを集めた小論集だが、
そのスタイルは襞の入り組んだ陰影に着目する彼にはちょうど良いかもしれない。
境界は動きとともにある。
完全に固定化された境界はただの図像であり、写真だ。
哲学者の鷲田が境界にこだわるのはそれが自我を包んでいると確信しているからだ。
境界は接点でもある。
鷲田は境界の揺らめきことに誘惑の匂いを嗅ぎつける。
誘惑とは、わたしたちの存在に対する可能性であり、
肯定する熱量の源泉であるように思う。
鷲田の美点はその
人間的な肯定の源泉を信じて掘る代わりに
人間そのものにフォーカスしないところだ。
空虚な人間概念を弄ぶことを避けて
衣服と視線そのものを見つめ続ける。
セクシーでも過剰さのない文体は女性誌に求められた男の視線であったかもしれない。
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コルセットも靴も、わたしたちの身体的動作を拘束し、制限しようという共通のポリシーで貫かれている。しかし何と言っても、わたしたちはじっと動かないでいるわけにはいかない。歩かないわけにもいかない。そこで、こうした拘束を旨とする衣料品に適合した別の身のこなし方、身体の別の使用法といったものが編みだされることになる。(p.50)
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この観察から
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ファッションの構造は、<自然>の<文化>への変換、あるいは<文化>への変換、あるいは<文化>の生成そのものと関わっている。(中略)何かを禁じ、抹消してゆく運動が、そのまま、禁じられ、抹消されるはずのものを喚起し、煽りたててしまうという、ファッションのパラドクシカルな運動を切開するための切り口もまた、ここに見いだすことができるとおもわれる。(p.54)
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このような帰結が導かれてはいるが、そもそものこの話のアイデアの中核はこちらであろう。
自由を禁じることに対する風当たりは強くなっているが、
これが文化に対する自然の朝鮮などではないことは明らかで別個の文化が戦っている。
ただし、基本的にはプラグマティズムによる反撃に過ぎない。
新しい衣服にあった動きを作るときに新しい文化のひらめく瞬間があり
そこで初めて別の現れをもたらすチャンスがあるということだ。
ヒールを履かないキャビンアテンダントは
しかし、制服をきちっと着ながら
マスクをミシン縫いしている姿でニュースに現れる。