- Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480087355
作品紹介・あらすじ
「フィルムはない。映画は死んだ」と言ってのけるドゥボールにかかっては、あのゴダールさえ小市民的に見えてしまう。芸術に限らず、思想も政治も経済も、「専門家」に任せきりで、鷹揚にお手並拝見と構えているうちに、いやおうなく「観客」であるしかないどころか、大仕掛けな茶番劇のエキストラに動員されてしまいかねない。こんな世界のありようと疎外感の大元を、本書は徹底的に腑分けしてくれる。ほんとうに「何一つ欠けるところのない本」だ。マルクスの転用から始まるこの本は今日、依然として一個のスキャンダル、飽くなき異義申立てと「状況の構築」のための道具であり、武器であることをやめていない。
感想・レビュー・書評
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文章がすごく難しく感じる。大事なことがかいてあるはず。。。
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これを理解して死ねるとは到底思えない
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訳文独特の文体と難解な内容のせいで読むのに時間がかかった。
だけど、面白いというのはなんとなく感じた。
過激な本。
たまにはこういう本を読むのもよいかも。 -
現代社会の閉塞感の原因をよく分析した名著といえる。オリンピックの強行開催により、大衆をオリンピックのエキストラに動員せんとする体制、それを阻止せんとするオリンピック中止運動などは、スペクタクルの社会に対する抗議の運動ととらえることができる。また地上波ではなくBS、CSを視聴する者が増加していることもスペクタクルの社会にたいする抗議ととらえることができる。
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内容はほとんど理解できていない。要再読。またマルクスの知識が必要。
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一読も理解が足らず。
要再読、精読。 -
戦うために戦う文章の連なりであり、
現象のまま、道連れに消え去ろうとする試みだ。
脱構築へと連なる流れの実践的な潮流がここにはありそうだ。
消費的なシュミラークルのお話かと思うと、それよりも
より広い視野のある本ではある。
ただ、戦う衝動が強すぎて、
不明瞭な敵を映し出していないかとは思う。
ガラスを殴れば自分の拳を怪我するだけだ。
傷ついた時に、それを敵の反撃だと言うのは愚かしい。
無数の断章としてきらめく知性は
いかにもツイッター中毒になりそうな感じである。
巻末に本編に劣らない解説がある。
20世紀後半に確かにあった人々の熱気が見えてくる力作だ。
>>
権力を握った全体主義イデオロギーは、逆転した世界の権力である。この階級は、自分が強力であればあるほど、それだけ強く自分が存在しないと主張する。(p.92)
<<
おそらくそうだろう。
しかし、これを暴こうとするとき、こちらも神話的な戦いを挑むことになる。
つまり、人は敗北する。(英雄は例外である)
ならば、事前に叩き潰す以外にない。
>>
時間とは、ヘーゲルが示したように必要な疎外であり、主体が自己を失うことで自己を実現し、自分自身の真理となるために他のものになる環境である。だが、疎遠な現在を生産する者が被っている支配的な疎外は、まさにその逆である。(p.149)
<<
曰く、超人化を防ぐために時間が個人から奪われているのだ。
ここで、「誰が?」と問えば戦争になる。しかし、その敵は本当に敵なのか?
僕は博愛主義的に行きたい。 -
[ 内容 ]
「フィルムはない。映画は死んだ」と言ってのけるドゥボールにかかっては、あのゴダールさえ小市民的に見えてしまう。
芸術に限らず、思想も政治も経済も、「専門家」に任せきりで、鷹揚にお手並拝見と構えているうちに、いやおうなく「観客」であるしかないどころか、大仕掛けな茶番劇のエキストラに動員されてしまいかねない。
こんな世界のありようと疎外感の大元を、本書は徹底的に腑分けしてくれる。
ほんとうに「何一つ欠けるところのない本」だ。
マルクスの転用から始まるこの本は今日、依然として一個のスキャンダル、飽くなき異義申立てと「状況の構築」のための道具であり、武器であることをやめていない。
[ 目次 ]
1 完成した分離
2 スペクタクルとしての商品
3 外観における統一性と分割
4 主体と表象としてのプロレタリアート
5 時間と歴史
6 スペクタクルの時間
7 領土の整備
8 文化における否定と消費
9 物質化されたイデオロギー
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
70年代発祥のパンク・ロックとはその形式をNYのグラム・バンドから、思想的根拠は68年のフランス5月革命から拝借した。その5月革命を準備したと言われる本書はマルクスの疎外論を中心に、資本主義社会において人々は資本が生み出すイメージによって規定され、生活の土台から彼らをいかに切り離しているのかを暴いていく。半世紀も前の本なのに、余暇と生活においてメディアの消費比率が高まる現代においてその重要性は一層増しているだろう。批判すら見世物として収斂される社会において、自らがカリカチュアとなることも抵抗の一つなのだ。