- Amazon.co.jp ・本 (599ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480087652
作品紹介・あらすじ
有機体論が国王二体論へと移行するためには、時間観念の導入が要請される。王が団体の頭であるにせよ、団体そのものであることは含意しないし、また団体の永遠性を保証はしないからである。団体観念を時間的に構成することで初めて、連綿たる王朝が恒久的な団体として、王がその体現者、不死鳥にも似た単独法人として捉えられ、ここに、個々の王の自然的身体からは独立した、非人格的な政治的身体が秩序の基盤となる近代国家が生まれる。王権の擬制的性格を克明に跡づける著者の筆は、ダンテ『神曲』の分析に至って、処女作に見える理想的支配者への憧憬を漂わせながら、円環を閉じる。全二巻。
感想・レビュー・書評
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中世ヨーロッパの概念「王の二つの身体」というのは、不可死的でシンボル的な「王」と、生身の可死的な「王」との二つを指している。なるほど、そういう考え方は理解できるし、現在でも通用するのではないか。
しかしこの本では徹底的に「中世ヨーロッパ」に絞って記述されており、中世特有の「へんてこな論理」が様々な文献から引用されて面白い。
著者の結論としては、この「王の二つの身体」はキリスト教神学に由来する政治哲学概念だということだ。
とはいえ、この「二重の身体」というテーマはなにも中世ヨーロッパに限られたものだとは思えない。身近な日本現代史を見ても、「象徴」である天皇と、「人間宣言」以降の生身の天皇、というふたつを一般国民は理解しているはずだ。
ラカンの「父-の-名」をもじって言うなら、ここには「王-の-名」という象徴界の存在を指摘できるだろう。本書で引用されるシェイクスピアの『リチャード2世』には露骨にこの思想が刻印されている。
思うに、「王」に限らず<名>をもつことによって、存在は2重の生を強いられるのではないか。<名前空間>の虚構性とその強度については、じっくりと考えてみる必要がある。
たとえば「会社」や「国家」といった<名前>も、具体的にどの実体を指しているのか明確ではないけれども、この<名前>を実体としてかんがえるのでなければ、社会は成り立たない。
そう考えてみれば、人類の文化というのは<名前空間>を出現させ、そのネットワークによって社会を組織するということに最大の特徴があると言えるだろう。<名前>の言表と共に王の身体がふたつにわかれ、そこから文化や社会が機能し始めるのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
王権をめぐる政治思想史としてはもちろん、「王権表象」としての美術を考える際にも必読の書。