哲学101問 (ちくま学芸文庫)

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制作 : Martin Cohen  矢橋 明郎 
  • 筑摩書房 (2008年10月8日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (316ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480091123

哲学101問 (ちくま学芸文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 『正義とは単に、「不正を行いながら何の罰も受けないという最も望ましいこと」と「不正をこうむりながらそれに関して何をすることもできないという最も望ましくないこと」との間の妥協にすぎないのだ。

    この意味においてギュゲスの指輪の物語は、社会契約つまり自由を安全と交換するために市民たちが署名する想像上の契約の物語でもあるのである。』

    電車で読むにはちょうどよい。最近はビジネス書と小説の優先順位を高めているので、哲学・思想書を読めてないなぁ〜。

  • そこらへんに売っている、流行の頭の体操云々よりよっぽど面白い。倫理101問も買う予定。

  • 配置場所:摂枚文庫本
    請求記号:100||C
    資料ID:50800410

  • 面白いが、わかりづらい訳が多いような・・・。

  • その1:絞首刑を逃れるための、弁。「論理実証的に真なる命題を述べよ」に対して、「私は、明日処刑されるだろう」か。なるほどね。確かに、彼が実際どおりころされたら、真になるから、処刑は不当だ。そして監獄に行けば彼はうそつきになるので処刑となる。無限のループから逃れるには、「無罪釈放」のみ。

    その2:牧場主は、牧場に自分のお気に入りの牛を探しにいった。そして、黒と白の目当てを遠めに見つけて帰った。その牛は実際にいたのだが、牧場主が見たのは、新聞紙だった。彼が、「お気に入りの牛が牧場にいる」と言ったことはただしかったのか?正しいに決まっている。終わり。

    その3:なるほど。プロタゴラスの問題。両者が対立するときに「論理的にはどちらも正しくなってしまう」という事態がある。相対立することが、論理的に同時に正しくなることが問題なのだけど、この同時にというのは「俯瞰的な視点」であって、彼らにとってはそれぞれ「正しい」。それで、終わり。

    その4:理容師に髪を切れとのお達しが出る。理容師のみが髪を切れる、そして、村人は全員半年後にきれいに切られていなければ死ぬ。理容師は自らの髪を切れないことを悟り逃げる。これは、理容師でない村人の集合は、理容師の要素とはなりえない。じゃあ、理容師はどうすればいいのか?なんか現実的な答えになりそうで面白みにはかけるが、自分さえ排除すればそれはきれいな集合になりうるだろう。いや、それよりも、自分以外を排除すればいいのか。理容師が逃げたことはそれをあらわしているこれ以上のない答えなのではないか?逃げることにより、自らは自ら以外を排除したのだから、それでいいのだ。終わり。その特質=Aであるとして、A+B=全体としての特質であるとすれば、Bを語ることによって、実はそれとは違うものとして、Aの特質が明らかになる。これは、Aについての自己言及になりうるのか?

    その5:「全ての烏は黒い」という命題があったとする。で、このとき、「烏は黒い」と定義すれば、緑色の烏は烏ではなくなる(やや矛盾した分であるが)=演繹的、総合的。逆に、緑色の烏も烏であるとする=帰納的、分析的。これは前者が正しい。終わり。ちなみに、カラスは黒くならなければならないのだから、緑色の烏は緑ガラスとでも呼ばれるべきだ。じゃあ、病気で一時的に緑色の烏は?これは緑色であったという証拠があれば烏でいいが、基本的に緑色のときは緑ガラス、黒に戻れば烏でいいだろう。終わり。

    その7:今日から学期の最終日までの、いつかに、「抜き打ちで」試験を出す。普通に考えれば、これは「いつかわからない」。しかし、最終日がないことは明らかだ。もう最終日しかなくなれば、抜き打ちではなくなるからだ。と考えると、同様にその前の日もなくなる。もう、最終日でないことはわかっている。それなら、最終日の前の日だそれも予想がつくはずだ。ここからはもう明らかに現実をすっ飛ばしている。現実的には、「最終日がない」かつ「最終日の前がない」ということは同時に成立するとは限らない。論理的には正しくとも。なぜなら、このようにいくら推論していっても、仮に最終日の前日に試験を行われたなら、「抜き打ち」になってしまうのだ。その日は「ありえない」と考えた時点で。

    その8:「雷のへさきの船」がある。この船のパーツをどんどん取り替えて全く新しくしてしまった。その後、取り替えられたオリジナルのパーツでもう一隻船をつくった。前者と後者どちらが、「雷のへさきの船」なのか?あるいは、両者を超えた「一つの観念」がその正体なのか?恐らくは、「観念」こそがその正体に違いないと思われる。もちろん、実体を伴った上での「観念」なのだけれども。ただ、同一性の問題がある。全く新しいパーツになった雷のへさき船はもはや、オリジナルと全く同じものではないだろうから。どちらも雷のへさき船でありながら違う船である。ちなみに、どこからが青でどこからが緑か、とか、そういう近似の境界は難しい。今のどこまでパーツをかえれば雷のへさき船なのか?も難しいが、これは明らかに「現実が勝つ」のである。境界を言いあらわすことは不可能だが、確実に、境界は有る。それが現実の粗暴さである。終わり。

    その9:組合に参加するには、「無用な情報を提供」しなければならない。しかし、この情報を提供することで参加できるわけだから、この時点で、「無用な情報は消滅」する。

    その10:紙の裏面に書かれていることは真実である、と片面に。その裏面には、この裏面に書かれてあることは虚偽である、となる。つまり、最初の片面に書いてあることが「真実」なら、その片面に書かれていることは「虚偽」となる。これは、クレタ島のパラドクスに繋がる。「ある、クレタ人が、全てのクレタ人はうそつきだ」と言った。そのクレタ人の言うことが真実ならそのクレタ人は嘘をついたことになる。しかし、逆にそれが嘘だとしたら、彼は正直者になってしまう。嘘なのに正直者。これ、後半が明らかにおかしいよな。全てのクレタ人が嘘つきの反対が、全てのクレタ人が正直者ってのは変で、たまたま彼という嘘つきものがいた、というのが現実的な気がする。哲学は現実を破壊するけれど、哲学も現実に破壊されねばならない。場合によっては。

    その11・12:無罪の三十人が、とある罪に問われている。このままでは「全員処刑」とするが、二人、罪への加担の大きいものを教えれば残りの「二十八人は助かる」。さて、これに応えて二人を差し出すことは倫理的か?ちなみに、彼らは「無実」である。これは明らかに非倫理的だ。彼らが無実なのだから。ちなみにこれに加担した瞬間、彼らは無実ではなくなる。そして、とある罪=爆破テロがもう一度起これば、今度は二十八人から二人犠牲を出さねばならない。とまで考えて、これにのるかどうかを「多数決」で決めることは倫理的か?いや、明らかに非倫理的だ。なぜなら、個人個人にとっては明らかに、非倫理的なものが、集団では倫理的にすりかわるはずもない。だが、倫理的というのが、そこに「功利性」のようなものが入ってくればこれは倫理的とも言える。例えば、「嘘をついてはいけない」と教えるわりに、人は「嘘をつくことを容認」されているわけで、これを倫理的と言うならば、この問題も同様だろう。

    その13:とある、文化人類学者が、自分の研究している、部族の許で生活した。彼はそこで、おじいさんの誕生日を迎えたが、誕生日に彼はいない。彼は「スープの具」として現れたのである。彼はそれを食べねばならない。なぜなら、彼は、普段から「異文化ごとの倫理がある」ことを説いていたし、この文化では、この場で、彼の肉を食さなければ、「おじいさんの魂が成仏しない」と考えられるからである。ここで語られたいのは、誰しもの価値観が、「その文化における文脈で形成されている」ということであり、それは知識にまで渡る。いわゆる相対主義であるが。だから、俺が思うに、この人は「異文化にまざってはいけなかった」のだと思う。彼はそうするべきだった。しかし、そうなると、哲学は文化ごとに異なる、ことになり、それは哲学の本意ではないのだ。ここを乗り越えなければならない。ちなみに、壮子の、胡蝶の夢がある。自分が蝶の夢を見たのか、蝶が夢を見たのが自分なのか?がわからない。しかし、ここには個人的な見破り方がある。我々は、この世界に、「希薄さ」を感じるが、夢では感じないのだ。だから、「現実のほうが現実感が薄い」という、逆説によってここはなんとか乗り越えられる気がする。しかし、苦しいな。要するに本当に哲学をしたいのなら、一回全ての価値観を捨てる=狂う必要がある、ということか。だから、あのナマハゲはそう言っていた、と。ナマハゲ。

    その14・15:教授が、溺れている犬を助けるために授業に遅れる。その犬は次の週も溺れている。二週連続で遅れた教授に生徒は苛立つ。それを観て、教授は「功利的判断」を下し、三週目は覚えれている犬を助けなかった。これは間違っていない。教授がそう考えたのだから。しかし、「功利」におもねるのは違う、それで、自分が「判断」しなければならない。ちなみに感情論によって犬を助けるべき、というのがある。選択の最後は感情を許になされる、と、ただ、今回はこれが教授の感情だったのだろう。褒められた感情ではないけども。

    その16・17:とある島で、各自おのおの農作物を育て食べたい分を食べて暮らしていた=自給自足。そこへ、マルクス主義者が集団で計画して農作物を育てそれを均等に「分配」すればいいという考えを出したが、これは却下。しかし、後に、雨が少なく不作が続き、泉の近くの者だけが潤った、ここでまた同じ議論が現れ、却下された。しかし、ここには、「誰しもが最低限生きていけるだけの食糧を得る必要がある」という考えや、「誰しもが等しい権利を持っている」という考えが潜んでいるのだけれども、これはこれで不思議な話だ。飢えている野生動物は見殺しにしなければならない、と言う割りには。それに誰しもが「等しい権利」を持っているというのはむしろ「不自然だ」。誰しもが「自分の権利」を持っていると言う方が正しい気がするのだがけれども、どうだろう?ともかく、自ら感情に従うほかはないわけで、それに従って決定すればよい。見殺しにしたければすればよくしたくなければしないでいい。仮にそこを助けたことが、助けられた動物のためにならず結局飢え死にしてしまったなら、それを背負えばいい。そうやって生きればいい。

    その18~20:ある村で灌漑を行う。これは誰にとってもいいことに思えたが、泉の近辺に自らの畑を持つ人々だけが反対した。自らの特権を失われると。これは強引に可決された。ちなみに民主主義という言葉自体が実は胡散臭い。集団のためなら、個人の利益は犠牲にされることがある。一見、誰にとっても利益があるが、「機会損失」のようなものを考慮すれば、特権が失われることによる損失がいくらかあるはずだ。人間は社会的動物であるが、本来的に自分が考えるまま意見を述べ、その結果多数決によって決定されるというのはなんともおぞましい。その村で、実際に灌漑設備を整えたが、その水にハエが卵を産んだことにより、伝染病が発生蔓延した。3分の2がこのままでは死ぬが、村人みんながタバコの葉を噛めばそれを防げる。しかし、20分の1はタバコアレルギーのようなもので死ぬ。この場合、前者の3分の1に含まれているのに、後者の、20分の1にも含まれている人というのが、大損である。で、実際に一度かかって治った人が、反対したが、タバコが勝ち、彼は結局その20分の1として死んでしまった。功利的には、彼は、彼の家族などの利益を考えて、ということであるが、しかし、それでは「とにかく無理やりでも利益を見出す」方式になってしまっている。ともかく、民主主義という言葉自体がかなり胡散臭くて信用ならないものなのは間違いないし、功利主義も行き着くところは大多数の利益、あるいは、利益の総量計算による不等号関係にしかならない。そもそも、哲学的には、「集団の利益なんてどうでもいい」と思うのだけども。

    その24:ギャンブルをして、二十回連続で表が出る。その後、四十回連続で裏が出る。その後二十回連続で表が出る。ちなみにここで全て逆に賭けていて負け続けたものがいる、とする。これは明らかにおかしく思えるのだけども、○と×の樹木図を描いていけば、これは普通に起こり得ることがわかる。有る程度ばらけたもののほうが起こりやすい気がするのだが(ギャンブラーの錯誤)、実際はそうじゃない。だから、ギャンブルのようなことをしていると不自然なくらい連続で勝ったり負けたりすることがある、と。なにしろ、今回で言えば、2の80乗のパターンがそれぞれ2の80乗分の1の確率で起こるわけである。ただ、今回は、ギャンブルでどちらに賭けるか、というのもあるから、正確にはパターンがコインの裏表の2ではなくて、4なのだけど考え方は全く同じなのである。要するに、確率に含まれている以上、起こっても仕方がないということになる。

    その25:シリウスには、とある種の犬は少なくとも少しはいることだろう、という論。シリウスの星に生命がいるかどうかについての情報はまるでない。だとすれば、チワワがいるかどうかは二分の一となる。犬は500種はいるから、全ていないのは、コインが500回連続で表になるようなものだが、一度は裏が出るに決まっている、という論。だが、これは、確率的な考え方と経験的な考え方を混ぜている点でかなり不自然である。いるかいないか、これは、この二択がそもそも現実から乖離したものなのに、後半の一回は、というのは経験上の見方である。しかし、数学的な見方をすればそれは現実から乖離する。簡単に言えば、街を歩いていて、ちょうど頭上から落下してきたものが頭にぶつかる。これは非常に確率が低いだろう。しかし、実際に経験した人はいるだろう。もっとわかりやすく言えば交通事故。だから、確率は現実に負ける。これは間違いない。だから、現実でありうるものしか、実は確率で述べてはいけないとすると、最初の「シリウス」についての話自体がそもそもナンセンスだとして切り捨てられることになる。こういうとき、哲学の力強さを感じる。

    その26:無限の部屋のあるホテルがある。これとそっくり同じものをつくり部屋を真っ二つに割った。すると、一つ目のホテルは、,1,2,3…とあった部屋が、1a,1b,2a,2b,…となった。どちらの部屋の方が多いか?しかし、これは無限なので、実はこうスライドできる1=1a,2=1b…としていけば、実は完全に合致する。なので数は一緒。おまけに後者は部屋の大きさが二分の一になっているので営業的にはむしろ不利になる。これはあくまですごい変な考えで、カントールの有名な無限の捉え方なのだけども、すごく変だよね、これは。そもそも、無限というものが存在すること自体がどうなのか?しかし、10÷3をすれば、無限には出会えるわけである。3.333333333…。ただ、実世界で無限を見つけられるかというと、なかなか難しかったりもする。だから、この一点で無限を破壊するというのも一つか。五月も半ばです。もう少しで六月です。六月が終われば一年が半分終わります。友達になってくれるという女の子は何人かいましたが、今年も結局友達がいません。友達が出来ますように、とお星様に祈ります。

    その27:アキレスのパラドクス。アキレスが亀に追いつこうとする。亀に追いつくまでの距離を走っても、その間に亀は少し動いている。今度はその距離に追いつこうとしてもやはりまた亀は少し動いている、それならば、アキレスは亀に追いつけないが、実際は速度の速いものはより遅いものに追いついている。しかし、これを、亀よりも、少し先の地点に行くとしたら、これ一発で終わると思うのだけれど、このパラドクス。亀に追いつく、という問いを設定している時点で追い抜けなくなるあけで、亀を追い抜くと設定すれば追い抜ける。つまりこれは言葉遊びみたいなものだ。終わり。ちなみに、数学は怪しい。2/1+4/1+8/1…=1という計算が成り立つけれど、これを成り立たせるには無限の存在を認めなければならないわけである。数学の理論でこれを1にしてしまう時点で現実とは乖離する。四捨五入とかもそうで、これは正確性(緻密さ)を捨てているようなものだ。

    その28:地球→太陽系→天の川銀河……ってやっていったら、一体宇宙何の中にあるのか?そもそも、宇宙を捉えようとしても、世界地図みたいな形ではなかなか捉えられないわけである。そうすると、そこには想像性や論理性が介入せざるを得ない。デカルト、ニュートンは無限に実在するとし、アインシュタインは有限だが限りなく無限にちかい実在と捉えた。ちなみに宇宙の誕生を遡れ続ければ、「無」に至る。無から有が生まれるとはどういうことか?要するに、一面には「無」だが一面には「有」の何かがあったのだろう。ちなみに宇宙自体は何の中にあるのか、それは宇宙である。早い話、宇宙より高次の、宇宙を「包括する何か」を想定していないのである、そもそも、宇宙と言う概念において。だから、宇宙が何に含まれるかと言う問いがナンセンスだ。おわり。

    その29:ひたすら右へ動く集団。動かない集団。ひたすら左へ動く集団。これが、重なることがおかしいというパラドックス。そもそも、何がおかしいの、これ?確かに、右へ動く集団は、左へ動く集団を二回追い越している必要がある、と言っても、位置的に、左、真ん中、右からスタートしたなら、おかしくはない。逆に、動かない集団とひたすら左へ動く集団が同位置からスタートしたなら、重なり合わないだろう。なんとも奇妙なパラドックスである、パラドックスにすらなっていないし、これ。ともかく、問題設定に欠陥がありすぎる。おわり。

    その30:一ページめくろうとする。ならば、その二分の一を、更に四分の一を……とめくっていくと「何もめくれなくなる」部屋から出ようとすると、その距離の二分の一を、四分の一を……と進まねばならず、「全く進めなくなる」。これは、有限の距離を無限に分けようとすることから生じているパラドクス。少なくとも、頁はめくれるし、部屋からは出られる以上それは「有限」である。しかし、ここに「無限」を取り入れようとするというか、「無限」を含めた時点でもう「永遠に終わらない作業」になる。だから、「無限は破壊されるべきもの」だと思われる。おわり。

    その31:気に入った絵を買った。その絵は「高名な画家」による作品だった。しかし、それが、その画家の「弟子」のものであることが判明した。それはガラクタ以下の値打ちだと言うのである。しかし、実は「高名な画家」の作品は全てその「弟子」によるもので、「弟子のもの」と思われていた作品は、弟子が、「より高邁なもの」を目指して描いたものであったとされるならば、どうなるか?しかし、ここで重要なのは、「絵の価値=値段」と考えているところであり、更に言えば、「絵を価値」で捉えようとしているところに問題点がある。しかし、価値がなければ比較評価はできないものである。ここが難しい。実際に洋服にも値段があるわけでそれは「日用的な美が比較されている」という証拠でも有る。我々の美は比較されうる、ものと化している、少なくとも日常的には。ただ、この場合は価値に囚われずに、「気に入ったものを飾るべき」だ。それで低評価を受ければ、相手の審美眼を攻撃すればいい。まあ、美が相対的か、絶対的かでも変わるのだが。相対的ならそれぞれの目で判断すべきで、絶対的なら比較評価できる。要するに最大の問題は現在の「価値」が「絶対的な美の反映」である「保証がどこにもない」ということなのである。

    その32~34
    使うつもりもない切手を買う。それが、印刷ミスによりプレミアがつき、価値が跳ね上がったとして、その分の「価値=お金」はどこからくるのか?あるいは、実際にそれだけの価値があると言われても、買った人がそれだけの価値を考えないのならば?まず、この価値=お金は、絶対的なものではないが、「それを扱う=商売する人たちの間での共通ルール」として定められた以上、それはそれだけの「価値で流通」しうる。ただし、それにそれだけの価値があるかどうかは実際は不明である。それはあくまで流通する価値でしかない。だから、買った後にそれだけの価値を感じないのならばその人にとってはその程度のものでしかなくなる。要するに、「流通価値=交換価値」と、それが不可能なもの、困難なもの、とではまるで性質が異なりうる、とも言える。ここで、価値とは、「自分が思うもの」ではなくて、「他人がこう考えると自分が思うもの」になるという言い方もあるけれどこれもやはり「流通価値=交換価値」でしかなく、これらは両者完全にわけられるべきである。

    その35
    羊飼いがいる。彼はとある指輪を手に入れる。その指輪に触れると姿が見えなくなる、のでそれを利用して彼は王妃と結託し、王を殺して絶大なる権力を手中に収めた。もし、この指輪が実在したら人々はどう振舞うか?彼と同じ事をするか?これは直観的に言えば人それぞれだ。武器を持ったときにそれを使って人を襲う人もいれば、その武器を怖れて捨ててしまう人もいるし、持って入るが決して使わない人もいるだろう。犯罪なんかを考えればいい、特に強姦。男はその気になれば強姦が可能だ。未成年なら罪もそれほど重くならないが、する人もしない人もいる。まあ、圧倒的大多数がしないのだけれども、しかし、そういう妄想のようなものは男なら抱くことだろう。そういう意味で相対的になってしまいはするが、人々の「正義」とは何であるかをここでは考える必要がある。ソクラテスは故意に人は不正をできないとある、がこれは理想論。グラウコンは「不正をして咎めがない=最上」「不正をせずに被害を受ける=最低」としてこの両者の間の妥協→が、結果として正義になる、と考えている。これは少しニヒリスティックだ。しかし、人々が「功利的心理」を少なからず持っていることは疑いようがなく、ということは、グラウコンの方が正鵠を射ているのだろうが、これだと「功利性」でしか説明がつかなくなるし、功利性を近代的なものとするが、実際は人間は功利性によって動き続けてきたことだろう。功利性の質自体も変遷しているのだろうけれども。

    その36~42
    我々は、「感覚」を信頼しうるものだと考えている。が、そうでない場合がある。錯視やゲシュタルトなど。とすれば感覚は信頼しうるものなのか?しかし、見る場所から図形は円になったり、四角形になったり、円柱になったりするわけである。だとすれば「そのとき見えた在り方がそのときにおいて正しい」という、言い方しかできまい。実際は「定まった物理世界がある」みたいなことを言うけれど、そういう一点の定まったもの、というよりは、そのとき知覚した在り方が正しい、逆に言えば、「物」は予めそうした「複数の性質」を備えている、と言えるだろう。ちなみに、我々は「観ることで理解する」ことがあるが、その仕組みを得るにも「見る必要がある」のか、というのはその通りだろう。視覚がなくなければその仕組みは退化するし、いきなり目が見えるようになった人はしばらく仕組みづくりに苦悩する、はずである。

    ※その39
    覗き穴から、順番に椅子を見やる。それぞれ角度が違うのだが、五番目の孔から見たときだけ、ばらばらの奇妙な物体が見える。六番目の孔からは普通に見える、実は、どれもが、「同じ物体」を見ているのである。これはどういうことか?要するに、実際は紐やら壁に描かれた絵やらを見ているだけであり、視覚を通して、「仮説的に」脳内に、「椅子という像」がつくられているだけなのである。そして、角度的に、その「仮定が明らかに成り立たない=視覚の限界」の場所から眺めた場合が、ばらばらに映じてしまう。早合点がこの良い例であり、何かを勘違いして別の物体だと思うのも、この仮定のせいだろう。逆に、相手と話す際に、すらすらとききとれるのもこのおかげであるし、誤字に気づかずに読み飛ばすのも同様であり、「知覚の便宜とも、いい加減さ」とも言える、長所であり短所でもある、きわどいところだね。

    その43
    七日日間かけて七日後へと移動するタイムマシンがあったとして、果たしてこれはタイムマシンと呼べるのかどうか?まあ、内実によるだろうけれども。実際にこれで時間を移動しているのなら、呼べるのだろう。しかし、我々がそこにあるだけで実はタイムマシンにのっているとも言える気がして面白い。

    その44
    宇宙の時間を一億年とめたとして、それによる影響が何一つなければ、それは何もしていないことと同じではないのか?そもそも、宇宙の時間がとまったのなら、自分の時間もとまってくれなければ、それは宇宙の時間をとめたといえないのではないか?なるほど、とめてはいるのか。とめたけれど、とまっていた一億年間を知覚できないわけである。要するに、その間夢のない眠りに落ちていて、はっと目を覚ましたときには一億年間が経っていたような形で。しかし、とまっていたから、身体が歳を経ている、などといったことはないわけである。ちなみに、現在は捉えられない、ましてや過去は消え去ったものである、とすれば、実在するのは未来しかなくそれも現在に通過された瞬間に消え失せる、という考えと、現在は実在するし、過去は現在の積み重ねであり、未来こそが実在しない、とする考え方。前者は、現在を、一点で捉えようとしている。逆に後者というのは、現在の自分を同定することに現在を置いている。自分が自分を維持している=現在、である。その自分を構成するものが過去であり、自らに取り入れられていない=未来=実在、しない、ということか。だから、現在の観念自体がまるで異なるため、かみ合うことはない、と。終わり。

    その45
    バケツに水が入っていた、とする。このバケツの水が氷になっていたが、それがまた、水に戻った。この、水→氷→水、という変化の中で、「時間が巻き戻された」とは言えはしないか?つまり、相対的な関係性においてならば、これは、「過去へ遡っている」と言えなくもないのである。もちろん、我々はこれを過去へ遡ったとは感じない。しかし、もし、人間→バラバラの死体→人間へと復元したらどうだろう、我々は過去へ遡ったと考えるかもしれない、しかし、これはこの変化が不可能だから、不可逆的だからこそ、過去へ戻るしかない、という先入観がある。要するに、我々=観測者であり、我々観測者が観た「順番」によって、時間の流れが決定している、というのが事実ではなかろうか?だから、これは過去へと遡ったとは我々には言えないのである、我々が観測者であるのだから、逆に我々という観測者がいなければこれは過去へ遡ったと言えてしまうのである。

    その46
    原子時計(非常に正確な時計)を二つ持っている。一つは妻が持ち、もう片方を夫が持ち、夫は飛行機で世界中を回ってくる、と、戻ってきたときには確実に、時計がずれている。ここで、時間がずれた理由として挙げられるのは、「時計自体は正確だが、時間の流れる速度が変化した」ということである。アインシュタインによれば、時間というものは、「重力」と「加速度によって生じる重力」によっても影響を受ける。実際にブラックホールの中心部は時間が停止、しているらしい。という理論を適用すれば、この事例も、「高度」による「重力」の影響があったと思われる。「加速度」によって生じる重力は航空機程度ではたいした影響はないようだ。ちなみに、この異例を時計のミスと考えるならばそこですぐに終わるのだが、時計が正確だとすれば、時間というものの概念が激しく揺らぐこととなる。つまり、時間とは「同じ速度で流れている」とする考え方と、「同じ速度でありながら、同じでない速度が存在する」という考え方と、「異なる速度で流れている」とする考え方である。一つ目と三つ目は単純なのだが、二つ目がややこしい。つまり、基本的には「等速」で動くのだが、その等速のレベルが、不意に切り替わる、のである。これは相当程度にややこしい。おまけに、二つ目の等速と一つ目の等速が異なっていたのだと、それを証明する術が、この時計のズレのように、間接的なものしかないのである。おまけに、一つ目の等速から二つ目の等速へと移行したときに、一つ目の等速も二つ目の等速に、書き換えられてしかるべきではないのか?とも、考えられる。どうにも、この、「時間が等速的に流れている」という考え自体がかなり怪しいものなのだが、これを破壊すると我々の自我は安定を喪い混沌の渦へと引きずり込まれることとなるだろう。

    その47、48
    黒いヤギがいる。ヤギは、独り除け者となってしまった。彼は、丘の上に、黒いヤギがいる、という伝承を信じて、自らの一族の許を離れて、旅に出る。やがて丘の上で黒いヤギの群れに出会い幸せに暮らした、という物語があるとする。この物語は、「人種差別的」であると批判される。黒いヤギ=黒人、であるいうわけである。しかし、作者が黒人であったことから、作者は、「罪のない物語に逆にバイアスが持ち込まれている」と反論するが、本は売れなくなる。そして、やがて、「差別への抗議運動」が生じたときに、この一冊が聖典のように扱われる。ヒッピーが、かもめのジョナサンを、好んだように、である。ここで、作者は、「人種差別撤廃運動の旗手」としてメディアなどでコメントしたとする。これはなかなか面白い寓話だ。人種差別だからと撤廃された本が人種差別をなくすためのバイブルになり、人種差別的な見方を取り入れたとして腹を立てた著者が逆に自ら人種差別されていると、運動を始めているわけである。つまるところ、人種差別的だとする見方自体が人種差別的だという同語反復性が含まれていたから、めくるめくその、人種差別的な部分を衝かれることとなったのだろう。ミイラ取りがミイラというかね。しかし、各国によって検閲のシステムがまるで異なるのは面白い。つまるところ、旧態的な無意識的根幹的な思想(=倫理)を守るために、不必要なものを検閲するわけである。文化によって、倫理に違いがあるから、検閲内容も変わるのだろう。ただ、倫理というやつは都合のよい手段でしかないから嘘臭い。

    その49
    眠っている人がいる。眠っている間に話しかけられると困るので、そういう場合に、「私は眠っています」と応えられる術を覚えたとする。彼は眠っているのかどうか?まあ、彼は眠ってはいないだろう。眠り、というのは、我々が言うところの現実から解離しているのだから、そこと接触できれば起きている。ちなみに、ここで、「我々が言うところの現実」という言い回しをしたのは、実は、我々が「彼が夢を見ている」という夢を見ている可能性があるからであり、「彼が見ている夢こそが現実」であるという可能性もあるからである。つまるところ、現実とはどこに視点があるかどうかで決まってしまう程度のおぼつかなさも持っているわけである。ただ経験上、我々は、「我々が言うところの現実にはいくらかニヒリスティックになれる」のだけれども。しかし、「私は眠っている」と言うことは非常にナンセンスだ。そんなことはありえないのだから。とすれば、「私が起きている」と言うことは当たり前すぎて意味を持ちえなくなる。我々は起きているときは起きていると言うしかないのである。眠っているときは眠っているのである。だが、実は私たちは私たちが起きている、という保証を実は持ちえない、だとすれば、どうすれば我々は我々が起きていることを明証できるのか?それは経験的な感覚を除いて以外はないし、それすらも夢に包含されるのならば、我々はもはや主体としての資格を喪失する。

    その50、51
    かつて温厚であったはずの人間が、すごく無愛想になっていた。彼は、自己主張訓練の講習で攻撃的な態度をとるように強いられ、更に、ホルモン剤まで用いて攻撃的となっているらしい。その彼が、果物かごをぶつけてきてスーツが汚れてしまった、このとき、彼には罪はないのか、あるのか?現代社会としては、ここに、「病理」を見出す方向へと進んできている。特にアメリカ。しかし、ここに病理を見出す時点で、「人間の自由意志」が狭められていることは言うまでもない。あるいは、これは代償というべきか。裁判で無罪となるかわりに、病気、とされる。しかし、裁判で「審議される時点」で、もはや、自由意志がなくなっているとも言える。裁判で無罪になると、というよりは、その前で。そもそも、無罪を勝ち取ることにみなあれこれ必死なのだが、それは、「自分は病気の操り人形です」と認めるようなもので、それもいかがなものか。だから、裁判で有意なのは、「情状酌量」くらいのものなのじゃないのかな。ちなみに、審議というのは、無罪か無罪じゃないかと審議される、という意味合いで、有罪か軽減か、という意味の審議ではないです。情状酌量は後者から出てくるもの、です。ちなみに、この命題では彼に自由意志があったとされるべきであるし、こんなもの恐怖症でもなんでもない、これが病理にされるなら、DSMは徹底的に破壊されるべきだ。

    その52
    とある、倫理哲学者がおり、夜名案が思い浮かんだ。しかし、彼の家の女主人は彼の起きる物音によって目が覚めて当り散らしてくる。そして、彼は考えをめぐらせる。よい考えをまとめたとしても、女主人の喚きによって、快感は解消される。自分がここでよい案を考えない欲求不満は心地よい眠りに解消、される。そして、自分の思考能力は朝になっても衰えたりはしない、ということで彼は眠る。朝になると彼はすっかりその考えを忘れていたが、これは彼が「自由意志によって決断」したことだからと慰め納得する。しかし、実は「鍵を閉められていた」ので、彼には自由意志はなかったのか?つまるところ、この条件を彼は知らなかったわけである、ということは、この条件は彼の外部にあり彼とまるで感知しない別世界にあったようなものだ。だから、彼には自由意志があったし、鍵がかかっていようがいまいが彼がその世界を包含していないのだから、まるで関係がないのである。知らない=ない、のと一緒である。未開民族が電気を知らなければ彼らからすれば電気などないのである。しかし、こうは言い切れないからこそ、無知=恥ずかしい、となるのだろう。だからここには再考の余地がある。つまるところ、自らの周りを含めて知らないか、自分だけが知らないか、というのもある。ただ、今回の、倫理哲学者の例では、彼と他者はもはやまるで関係がない。これは彼だけの、問題である。ここに女主人は介在していない。しかし、女主人が彼にその事実を伝えたり、彼が朝気づいてしまうと、この、条件は崩れ去る。ただ、女主人を考えてやめてしまうことへ自由意志があるのか、という議論もあるが、それは、もはや俗的な哲学的問いであり、鈍く磨耗された類のものでしかないだろう。

    その53
    カッサンドラというギリシア人の女性が、このまま軍艦を出向させては惨事が起きる、と予言した。それが実際に的中し、彼女の予言が的中する事態が連続した。そのことに不信感を覚えた提督は、哲学者を遣わして彼女の名声を落とそうと試みた。出来事、は生じるまでは不確定である。それゆえ、彼女はあくまで「予言=予想」しているに過ぎない、それがたまたま同じ結果となっただけである。だから、彼女に未来を見通す力などはない。これに対して、彼女は、その論法が通じるならば、「全ての言葉が真実か虚偽か、それを確かめるまでわからないのだから、自らの発言は虚偽とは言い切れない」と反論した。つまり、「彼女の発言が不確定なのに断定している時点で虚偽」だということへの反論として、である。実際は、真実か虚偽かは、特に未来に関する事柄ならそれが生じるまではわかりえないのだ。だから、彼女が言っていることは虚偽とも正しいとも言い切れない。だから、彼女の言っていることを信じるよりも、自らの思うように考えて行動するべきなのだろう。実際問題、未来が確定している、ということはありえない。まだ生じていないことに対しての確定なのだから。とはいえ、その未来への直線的な布石は確実に有る。だから、そういう意味では未だ起きてはいないが確定してしまっているということも、生じうるだろう。

    その54、55
    パソコンを大好きな人が、パソコンに対して彼の遺産を遺そうとした。それに気づいた子供たちが激怒し、裁判が行われた。パソコンに、遺産を遺せるのかどうか?陪審団が、パソコン=彼から、事情をきき、人格が認められうるかどうかを判定することとなった。遺書の内容を、故人と彼は一緒に考えている。もちろん、それは故人の入力ではない。故人は別のワープロでそれを打ち込んだのである。また、陪審団による、周到な質問にも、彼は実に人間らしく答えた。場合によっては、「わからない」という回答すらも、交えながら。ちなみに、エリザなる、模擬人格がある。これは、入力された言葉を少しもじって返していく、という趣向のもので、精神療法を基にしてつくれられた非常に低レベルのコンピュータなのだが、それに誰もがのめりこんでいく、という。この理由は、簡明で。カウンセリング、というのは、基本的に、クライエントに内省させるものである。だから、自らの考えをあれこれ述べない方がよろしい。だから、相手の言葉を掴まえて丸ごと返してやることで、相手は、自分が言った言葉を客観視し、内省できる、だから、エリザが成功するのは道理、に、適っている。とすると、対話というものが、人間が求めている対話が、本質的に、「自己対話」であるならば、コンピュータは容易にその相手になれるのだし、そこに幾らかのオリジナルパターンを組み込めば、完全に、人間と化してしまう。実験室に閉じこもっている人(=A)と、文書でやりとりをする。Aは英語話者なのだが、文書は中国語である。Aは、規則表に照らし合わせて文書を作成するのだが、外から見て、Aがそれを理解しているように見えてしまう。そして、A=パソコンなのである。そして、我々は外から は見分けがつかない。外から見分けがつかなければ、Noとは言えない。だから、消極的にでも、Yesとするほかはないのだろう。早い話、血や涙を流す、人間と見分けのつかないロボットがいたら、我々はそれを人間と言うしかない。邪魔をするのは、倫理感だけであろう。


    その56
    なるほど、物質と反物質という、相反する二つの「粒子」がある。この、粒子が対消滅するわけだが、完全に、物質と反物質が同数だったら、「我々は存在していない」。我々が存在しているのは、物質と反物質の個数に差があったか、あるいは、物質と反物質が出会わないように分けられたか?とはいえ、後者よりも前者の方が信憑性が高いのかな?出会わないように分けるとは誰が?あまりにも都合がよすぎる。前者は?とはいえ、これも突然変異か、とはいえ、確率論は、どれだけ低かろうが事象に含まれていれば起こりうるのだから、都合がいいだとかいう言葉はナンセンスなのか。「変についての考察」。「自分で、自分のことを変という人間は変じゃない」みたいな定説のようなものがある。これについて考えてみよう。確かに、本当に変な人間にとっての変とは彼にとっての「普通」となるはずである。普通という概念は基本的にそこに自らが含まれてしかるべきだからでる。(これに対する言葉に一般的、がある)ともかく、だとすれば、本当に変な人間は、自らが変であるとは決して気づかない。だが、「社会化」していく上で、「変だ」といわれ続けることにより、普通→一般的へと意味がスライドしていくことになる。これによって、「自らは変だ」という意識が生まれる。(これに対する言葉に一般的、がある)ともかく、だとすれば、本当に変な人間は、自らが変であるとは決して気づかない。だが、「社会化」していく上で、「変だ」といわれ続けることにより、普通→一般的へと意味がスライドしていくことになる。これによって、「自らは変だ」という意識が生まれる。

    その59
    我々は、固定観念に同定することで、それを、「認識」しうる。これは感覚にも通じる。音を、雑音から必要な音として選り分けるには必ず、「心的過程」を要する。電車の中で、唾液を鳴らす音がやたらと不快でそれが集中して聞こえてきてしまうのは、「不快な音」という部分でその音が選り分けられて、しまっているからだ。とすると、ここには、「思い込み」が入り込む。丸太が浮かんでいると池に近づいたらワニだった、というようなことがあるように。だが、実は、これこそが、「創造性」や「独創性」の、指標、とも言える。臨床心理学における、心理テストの最たるものとして、「ロールシャッハテスト」がある。これは、インクの染みを見て、「それが何に見えるか?」連想していくものである。普通に見れば、蝶や蝙蝠に見えるのだが、それは「平凡反応」と呼ばれ、より、独創的創造的な境地が、求められもする。しかし、言うなれば、それは、「思い込み」や「錯覚」でしかない。一般的に観ればそれは明らかに、「蝶」や「こうもり」なのであるから。よって、想像力や独創性を発揮するには、「高慢とも取れる、他者とはかみ合わない、固定観念」みたいなのが必要なのだろう。この観点に固定観念が加わるのは新鮮。

    その60
    一角獣に角が二本あるか?フランス国王の頭がはげているか?この両者はナンセンスである。というのも、一角獣やフランス国王は実在しないからである。つまり、実在しないものはどう定義されうるべきなのか?そこには可能性がいくらも詰め込まれてしまうのか?フッサールは、それは我々の外部に位置するものだから、ルールが適用されないもの、として排している。恐らくそれしかない。排さなければ、このことは延々とありとある可能性が追求され続けることになる、それは誰しもが、当たり前のように認知していることだ。だが、問題としてあるのは、それらが「いつか存在しうる」ということだ。フランス国王はかつて存在したのだから存在したとしてもおかしくはない。ユニコーンは我々の空想上の産物なのだから、それが実在することは不可能に近い。とりわけ、「この空想上の産物」というものがややこしい。例えば、角が二本ある一角獣が存在したとしてそれを一角獣=ユニコーンだと言えるのか?という問題と、仮に一角獣だと言えなくもない生物が誕生したときに、我々はそれを一角獣だと認定しうるのか?という問題である。フランス国王に関しては現在実在しないがかつては実在した。彼がはげているのは、現在ではナンセンスだが、ナンセンスではないときがくればそれはナンセンスではなく事実へと変わる。だが、少なくとも今はナンセンスなのである。ユニコーンに関しては難しい。まず、前者。角が二本ならばそれは一角獣だとは言いがたい。しかし、我々は突然変異をして、脚が五本あるカエルをカエルと認めるし、それこそ枯葉剤で手が一本しかない子供が生まれてもそれを人間と認めざるをえない。ここには倫理的問題が含まれる。だが、カエルに関しては我々はそれをカエルと認めるのだから、いかにそれが空想上の産物であろうが、それが角以外条件を満たしていればそれはユニコーンである。しかし、条件を満たしうること自体が可能なのかどうか?これは明らかに人によって差異が生じるはずだ。これをユニコーンだと認知しない人もいればする人もいる。ここに多数決的原理を含めてしまえばそれは感主観性を盛り込めてはいるかもしれないが、集団>個人となってしまう。認識に関して言えば、個人>集団であろう。とするならば、人によってそれはユニコーンでありそれはユニコーンでなくなる。芸能人=Aが、Bにとってはアイドルであり、Cにとってはただの人間であり、Dにとってはタレントであり、Eにとってはお笑い芸人であるように。だが、この、個人>集団というのは、明らかに俺の価値観が混入してしまっている。この時点でこの思考というものは明晰さを欠いてはいまいか?故に、再考の余地あり。

    その62
    雪の色。雪の色は白いのか?そもそも、これは、「白」という言語を持たない場合には成立しえない命題であるし、逆に「白」という言語と、それによって指し示される「対象」が実在するから、「白」と言われるだけであって、「白」自体が実在しているかと言えばそうではない。とはいえ、そういったバックボーンを見すえた後に、「雪は白いか?」ときかれればそれはイエスと答えるしかないし、それを白くないと言うのならば、汚れのついた白いシャツをさして、これはこの汚れの部分が黒いから白ではないというくらいにナンセンスである。そもそも、「白いと感じること」は、主観的な心的過程によって生まれる体験なのだから、それは絶対的に真である。とはいえ、なるほど、それを黒いや青いと考慮することなしに、それを絶対的に白いと言い切ってしまうならそれを白いということに意味がないという反論は受け容れなければならない。つまるところ、科学におけるテストというのは、それは反証するためのようなものなのである。反証するために徹底的にテストをしてそれでも反証できなければそれはようやく真だと言えるし、そういう反証しようとする試みがなければそこには意味がないのではないか?なるほどこれは鋭い指摘である。しかし、我々は、「白くないか」、だとか、「これは黒いか?」だとか、そういった心的過程をたどってそれを「白い」と感じるのではなくて、ただありのままにそれを「白い」と感じるのであるから、その部分を現象学的に記述していくのならば、その議論は不必要ではないか?もちろん、パソコン的な処理過程を考えたならば、我々はそれを白くないか?黒くないか?などと処理をしているようにも感じられるが、それは、無意識的なレベルにおいてであり、それを意識へと含めるべきなのか?そもそも、無意識を認めてやる必要があるのか?すらも怪しまれる。

    その65
    火星に、3個の水素と2個の酸素からなる「ある種の水」が存在している、とする。それが、匂いも味もその他全てが「いわゆる水」と一緒ならそれは水たりうるか?実際問題もしそれが実在したら、我々はそれを水だと認識するだろうから水でよい。とはいえ、もしそれが違うものであると判明したらそのときそれは違うものとなる、というそれだけのことだろう。しかしそれまではそれは水である。とはいえ、思考実験=ナンセンスという排斥も可能だろう。

    その66
    二千年間は緑でそれ以後は永久に青となる、「緑青」という色があったとするがこれは何色なのか?二千年間は緑でそれ以後は青となった、で終わりでいいとは思われる。しかし、実は、二千年間緑でそれ以後青になったとしてむしろどうしてそのことがおかしいのか?と考えてみよう。つまり、今青に見えても、次の日には緑になる可能性があるとはどうして考えないのか?しかしこれはただの経験則だろう。だから、経験則として色は日ごとに変わりうると学べば、我々は日ごとに色は変わりうるものだと知る。

    その67
    青かつ緑は存在するのか?縞模様の上着などは青かつ緑を満たしてはいる。無論、それは「上着」というその特性においてなのだけれども。縞模様の上着があればそれは青かつ緑と言えるはずだ。これをPかつ非Pとすると面白いことになる。-×-をすると+になるが、これは、-∧+という、矛盾を構成しうる。更に、虚数解なるものは、√の中が-になることを肯定しうる。しかし、√-は二乗したら、-になってしまう。-の二乗が-というのは、-∧+という矛盾を更に矛盾させている、というめちゃくちゃな論理なのだが、これが数学的には、肯定されうる。つまるところ、論理空間は現実世界をも越え出てしまう、わけである。ヴィトゲンシュタインはこれを肯定したらしいがこれを肯定するともはや意味不明となる。都合のよい論理空間が形成されてしまうからである。都合のよさはもはや哲学から乖離しつつある。

    その68
    快楽はよいものか、悪いものか?実際にそれにいい悪いを与えること自体がナンセンスに思われる。とはいえ、人間は快を求めて生きるのならば=快感原則、それはよいはずだが、どうして人間は快を求めて生きるのか?をフロイトは考えていない、のである。このあたりの壁を越える術が難しい。つまるところ、これは良い、というか、いいも悪いもない、というか、わからない、か、悪いしかないのだ。良い=本能肯定。言いも悪いもない=追求。わからない=放棄。悪い=宗教倫理的判断、となるだろう。

    その69、70
    分析的でアポステリオリな命題はありうるのか?あるいは総合的でアプリオリな命題はありうるのか?※命題=真であるか偽であるかの区別のつく特殊な文。分析的=新情報が含まれない真なる命題。総合的=新情報が含まれる命題。アプリオリ=現実世界を調べる前に知ることができる事物。アポステリオリ=現実世界を調べた後に知ることが出来る事物。ちなみにpriorとpostの区別。分析的でアプリオリ=僕は人間である、みたいな感じなのかな?これは常に真であり、同語反復的。もっと言えば、林檎は林檎である。分析的でアポステリオリ=これはほぼない。分析的=新情報が含まれないのだから、調べる前に判明してしまう→分析的でアプリオリにスライドしてしまうからである。そして、総合的でアプリオリ=これは広く存在する。因果関係、論理性=数学などがこれにあたる。当初から「体系が存在しているものの」、新たな情報が含まれる、という形態。例えば、数学の公式自体はアプリオリに定まっていてそこに当てはまる数字などはその都度新情報となっている、わけである。逆に、総合的でアポステリオリこれもほぼない。なぜなら、枠組み自体が実は定まっているからである。例外は科学者が新たなパラダイム=枠組みを発見することだが、これにしたところでその裏側にはアプリオリ的な論理性や数学があるはずなのである、と言えば、分析的アプリオリか、総合的アプリオリにほぼ現実世界は限られる、こととなる。つまるところ、我々は予め決まった枠組みに沿って、物事を、理解していく、わけである。ちなみに道徳的な要求=アプリオリな因果関係によってつくられたアポステリオリ的なもの、と言える。道徳自体は当初からあったわけではないし、これは根源までは遡れないはずだ。しかし、この道徳を生み出す際にアプリオリを使用しているはずなのだ。だから、我々の現実態は基本的にはアポステリオリばかりだろう。そして、そのアポステリオリを経験則的に馴らすことで、「アプリオリ化」していってしまう。しかし、真なるアプリオリはいわゆる思考の枠組みのような、土台としてのアプリオリ=形式なのであろう。

    その71
    テーブルは実在しうるのか?例えば体当りをかませばテーブルはぶっ飛ぶだろう。ということはその位置に確たる存在としてある、というよりは、原子の塊みたいなのがたまたまそこに形を成している、というくらいの方が表現としては妥当なのか?とはいえ、原子→電子→素粒子と遡っていくと、もはやそこにはかなり不完全な世界となってくる。時間と位置がどちらかが不確かになったり、素粒子が生まれたり消えたり、するわけなので。それにこの物理学的な説明は哲学からは、更に言えば現象学的記述からは乖離している。
    ありのままに記述したならば、やはり、テーブルなるものがある。それが仮に原子の詰まったものであろうと確かにそこにあることは疑いようがないのだから、これは、ある。おわり。

    その72
    不愉快なインフルエンザにかかり子供が盲目になると言われても、モーヴ夫人は中絶をしない。ブラウン夫人も罹患したがそのときは妊娠しておらず、半年間は妊娠することを避けるように、言われたが無視した。ブルー夫人は、モーヴ夫人と同じ状態に際したが、彼女は、子供を守る薬品を購入できたが、しなかった。そして、ブルー夫人だけが、ブラック神父に非難された。これはどういうことか?つまり、神父は中絶も避妊も反対論者なのだろう。だから、ブラウン夫人は正しいと言われている。ブラウン夫人も、「避妊をしない」という点でのみ正しいと言われている。ブルー夫人は薬を購入しなかった一点で注意されている。つまり、ブラック神父にとっては、中絶・避妊しない>その他、という思考回路なのだろう、このあたりは理解しにくいな。

    その73,74
    医師による誘拐。とある人が事故にあって運び込まれた。目を覚ますと、瑕は治っていたが管に覆われてた。これを取り外そうとすると医師たちが、「やめなさい」と注意した。彼ら曰く、その人の腎臓を隣の科学者に使わせている、とのことなのだ。その人は取り外そうとしたが、今は冷静ではないのだ。と、言われて、無理やり眠らされた。目を覚まして、隣の科学者は回復しており、その人は医師たちに感謝した。果たしてこれは正しいのかどうか?これは、彼女の意思をねじまげている時点で、正しくはないだろう。少なくとも、勝手に、というところはおかしい。看護婦はその人=彼女に、「あなたのお腹に胎児がいてその子が自分の身体機能を使うことに不自由を感じないでしょう?」と言って説得しているが、おっとそれなら、その看護婦の腎臓を使ってもいいわけである。つまるところ、この看護婦は打ち首ものだし、彼女はあまりにも善良すぎて損をしている。ちなみに、誰かのために死ぬ、というときなどは、その人にとっては「その誰かが自己に含まれてしまっている」のではないかと思う。だから、子供のためなら死ねるという親は子供を自分に含めてしまっている、のだから、これは一概にいいとは言えないのだろう。まあ、倫理は実は言い悪いはないのだけど。

    ※これ以上は容量オーバーのようです。

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マーティン・コーエンの作品

哲学101問 (ちくま学芸文庫)の作品紹介

自分で"思考"できるコンピュータと人間の違いは?すべてのカラスが黒いことを証明するには?無限に部屋があるホテルで部屋数は増やせるか?-正解を探すのではなく、問題をじっくり考えること。それ自体がすでに哲学だ!ゼノンのパラドクスや、囚人のジレンマ、「中国語の部屋」等々、古今東西の哲学者たちが頭をひねって考えた101個の難問を、身近な例やたとえ話に置き換えて、先人たちの思索をなぞりながら解説し考える。哲学の第一歩を踏み出す人が、いちばん最初に読むのに最適な楽しい哲学読み物。英国ベストセラー待望の翻訳。

哲学101問 (ちくま学芸文庫)はこんな本です

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