20世紀の歴史 下 (ちくま学芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (672ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480098672

作品紹介・あらすじ

1970年代を過ぎ、世界に再び危機が訪れる。不確実性がいやますなか、ソ連崩壊が20世紀の終焉を印した。歴史家の省察は我々に何を伝えるのか。

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀の歴史をテーマごとに概説した本であり,特にマルクス主義者(と思われる)の史観として重要な著書と言える。

  • 大変面白かった。自分がマスコミに影響され、誘導されているというのがよくわかる内容だった。また、勉強不足というのがよく分かった。もっと、有効に時間を使って、知識の蓄積に努めたい。私に未来があるのなら‼
    ○その変容の新奇さは、その異常なまでのスピードと普遍性にある。
    ○農民層の没落と同じくらい劇的で、かなり広い範囲でみられたのは、中・高等教育を要する職業が増えたことだった。
    ○メキシコでは、学生は次の点にすぐに気がついた。(A)国家組織は政党と、幹部を大卒者から選んでいること、(B)学生時代に革命を支持しているほど、卒業後にはよりよい職が見つかる傾向にある、という点だ。
    ○労働者を団結させたのは、もちろん賃金だけではなく、仕事で手を汚すことだった。その圧倒的多数は、貧しく経済的に不安定な人々だった。労働運動を本質的に支えたのは欠乏や貧困と無縁の人々だったのだが、こうした人々が生活に期待することや生活で実際に得たものは控えめで、中産階級が求めるものをずっと下回った。
    ○豊かになり、生活が個人中心になっていったことで、貧困と公共の場に集まることで築かれていたものは、崩壊した。
    ○世間や社会が女性(政治的な圧力団体としてだけでも)を認め、受け入れる場合、もっとも「先進的」な国ですら、公的組織の象徴的存在という形をとることが普通だった。
    ○共産国で、自分たちに門戸が開かれている職業に女性がどっと流れ込むと、その職業の地位は下がり、収入は減った。
    ○昔は子どもが外で働いていたため、母親は家に残り、家事や子育ての責任を果たすことができた。いまでは、家庭にもっとお金が必要になると、子どもではなく母親が働くようになった。
    ○ロシアの民主化運動は「四十歳の革命」と言われ、政治的でもなく士気もない学生たちは、それを傍観していた。
    ○「アファーマティブ・アクション」とは、社会的資源や活動への権利に関して、特定の集団を優先的に扱うことである。
    ○デモがうまくいく時、参加者の数が必ずしも過去最多であるわけではない。そうではなく、ジャーナリストがいちばん関心を寄せる時に、デモは成功する。
    ○家族の危機は、性行動・パートナーとの関係性・生殖を左右している世間の基準がきわめて劇的に変わったことに関連していた。
    ○若者とは、思春期から二十代半ばまで続く自意識過剰な集団のことだが、今や独立した社会的主体となった。
    ○現実の生活から生じる制約を最小限にしか経験していないような者、すなわちほんとうの意味で大人になっていない者でなければ、パリ市民が1968年のメーデーで、イタリア人が1969年の「熱い秋」で掲げた自信たっぷりだがみるからに馬鹿げたスローガン―「われわれはすべてが欲しい。いま欲しい」―を構想できなかっただろう。
    ○新しい若者文化の目新しさは、三つあった。第一に、「若者」は大人になるまでの準備段階としてではなく、ある意味、人間的成長の全過程における最終段階として位置づけられた。若者文化の目新しさの二つ目は、若者文化が「先進国の市場経済」で支配的だった、あるいは支配的になったことだ。子が親から学べることより、親が知らなくても子どもがわかっていることのほうが、より明確になった。都市社会における新しい若者文化の三つ目の目新しさは、その驚くほどの国際性である。
    ○文化革命の特徴のうち、二つが重要である。こと個人的な振る舞いに関しては、通俗的であること、同時に、道徳の遵守と救済とが切り離して考えられていた点である。誰もが外部からは最小限の制約しか受けない状態で、「自分のことをする」ことになったのだ。しかし実際は、同輩からのプレッシャーやそのやり方により、以前と変わらない画一性が強制されもした。
    ○それまで禁じられていた、あるいは慣習になかったことを公に明言すること(カミングアウト)は重要になった。
    ○個人的欲望の追及を特徴とする数百万の人間によって世界は成り立っている、ということが暗黙のうちに前提とされるようになった。
    ○20世紀後半の文化の革命的変化は、社会に対する個人の勝利として、いやむしろ、かつて人間を社会という織物に編み込んできた糸を切断したものとして、いちばんよく理解できる。
    ○古い慣習がどれほど不当なものであろうと、それに取って代わるのは、新しい慣習や合理的な行動というわけではなく、決まりごとが一切ない、少なくとも、すべきことについて何の合意も形成されていない状況になるのではないだろうか。
    ○日本では、多少状況は違うものの、ビジネス界の大物実力者たちの巨大な特権と贅沢は、個人が私物化した富としてではなく、公認されている経済的役割に基本的に付随しているとみなされれば、その場合に限って、受け入れられやすくなった。
    ○家族とは、これまで一貫して家族を再生産する装置であったが、それだけではなく、社会的共同の仕組みでもあった。家族はこの仕組みとして、地域的にも世界的にも、農業経済と初期の工業化が進む経済を維持するうえで、欠かせない存在だった。
    ○アンダークラスとは、完全雇用が終わった後の高度に発展した市場を持つ社会で、自由競争(社会保障制度によって補完されている)で自分や家族のために生計をたてることができない、あるいはそれを望まない人々を指した。
    ○伝統と価値観の崩壊が劇的であったのは、古い価値観だけではなく、人間の行動を統制してきた習慣と慣習までもが崩れてしまったからだ。
    ○アダム・スミスが人間の行動の根本的な動機の一つとなっていると考えた「労働の習慣」、いま現在味わえる喜びを先延ばしにする意志、すなわち、未来の褒美のために貯蓄して投資しようとすること、達成から得られる充足感、互いを信頼する習慣、また、自分の効用を合理的に最大化することには内在しないその他の性質にも依存していた。
    ○(エジプトの)片田舎の広大な邸宅で夕方を過ごすにしても、読む本がなければ時間を持て余してしまうのではないか。涼しいベランダで安楽椅子に座り、いい本があれば人生はもっとずっと心地いいものになるだろう(と、それとなく私は言ってみた)。友人はすぐさまこう返した。「この辺の地主が夕食後、銃で撃たれずに明るく照らされたベランダに座っていられるなんて思わないでくれ」と。その可能性に、私は気づいてもよさそうなものだった。
    ○遡ってみると、世界の人口バランスは、最初の産業革命以来、おそらく16世紀から、「進んだ」世界、つまりヨーロッパの人々やヨーロッパ出身の人々に有利な形で変動していた。
    ○コーヒーのような作物、そして砂糖やゴムのようなものですら、大農園での生産が原則とみなされていた頃もあったが、もはやその時代は終わった。
    ○第三世界を分断したのは、第一に、経済発展だった。単一の一次産品の輸出に頼ることができる国であれば、他の面でどれほど不利な立場におかれようと、非常に豊かになれることがわかった。第二に、第三世界のなかで、目にみえる形で急速な工業化が進み、第一世界に入りそうな国が登場したことだ。第三の出来事は、国家間で使われる湾曲表現でも単純に「発展途上」と表現しきれないような国々が、国際的に実施された統計の底辺に現れてきたことである。
    ○貧困国のあいだで分断がいっそう進むなか、グローバル化により、地域や分類上の境界線を越えた動きが生じた。こうした動きで一番目についたのは、人の移動だった。豊かな国からかってないほどの観光客が第三世界へやってきたのだ。
    ○最終的にソヴィエトの体制を沈没させた欠点は、融通の利かなさだった。この体制は、性質と品質があらかじめ決められている製品の生産の絶え間ない増加に対応していた。しかし、(増加する以外の)量・質の変化やイノヴェーションに対処する仕組みは内蔵されていなかった。
    ○ソヴィエトの体制は、非常に後進的で発展が不十分な国を可能な限り早く工業化させるよう設計されていた。そこで前提となっていたのは、国民はソーシャル・ミニマムが保障する生活水準と必要最低限よりいくらかましな物質的水準で満足するだろう、ということだった。
    ○若い層では、好況でも不況でも年齢が上の世代より失業率がずっと高くなる傾向にあった。
    ○経済的に不平等なオーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、スイスでは、上位20%の世帯の平均所得は、下位五分の一の世帯の8から10倍で、上位10%の世帯は通常、国の総所得の20~25%を手取りで受け取っていた。この割合を優に超えたのは、スイス・ニュージーランドの上位層、そしてシンガポール・香港の富裕層のみだった。
    ○社会的不公平の典型例では、人口の下位20%が国の総所得の2.5%を分け合っている一方で、上位20%はほぼ三分の二を享受していた。
    ○なぜなら、ほとんどの政治家・経済学者・経営者は―いつものことだが―経済的危機に陥って、起きた変化が永続するということに、気がつかなかったからである。
    ○実際のところ、自由主義経済にもっとも熱心に取り組んでいた政権であっても、深いところでは本能的にナショナリストであり、外の世界に不信感を抱くこともあった。
    ○工業化においては、人間の技術は機械の技術に、人間による労働は機械に置き換えられ、人々が労働から捨てられる傾向が一般的にみられる。この産業革命が続くことで途方もない経済成長が可能となり、新しい雇用が自動的に生み出され、旧来の仕事が失われた分を取り戻せるだろうと、仮定されていた。
    ○最低賃金で構わない人間すら、同じ仕事ができる機会に比べ、いずれは高くついてしまう。
    ○機械の性能と生産性は、技術の進歩によって絶えず、そして事実上終わりなく向上させることができる。費用も劇的に減らすこともできる。人間では、そうはいかない。
    ○新しい政治勢力のなかでも成長の可能性がもっとも高いことを示したのは、大衆に迎合する扇動政治と際立って目立つ個人によるリーダーシップ、そして外国人への敵意が組み合わさったものだった。
    ○「危機の時代」の新しい分離主義的ナショナリズムは、三つの現象の組み合わさったものだった。一つは、既存の国民国家が自らの地位が下がることに抵抗したことだ。二つ目は、富の集団的エゴイズムと表現するのが一番適切であり、大陸・国・地域それぞれにおける経済格差の広がりを反映したものだった。三つめは、主に、20世紀後半の「文化革命」に対する反応だったのではないだろうか。
    ○世界規模の冷戦が始まった時、第一世界は政治的にも社会的にもだいたい安定していた。第二世界では、その表面化でくすぶっていたのが何であろうと、党の権力とソヴィエトによる軍事介入の可能性が蓋として抑えを利かせていた。他方、第三世界諸国においては、1950年(もしくは建国の日)以降に革命を経験しなかった国はほとんどなかった。
    ○学生は、革命家ではなかった。
    ○西側の学生反乱は、文化的な革命という色合いが強く、「中流階級」の親の価値観に代表される社会のあらゆるものを拒絶した。
    ○単なる数ではなく、作戦を効果的にする場面でどれだけの人が活動しているか。
    ○ほぼ全員が一致して不信任を示す行動は、正統性を失ったか、そもそもない体制において、とくに民衆側がそれを表沙汰にしない場合に起きやすい。
    ○広大な領土をもつ国であっても、住人の大多数は都市部に住んでいた、ないし住む可能性が高かった。
    ○第三千年紀を迎える世界は、ほぼ確実に、政治も政治的変化も暴力を伴う状態が続くだろう。これに関して不確かなのは、唯一、その先に何があるのか、ということだ。
    ○ノーメンクラトゥーラという言葉は、ソ連共産党の行政で用いられる用語という意味以外では1980年以前はほとんど知られていなかったが、ブレジネフ時代の利己的な党官僚の在り方が孕む弱み―無能と腐敗が重なってできた―を的確に示すようになった。そして実際に、ソ連自体が主に利益供与・縁故主義・報酬といった仕組みを通して機能していることもいっそう明白になっていった。
    ○基本的な改革をせずともダイナミックな経済成長を復活させられるという、現実にはありえない期待がいっそう高まった。
    ○ソ連では、改革への圧力が生じても、草の根から生じることはなかった。
    ○ロシアに限らず改革派は、自分たちの発案に国や国民が応じないと、その原因として「官僚制」を非難したくなるものだ。
    ○極東の文化的伝統は社会制度に関わりなく経済成長に有利に働くことがわかったが、中国がそれからどれほどの恩恵を受けていたのかは、21世紀に歴史学者に研究してもらうしかない。
    ○やる気・才能・野心がある人々は、体制の内部で働いた。というのも、これらが求められる職、それどころか才能を公に表す場は体制のなかにあるか、体制の許可で可能になったからだ。
    ○ゴルバチョフの問題は、経済改革のための効果的な戦略がなかったことより―かれの失脚後、誰も打ち出していない―、自国の営まれている普通の生活に無関心だったことだ。
    ○権力の座にある共産党はすべて、選り好みの結果、当然少数のエリートだった。
    ○中央が統制する単一の国家計画に基づく経済で、市場が実質的にない状態で協同組合が支配する経済制度といった理念は、破棄された。
    ○スペインの大使曰く、「市民社会」とは単に、若い理想家たち(短期間ではあるが、思いがけず国民全体を実際に代弁するようになった)がこれを永遠に続く状況として理解したがっていたことにすぎない。
    ○20世紀半ばにハイ・アート(高級芸術)を嗜むエリートは、つまるところ、高等教育を受けた人々だった。芝居やオペラを観劇し、自国の古典的文学作品や批評家が真剣に取り組む詩や散文を読み、美術館や画廊を訪問するのは、最低でも中等教育を修了した層が圧倒的多数を占めた。
    ○階級で分断されているイギリスでは、教育を受けた層とそうでない層では購読する新聞が違った。なぜなら、かれらは実質的に異なる世界に住んでいたから。
    ○21世紀の文化史で、20世紀後半のハイ・アート(高級芸術)の芸術的到達点はどう評価されるか、見当がつくだろうか?答えは、ノーであることははっきりしている。
    ○古典的なハイ・アートを弱体化させていた要因はもう二つあった。ひとつは、大量消費社会が世界中至る所で勝利したことである。さらに、「モダニズム」の死である。
    ○ヴァルター・ベンヤミンが述べた通り、「技術的に複製できる」時代は、創作方法を大きく変えただけではなく―例えば、映画と映画から派生する作品すべて(テレビ、ビデオ)が芸術で重要な位置を占めるようになった―、人間が現実を認識し、創造的な仕事を経験するあり方も変えた。
    ○ツーリズムゆえに、このような建物(美術館・画廊・コンサートホール・公共の劇場)を賑わせているのは自国民より外国人観光客なのだが、この種の芸術の消費は、観光旅行と教育が最後の砦となり守られた。
    ○「芸術作品」は、言葉・音・画像が溢れるなか、つまり、かってであれば芸術と呼ばれていたであろうものが至る所で溢れる環境で、失われてしまったのだ。
    ○1991年、大衆市場向けの商売で大成功を収めたイギリスの宝石商が、ビジネスマンを集めた会議で、自分はがらくたを売って利益を得ている、購入者はもっとましな物がわからないのだと漏らし、顰蹙を買ったことがある。ポストモダンの理論家と違い、この宝石商は、質に判断を下すことは人生に付随するものだとわかっていたのだ。
    ○判断基準をある程度もっている専門家と、希望か不安しか抱かない素人との間の断絶は、多少のリスクをより大きな利益のためには仕方のない代償だと判断できる冷静さと(少なくとも理論上は)リスクゼロを望む個人とのずれにより開いていった。
    ○酒場のホステスに説明できない限り、いかなる物理学も素晴らしいとは言えない。
    ○戦争が終わると、政府による科学的研究への支出と雇用は、天井知らずになった。
    ○遺伝学にしても進化にしても、扱いにくいテーマとして悪名高い。その理由は二つある。第一に、こうした領域では、科学的モデル自体がイデオロギー性を帯びることが頻繁にあるからだ。「遺伝子工学」―必然的に他の生命体はもとより人間の―の可能性は、科学研究への制限を考えるべきか否か、という差し迫った問題を提起した。
    ○世界を変える力、その鍵を握っていたのは科学者たちで、この力によってかれらは守られていた。なぜなら、こうした力があるかないかは、他人には理解不能な特権的なエリートたちに自由にわが道を行かせるか否かにかかっていた。
    ○将来どのような状態になろうとも、世界というドラマからは、一人(アメリカ)を除いて役者が全員降板してしまったり、変わってしまった以上、古いタイプの第三次世界大戦は、もっとも起きる可能性が少ないという見方ができた。
    ○破壊する手段の民主化や私有化で、これにより、暴力と破壊に対する見方は世界中の至る所で変化した。
    ○「短い20世紀」の後半が過ぎていくなかで、第一世界は第三世界に対する個々の戦闘で勝つことはできても、戦争では勝てないということ、そして、戦争に勝つことが仮に可能だとしても、第三世界の領土を必ずしも支配できるわけではない、ということがいっそう明らかになっていった。
    ○「短い20世紀」は、信仰による戦争の時代だった。もっとも好戦的で残虐だったのは、例えば社会主義やナショナリズムのような19世紀型の世俗的なイデオロギーだった。これらにおいて神に相当したのは、抽象的な概念や神のように崇められた政治家たちだった。
    ○この迫りくる生態系の危機に対する答えとして、無理なく確実に言えることは三つしかない。第一に、地域ごとというよりは、グローバルに対応しなければならない。第二に、環境保護政策のゴールは、抜本的かつ現実に即したものでなければならない。第三は、開発は、中間的に「持続可能な」速さまで引き下げなければならない。
    ○20世紀後半の世界経済の三つの側面ゆえに警戒するのは自然な流れだった。第一に、技術によりサービスの生産から人間による労働が締め出される状況が続いていた。しかも、排除された人々には同じ類の仕事がじゅうぶん与えられていなかったし、かれらを吸収できるくらい経済成長を速く遂げられる保障もなかった。第二に、労働は相変わらず生産の主な要素のままだった一方、経済のグローバル化により、産業は、人件費が高い富裕国の古い中心地から出ていった。第三の側面は、高賃金の地域から低賃金の地域へ仕事が移ることと、グローバルな賃金競争の圧力のもと、賃金水準が高い地域で賃金が下がることだ。
    ○大量の消費者が経済にとってかってないほど必要になったにもかかわらず、いまや高賃金の労働市場は危機に瀕していた。
    ○営利企業にとって合理的な選択肢は、(a)人間を雇うとコンピュータより高くつくため、従業員を可能な限り削減することと、(b)できるだけ社会保障(これ以外でも)の税金を減額することだった。
    ○所得者は、ハイテク経済によって労働で不要とされる人が増えていることと、所得のない高齢者の割合が増加しているなかで、板挟みとなり、縮小してきている。
    ○新しい千年紀においても、政治で重視されるのは成長ではなく、社会的配分になるだろう。市場を介さない配分や、少なくとも市場を介した配分に断固として制限をかけることは、差し迫った生態系の危機を食い止めるために、欠かせない。いずれにせよ、新しい千年紀、人類の運命は公的な機能が復活できるか否かにかかっている。
    ○民主主義はいまや、いっそう深刻な苦境に陥っていた。理由は二つあった。第一に、世論が世論調査によってチェックされ、そこかしこに存在するメディアによって誇張されるため、世論から絶えず逃げおおせるのは不可能だったからである。第二に、公的機関が下す決定には、世論がアテにならないもののほうがずっと多かったからである。
    ○「政治的階級」とは、イタリアで生まれた言葉のようで、互いの演説や論説を読み合う人々、政治屋、ジャーナリスト、ロビイストなど、信頼性に関する社会学的調査で職業が最低ランクに位置する人々から成る、特定分野に関心を持つ人々の集まりを指していた。
    ○この世紀には次の点が明らかになった。全人民と敵対しても、一定の期間であれば統治することはできる。また、人民の一部と永続的に敵対する形で統治することもできる。しかし、全人民に永続的に敵対して統治することはできない、という点である。
    ○もし人類に未来が与えられるとすれば、それは過去や現在を延長して可能になるのではない。そのつもりで第三千年紀を築こうとすれば、失敗するほかない。そしてその失敗の代償は、つまり、社会を変えることができなかった時に残るのは、暗闇である。

  • 原書名:THE AGE OF EXTREMES

    第2部 黄金時代(承前)
    第3部 地滑り

    著者:エリック・ホブズボーム(Hobsbawm, Eric J., 1917-2012、エジプト・アレキサンドリア、西洋史)
    訳者:大井由紀(社会学)

  • 東2法経図・6F開架 209.7A/H81n/2/K

  • 毎日新聞201885掲載

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著者プロフィール

イギリスの歴史家。1917年エジプトのアレキサンドリアでユダヤ人の家庭に生まれ、幼年時代をオーストリアのウィーンやドイツのベルリンで過ごした。ドイツでヒトラーが政権を掌握したことにより、1933年に渡英。ケンブリッジ大学で学び、第二次世界大戦後、ロンドン大学バークベック・コレッジで教鞭をとりつつ、社会主義知識人としてさまざまな活動を行った。2012年10月、ロンドンで死去。多数の著作があるが、特に18世紀末以降の歴史を扱った4部作、『市民革命と産業革命 ―― 二重革命の時代』(岩波書店、1968年)、『資本の時代 1848-1875』(みすず書房、1981-82年)、『帝国の時代 1875-1914』(みすず書房、1993、98年)、『20世紀の歴史 ―― 極端な時代』(三省堂、1996年)がよく知られている。これらで提唱した「長い19世紀」(フランス革命から第一次世界大戦まで)、「短い20世紀」(第一次世界大戦から冷戦終結まで)という時代区分や、編著『創られた伝統』(紀伊国屋書店、1992年)での「伝統の創造」論などは、近現代史研究に大きな影響をおよぼした。


「2015年 『破断の時代 ― 20世紀の文化と社会』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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