デカルト入門講義 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480099068

作品紹介・あらすじ

人間にとって疑いえない知識をもとめ、新たな形而上学を確立したデカルト。その思想と影響を知らずに西洋精神史は語れない。全像を語りきる一冊。

感想・レビュー・書評

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  • デカルトについてレポートを書くことになったが、難しくて思うように進まなかったので、まずは入門的な本を一冊読もうと思って買った。

    結論から言えば、大変分かりやすかった。
    ただ、「入門」というだけあって、初心者でも理解できるように言い回しを工夫しているので、デカルト本人の思想を間違いなく伝えているかどうかは怪しいと感じた。

    しかし、理解が進まなくて困っていた私にとっては、デカルトの思想の概要を掴むことができて、とても役に立った。

    この本で得た見識を元に、デカルト本人が書いた書物(『方法序説』や『省察』)の日本語訳を読もうと思う。

  • これはめちゃくちゃ面白かった

    なんで、デカルト、スピノザ 、ライプニッツといって、フランシス・ベーコン、ジョン・ロック、ときたこのタイミングで、バークリに行かずまたデカルトに戻ったのかと言うと、この著者のロックの本がめちゃくちゃ面白かったから。
    なんだけども、ここで一旦、またデカルトに戻ったのはとても良かった。
    デカルトとフランシス・ベーコン、この2人はそれぞれにとても重要だから、一周して戻ったことは大事だった。

    デカルトの本は難しくないので、いくつか読んでみるべきと思うけども、そうすると、疑問がめちゃくちゃに湧いてくる

    えぇ?となるとこが割といっぱいある

    でも、こんなに有名な人なんだから、なんか俺の理解が足りないのかなぁ、と思う

    デカルトって、説明が下手な人だったんだなーと思う

    でも、仕方ない
    デカルト的にものを考え始めたのは、デカルトが最初なんだから。デカルトの凄さは、それを始めたことだと思う。
    それはソクラテス・プラトン・アリストテレスも同じ。

    アウグスティヌスは、プラトン(ネオプラトニズム)とキリスト教を繋ごうとしていくし、トマス・アクィナスは、キリスト教とアリストテレスを繋ごうとしていく。

    フランシス・ベーコンは、というと、経験こそ、帰納法こそ、正しい方法だ、としたことは素晴らしい。あと、学問上の白地図は何かと示したことも凄い。
    けども、白地図を埋めていく作業は大航海の試みだし、経験や帰納法から科学的発見をしていくのは、すでにいくつか前例があった。ベーコンはそれを明確に定義し、自覚的にした人だったとも言えるのかもしれない。そういう意味では、何かを新しく試みたという人とは必ずしもいえないかもしれない。

    でも、デカルトは、全く違う。プラトンの方法でもなく、アリストテレスの方法でもなく、キリスト教の方法でもない方法を考え始める。
    それは、人一般について、とか、世界の始まりについて、とか、そんなことから考えるんじゃなくて、俺!から始める方法に至った、ということ。
    まさに主観主義なのだ。

    神も仏も疑ったところで、その疑ってる自分は疑えないだろう。疑ってる自分がいないなら疑えないのだから、と。

    でも、そこだけから世界を作り上げようとするデカルトは、方法論的に整合性を欠いている、というのがここに指摘されてる。

    デカルトは、第一原因から論理の飛躍なしに全体を導出していく学問を創出しようとした
    しかし、実際には、明証的と言えないことや、第一原因でなく自然学での確信などを用いている
    なので、目論見に対しては破綻している

    そんなことが297頁あたりで指摘されてる。だよね!と頷くしかない。
    ただ、その第一原因から飛躍なしに全体を!という目論見に無理があるのであって、その目論見を手放せば、とても面白いものが立ち上がっている、ということも指摘されてる。
    なるほどなるほど、そうそう、だからこんなに魅力的なんだな、と思う。

    僕の指摘の仕方でいえば、暗闇を一人で歩くように思索を始めた、というようなことがいきなりやっちゃったデカルトの間違いのひとつで、人は暗闇を一人で歩くようには生きていないし、それは不自然な状態なのであって、そんな不自然から始めるからうまくいかなかったんだ、と思ってる。
    でも、暗闇を一人で歩くときのことを考えてみたりすると、デカルトの言ってることには親近感を覚えずにはいられない。
    そんな風に僕はデカルトのことを解釈してたけど、それは大きくは間違えてなかったかな、と思えた。

    アリストテレスの言ってることは、今ではほとんど否定されてる。でも、アリストテレスが種というものを考え、種は固定されてる、ということを発見したことがあってこそ、種は固定されてるのか?されてないんじゃない?と種が変化していく進化論が生まれてきたのだ、だから、アリストテレスは全て否定されてたとしても、それが新たな学問をうむものだったという点でやはり百学の祖であることに間違いない、というようなことがアリストテレスの入門書で紹介してあった。
    それと同じく、デカルトも、めちゃくちゃ否定されてるけども、その否定が生まれるのには、デカルトの試みが重要だったという点で、デカルトはやはり近代哲学の祖だ。(自然科学や数学での功績もものすごい)

    ふー、というわけで、バークリに行こう!

  • 「省察」を丁寧に解説してくれており、デカルトの論旨をトレースすることができ解像度がぐっと上がった気がします。自然科学領域にも業績のあるデカルトに対し、第一哲学としての形而上学の面にフォーカスしてるのも、自分の興味とマッチしていて楽しく読み進めることができました。
    「コギト・エルゴ・スム」がデカルト哲学の到達点とばかり思っていたけど、明晰明証的な「私」=「心」を始点として、徹底的に疑うことで一旦は存在を否定した神の存在、物質の存在を明らかにしていくところまで証明しているなんて知らなかった。気づけたのは、本書が「省察」を大局的に扱ってくれているおかげです。

    P175:
    人間が間違いを犯すのは、「選択の能力」=「意志」によるものである。完全なる善なる神から与えられた「認識の能力」=「知性」は有限なものに対し、「意志」は際限がなく、あることを肯定することも否定することも自由(ゆえに神の似姿としての人間が有する能力)。「知性」で測り知れないものに対して、「意志」で判断をしてしまうから誤謬が生まれるのだ。正しく「知性」の中で判断を下すうちは、間違いを犯すことはない。

    P191:
    物体の存在証明
    自分の中にある種の「受動的能力」がある。それは感覚にって捉えられる物の観念を受け入れる能力であり、生み出される観念は、それを生み出す能動的な能力が必要となるが、「知性」の働きを前提としないため(しばしば自分の意に反してそういった観念を得る)、自分の心の中からは発現していない。そうなると、こういった観念は私とは異なる実体のうちになければならない。欺く神ではない神は、それら観念を物体に由来すると信じる大きな傾向を人間に与えており、それら観念を私の中に送り込みむ物体が存在するとしなければならない道理がある。

    デカルトの哲学は、部分部分で以後の主観的主義や分析哲学まで大きな影響力を与えており、まさに近代の大家という位置づけは否定できないという著者の意見。
    神の存在が前提となっているため人の理性にフォーカスして認識が対象をなすといったカントの超越論的感覚でさらに考察は研ぎ澄まされるのだろうけど、土台はここにあるのかと感動。

    すべての根源たる第一哲学を証明する論理に、それを前提としてしか存在しえない自然科学を拠り所にしちゃうとか、主観的な主張を盛り込んじゃうとか論旨が破綻してるじゃん、でもこの徹底的な姿勢は尊敬っていう著者のスタンスが何かかわいい。

    まだにデカルト二冊目だけど、この本が入口といては最適なんじゃないかなっていうぐらい良い負荷で読み進められました。

  • 哲学というのはほんとに特異な学問だ。

    デカルトはあらゆるものを疑った末に、「私」が疑う間は疑う私は存在しているという明晰判明な事実から出発した。自然科学を根っこで支える形而上学(第一哲学)をあらためて検討、構築するためだ。

    けれども本書の著者がいうように、その論証にはデカルトが他方で研究していた数学・物理などの科学的知見の影響が見られる。科学を支えるものであるはずの形而上学の論証を、科学的知見を用いて行っているというこの循環と矛盾。

    ところが、したがって破綻しているがゆえにまったく無価値であるという結論にならないところが哲学の特異なところだ。科学では、前提が間違っていればすべてが無為に帰す、やりなおしだ。少なくとも、修正の必要がある。

    いまも昔も哲学が科学的知見の影響を受けることは避けられない。それどころか多大な影響を受けている。たとえばカントはニュートン力学を、ベルクソンは生物学を、ホワイトヘッドは相対論や量子力学の成果を積極的に取り入れている。

    デカルトはといえば、みずから屈折論や気象論を書いているし、慣性の法則についても論じていて、これをニュートンがみずからの力学をまとめる際に参考にしたという(このことは初めて知った!)。デカルト座標の発明という数学において画期的な業績も残している。

    すでに得てしまっている知見をもって、知るとは、神とは、物体とは、観念とは、思考するとは、などという原理的問題を考えるしかない、考えるというのはそういうことだ。最初から呪縛にとらわれている。

    (ではなぜそれでも形而上学なのかというと、「完全さ」という概念が、(とくにキリスト教圏であるヨーロッパでは)根付いているからだろう。)

    けれども原理的にいって形而上学はつねにみずからを否定する契機をはらんでいる。デカルト哲学もしかり。みずからの尻尾を食べるウロボロスの蛇のようでもあるし、私などはブラックホールが思い浮かぶ。

    そうそう、砂上の楼閣といったほうがいいかもしれない。いつか崩れ去ることはわかっていても、それがどのように作られて、どのようなナリでそこに立っているか、そのたたずまいにこそ価値がある。
    科学を疑い支える位置にありながら同時に科学の上に立っているという矛盾。とはいえだからこそ知の基盤を足元からシャッフルする重要な役割を持ち得ている。

    ホワイトヘッドが厳密さはフェイクだと言った意味がいまよりよく理解できた気がする。

    デカルトはわりと愚直にやったけれども、彼の哲学はほんとに以後の西洋哲学の系譜の元祖なのだなと本書を読んで再確認。

    (デカルト哲学には(そして形而上学にも)「他者」がいないという著者の指摘はとても興味深い。こうして自分で自分の足元すらあやうくさせるのがまた哲学)

  • 2冊購入したデカルト入門のうちの1冊。

    『省察』を丁寧に解説してありわかりやすい。「観念とは」というあたりを中心にしてグルグルと回る。

    夢と覚醒時の区別は明確ではない。

    デカルト以降の解説はもう少し読みたかった。

  • 科学者であったルネ・デカルトは、自然科学の礎たりえる知識をもとめ、第一哲学=形而上学の再構築に乗り出す。なにひとつ信じられるものがない「懐疑」を出発点に、それでも絶対疑えない原理「我あり」へ、更に「神あり」「物体あり」へと証明をすすめる。本書はその哲学をまず『省察』『哲学の原理』など主著を追ってわかりやすく解説。ついで『世界論』『人間論』を通して、近代哲学の理解に不可欠な自然学的論理を説明する。スピノザ、ロック、バークリ、ライプニッツ、カント、フッサール等々、その後のすべての西洋哲学に強烈な影響力を持ち続けたのは何故か。
    第1章 デカルトの生涯―一五九六年〜一六五〇年
    第2章 『省察』を読む(1)―第一省察〜第三省察
    第3章 『省察』を読む(2)―第四省察〜第六省察
    第4章 形而上学を支える自然学―物体の本性と観念の論理
    第5章 デカルトの「循環」?―「自然の光」だけを頼りとして
    第6章 主観主義の伝統と分析哲学の起点―デカルト哲学の射程

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著者プロフィール

1952年、香川県生まれ。京都大学文学部哲学科卒。京都大学博士(文学)。ハーバード大学客員研究員などを経て、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。著書に、『ロック哲学の隠された論理』(勁草書房)、『クワインと現代アメリカ哲学』(世界思想社)、『観念説の謎解き』(世界思想社)、『観念論の教室』(ちくま新書)、『ローティ』(ちくま選書)、『カント入門講義』(ちくま学芸文庫)、Inquiries into Locke’s Theory of Ideas(Olms)、 The Lost Paradigm of the Theory of Ideas (Olms)、「科学哲学者柏木達彦」シリーズ全5冊(ナカニシヤ出版)、「生島圭」シリーズ全3冊(講談社現代新書)など、訳書に、R.ローティ『連帯と自由の哲学』(岩波書店)がある。

「2019年 『デカルト入門講義』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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